【SM小説】美咲凌介の連載掌編「どことなくSM劇場」第46話 彼女について

人気SM作家・美咲凌介による、書き下ろし掌編小説・第46回目は「彼女について」。“ぼく”がときどき考えてしまうのは彼女の部屋とそこを訪れた青年のこと。何者かもわからない彼女は、何かを恐れて地下の薄暗い部屋でひっそりと暮らしていた。その部屋に、何日かに一度、噂を聞いた見知らぬ男がどこからかやってきて……?

彼女のことを、ぼくは時々考える。彼女の部屋と、そこを訪れたあの青年について。彼女が何者か、ぼくにはわからない。そもそも、これは一人の女の話なのか、それとも何人かの似たような女の話がもつれあって伝わったのか――彼女は本当に普通の人間だったのか――しかしいつのまにかぼくは彼女の噂を耳にしていたし、また、静かに話し続ける彼女自身の声を聞いたことが、たしかにあるようにも思う。時には、彼女の顔さえ思い浮かべることができるのだ。夢の中で、深い酔いの中で――あるいはひょっとすると、夕闇に沈みこもうとする街角の、その細い石畳の路の上でも、ぼくは何度か彼女に会っているのかもしれない。

彼女が何を怖れていたのか、知っている人は誰もいない。しかし、彼女はきっと何かを怖れていたのだと思う。彼女はその地下の薄暗い部屋でひとり、ひっそりと暮らしている。外出は、ごくまれにしかしない。部屋の中には、枯れた花が飾ってある。その花には生きた香りがない。微かな埃の匂いだけが、その冷え冷えとした部屋に、そして彼女の身体に、しみついている。

何日かに一度、部屋の扉が静かに開くことがある。噂を聞いた男が、どこからかやってくるのだ。扉から洩れる細い光の線と共に、見知らぬ男が光を背に暗い影となって訪れ、彼女を抱く。やってくるのは、いつも別の男だ。見たことのない男――しかし、本当にそうだろうか。本当に、本当に――彼女にはわからない。彼女は自分を抱いている男の顔を、あまり見ないから。彼女は目を閉じたまま、喘ぎ声の合間に、「もう少しだけなら、もっと乱暴にしてもいいのよ」などと言ったりするだけだ。

立ち去るとき、男たちはいくばくかの金銭を置いていく。彼女はありがとう、というように静かに、そしてかすかにうなずく。しかし、本当に彼女はうなずいたのだろうか。男たちは、だれもがそう思う。まちがいなく、本当に――? 改めて見直してみると、彼女は横顔を見せて、まるでそれは動くはずのない彫像のようだ。

そうやって彼女は、どれほどの時を過ごしたのか。ぼくには――そしてきっと彼女にも、それはもうわからなくなってしまった。数年か、数十年か、あるいはもう数百年が過ぎ去ってしまったのかもしれない。夜、その部屋にたちこめる闇の中には、たしかに積み重なった時の淀みがあり、それが、訪れるどの男にも、かすかな寒けを催させるのだった。そういえば彼女は、いつも古い毛布にくるまっていた。毛布に描かれている大きなうす赤い花が、暗がりの中で時折ゆれた。

ぼくは彼女が語る声を聞いたことがある。たしかに、そんな記憶がぼくの心のどこかに残っている。「わたしは」――と、彼女は言うのだった。「わたしはいつも、間違えてばかりいました。わたしがここから出たくないのは、こうしていれば、もう間違えずにすむからです」

それが彼女の毎日だった。その毎日そのものが間違いではないかと、彼女は考えたことがなかったのだろうか。ぼくにはわからない。

その青年だけは最初から、ほかの男たちとは違っていたのだという。青年は彼女の静かな部屋の中で、ひとり快活に笑い、自分の持ってきたパンを彼女と共に食べたりした。

「君が食べる様子を見たい」と、彼はねだったのだという。「君が笑う顔も、君が怒る声も」

彼女はゆるやかに首を横に振ると、かすかにほほえんだ。

その部屋の中に季節はなかったが、外の世界では短い春が終わろうとしていた。その青年が彼女に何を語ったのか、ぼくには想像できるような気がする。彼は花について語ったのではないだろうか。それから風や木漏れ日や、鳥の声――そして、最後に彼は、こう言ったのではないだろうか。

「花を見たことがあるかい?」

「花なら」と、彼女は答えたかもしれない。

「花なら、ここに――この花瓶に。そして、この毛布の上にも咲いているわ」

「それは死んだ花だろう」

青年は優しく答えただろう。

「ぼくが言っているのは、生きている、本当の花のことだよ」

「わたしはこの花で十分です。生きている花なんて」

「生きている花なんて?」

「わたし、怖いわ」と、彼女は言った。

青年の手に握られた彼女の手はほっそりとしていて、それが小刻みに震えていたのを、彼は後になってもなかなか忘れられなかったという。数段しかない石の階段をのぼり、扉の前まで来ると、彼女はためらって足をとめた。扉と壁の細い隙間から、細い光の帯が流れ、その中を無数の小さな生き物が泳ぐように、埃が舞っていた。

「怖いわ」と、彼女は言った。

「何でもないよ。何も怖いことはない。すぐに花が見られるよ」

そう言うと、青年は力をこめて扉を押した。

光が跳ね上がり、風が流れた。土の匂いがする。どこかに川があるのだろう。水の流れる透き通った音が聞こえた。蜜蜂の羽根。何かが光る。

何かが光っている。何か小さな、たくさんのものが――おびただしい数の蝶が、咲き乱れた名も知らぬ花に群がっていた。その数えきれない真っ白な羽根が、春の終わりの日の光を受けて瞬いているのだった。風が吹いた。風が吹く度に、その蝶の群れがゆるやかに動いた。

「きれい」

彼女は言った。

「ああ、なんてきれいなの」

彼女は何を怖れていたのか――それが今、ぼくにはわかるような気がする。彼女はきっと、この瞬間を怖れていたのだ。

世界が美しいと思える瞬間を。つまり、生きるということの意味が――いや、ぼくにはやはりわからない。

彼女が青年の顔を見上げると、彼はぼんやりと空を眺めているようだった。あるいは雲を見ていたのかもしれない。悪いことをする子供の目つきで、彼女は色のない薄い唇を軽く噛み、青年の顔を見つめた。それから、青年の手をそっと振りほどいた。間違ってばかりいたという彼女の、それは最後の間違いだったのかもしれない。あるいは間違ってばかりいた彼女は、最後に一つだけ、間違わずに決意したのだろうか。ぼくにはわからない。

彼女は足音をたてずに、咲き乱れる花に向かって歩いていった。青年はふと気づいたように、その後ろ姿を眺めた。それから何かをあきらめた表情で、小さく首を横に振り、また空を見上げた。次に視線を戻したとき、彼女はどこにもいなかった。

青年は、落ち着いた足取りで歩き始めた。歩きながら、彼はこんなことを考えていたのだという。

長いあいだ、彼女は死んでいるのも同然だった。そしてさっき、一瞬のあいだに生き、そして今ではどこにもいなくなった。彼女はいない。だからもう、彼女を愛することはできない。

急ぎ足で夕暮れが近づいてくる。無数の白い蝶の群れは、風に運ばれて徐々に遠ざかっていった。

◆おまけ 一言後書き◆
どうもこのところ、最後に人が死んだりいなくなったりする話が続きすぎましたかね? ご容赦ください。次回はまったく違うタイプのお話をお届けすることにします。

2022年7月14日

美咲凌介(みさきりょうすけ)

1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。

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