『トム・ソーヤーの冒険』―トムはなぜ鞭打たれたのか| SM小説家美咲凌介の名著・名作ねじれ読み<第3回>

大好評の連載第3回目。SM小説家の美咲凌介が、名だたる名著を独自の視点でねじれ読み!今回は『トム・ソーヤーの冒険』。あの名作を、斬新な視点で読み解いてみませんか?

SMと言えば鞭ですよ?

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SMという言葉から真っ先に連想するものは何か。鞭か、緊縛か、蝋燭か。あるいは、逆さ吊りか三角木馬か。答えは人それぞれで、金子みすずではないが、「みんなちがって、みんないい」――それとも世の良識ある人にとっては、「みんなちがってみんなよくない」――のか、ともかくそれは、人の好みのちがいにすぎない。

そのことをふまえた上であえて言いたいのだが、わたしにとってSMと言えば、何よりもまず「鞭」(あるいはその代用品)である。これは、わたしがSM小説を書こうと思いついたときからの固定観念のようなもので、今、改めて「なぜ鞭なのか?」と自問してみても、その理由がすぐにはわからない。とにかく気がついたときには、SMという語と、鞭という語が、頭の中で分かちがたく結びついていたのである。そこで今回は、なぜこれほど鞭に心惹かれてしまうのか、という問題を糸口に、SMというものについて考えてみたい。

「SMと言えば鞭」とはいっても、別にわたしが自分で実際に鞭を振り回して他人を打ちのめしたい、あるいは鞭で他人から打たれたい、と思っているわけではない。「SM小説を書いたことがあります。」と人に言うと、しばしば「やっぱり、自分で体験しなくちゃ、いいSM小説は書けないでしょうねえ。実生活でも……」といったような返事をもらうことがあるが、これは私小説的偏見とでもいったものではあるまいか。

この偏見がばかばかしいということは、推理小説にあてはめてみると、すぐにわかる。推理小説を書いている人に、「やっぱり自分で人を殺してみなくちゃ、いい殺人の場面は書けないでしょうねえ、あなた、実生活でも……」などと言う人はいないだろう。つまり、推理小説に関しては、人は作家の実生活と作品とのあいだに明確な線引きをしているのだが、SM小説(あるいはもっと広く官能小説)になると、なんだか急にその線引きが怪しくなってくるようなのだ。これは全く不公平なことのように思う。

だが、「では、実体験は全く関係がないのか。」と問われると、それがそうでもないらしい。 imaegi03

なぜ鞭なのか

ともかく、わたしは自分で鞭を振り回すことはなくても、鞭を振り回す人間が出てくる文章は、ずいぶんとたくさん書いてしまった。なぜだろうか。

これは、わたしにとって、鞭というのが、割合に日常的な道具に思えたからではないか、という気がする。もちろん、この二十一世紀になった日本で鞭をむやみに振り回している人は見かけない。しかし、ほんの少し時代や場所をずらせば、人が人を鞭で打つことは、ふつうに行われていたのである。

そこで、今回の名作『トム・ソーヤーの冒険』の出番となる。この本は、今から百年とちょっと前の一八七六年に発表された。主人公トムの年齢ははっきり書かれていないが、乳歯が抜ける話が出てくるので、だいたい十歳くらいだろうか。両親は亡くなり、腹違いの弟シッドとともに、ポリー伯母さんに育てられている。読んだことのある人はとっくにご存じのことだろうが、この少年は、殺人事件を目撃したり、その容疑者の冤罪を晴らしたり、海賊ごっこをしに出かけて死んだと思われたり、洞窟の中でガールフレンドと二人、迷子になって今度は本当に死にかけたり、ところがどっこい、その洞窟で宝を発見したりと、次々に冒険を繰り広げる。

この小説の書き出しの部分に、トムがポリー伯母さんの鞭から逃げ出す、という場面がある。そのときのポリー伯母さんの言葉。

「いまいましい子だねえ。わたしは、いつまでだまされてばかりいるんだろう。あんな手には、これまでもさんざん乗せられたんだから、もういいかげん懲りていいはずなのに。……略……ほんとうに手に負えない子供だけれど、死んだ実の妹の忘れがたみだと思うと、かわいそうで、なんとなく鞭を当てる勇気が出ない。許してやるたびに気がとがめるし、鞭を当てるたびに、この年寄りの胸は破れそうに痛む。……略……」(大久保康雄訳)

これを読むと、当時、保護者が子供を鞭で打つことは、ごく普通に行われていたことがわかる。また、ポリー伯母さんが「許してやるたびに気がとがめる」と言っているところから、しつけのために鞭を使うのは、むしろ義務と考えられていたこともわかる。

トム・ソーヤーに関するデマ

『トム・ソーヤーの冒険』には、ほかにもトムが鞭で打たれる場面が何か所かあるのだが、この「トム・ソーヤーと鞭」に関して、少し前に妙な話が出回った。

それは、北海道で男児が山に置き去りにされて行方不明になったが、しばらくして無事見つかった、という事件に絡んで出てきた話のようだ。そのときに、「男の子が見つかってよかった。しかし、それだけで話を終わらせてはいけない。子どもは、叱るときには、きちんと叱るべきである。あの『トム・ソーヤーの冒険』でも、行方不明事件を起こしたトムに反省を促すため、先生はしつけとして鞭を振るったのだ。」といった内容の説が流れた――しかも、ちょっといい話のように受け止められていたらしい――のである。だが、結論から言うと、この話はまったくのデマだった。

このデマは、一応『トム・ソーヤーの冒険』のストーリーをふまえてはいる。トムは、親友のジョー・ハーパー、宿無しハック(ハックルベリー・フィン)の二人とともに、海賊になろうとミシシッピ川の中にある島へ冒険に出かける。そして、町の人々が「三人は水死した。」と思い込んで葬式を執り行っているところに再び現れ、センセーションを巻き起こす。けれども、ここで先生が反省を促すためにトムを鞭で打った、という場面は全くない。トムが鞭で打たれるのは、これとは全く別の場面なのだ。

ここでは、誰が嘘を広めたのかとか、誰がそんな嘘にころりとだまされたのかとか、そういった攻撃的な話をするつもりはないので、この話の出所については触れない。わたしがここで問題にしたいのは、この話を耳にしたときの、わたし自身の反応、およびそれについて考えたことなのである。

初めにその話に触れたときのわたしの反応は、「あれ? トム・ソーヤーって、そんなSM的な話だったか?」というものだった。

そう。「反省を促すため鞭で打つ」あるいは「鞭で打たれて反省する」というのは、きわめてSM的発想と言っていい。

多くのSM小説では、サディストの側は、ほとんど何の非もない人物に対して、反省しろと理不尽な迫り方をする。責められる側(つまりマゾヒストの側)としては、反省しなければならないようなことは全くしていない。してはいないのだが、あくまでがんばってそのまま耐えることもない。(そうなるとSM小説にならないので。)どこか適当なところで理不尽な要求に屈服し、恥辱に塗れながら、認める必要のない自分の非を認め、反省する――というよりも、反省したことにさせられる。それから調教なるものが始まり、快楽と辱めを交互に与えられながら、ついにはサディストに奉仕することに喜びを見出すようになる……。

と、こんなふうにまとめてしまうと、たいへんばかばかしくなってしまって恐縮だが、(わたしがかつて書いたものも含めて)たいていのSM小説というものは、こうした構造を持っている。これを、ある種の嗜好を持つ人にとって、なんとかばかばかしくないように――できればこの世ならぬ美しさすら感じさせるように――描くのが、小説家の手腕ということになるだろうか。

というわけで、鞭で打たれて反省する、あるいは無理やりに反省させられる、というのは、きわめて「SM的なモチーフ」なのだが、これがまたきわめて「非トム・ソーヤー的なモチーフ」でもあるのだ。読んだ人はわかると思うが、トム・ソーヤーは反省などしない。少なくとも、先生に鞭で打たれたからと言って反省などしない。悪ガキなのだ。

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