『トム・ソーヤーの冒険』―トムはなぜ鞭打たれたのか| SM小説家美咲凌介の名著・名作ねじれ読み<第3回>

トム・ソーヤーが鞭打たれた本当のわけ

トムが学校の先生から鞭で打たれる場面は、たしかにある。一つは、トムが仲よくなりたがっている少女、ベッキー・サッチャーが学校に初めて登場したときの場面である。その日、トムは登校途中、宿無しハックを相手に自分の抜けた歯とダニの交換をしていて、遅刻をした。ふだんならトムは、ハックと話をしていたなどとは決して白状しない。(ハックは世間の大人たちから嫌われていたので。)だが、この日ばかりは、遅刻の理由を問われ、正直に「ハックルベリー・フィンと話をしていたんです。」と告白してしまうのだ。なぜか。それは、ベッキー・サッチャーの隣の席が空いているのを、目ざとく見つけたためである。当時は罰として、男女を隣同士の席に並ばせるということが行われていた。ベッキーと親しくなりたいトムは、わざとその罰を受けようと思ったわけ。トムがハックといっしょにいたと知った先生は、予想通り激怒する。

先生は腕が疲れるまで鞭をふるい、鞭の柄が折れてしまった。つづいて、つぎのような命令が下った。

「さあ、女生徒の席へ行って坐りなさい。恥ずかしいと思ったら、すこしはこれに懲りるんだ」(大久保康雄訳)

むろん、トムは大喜び。反省などするはずもない。

もう一つ、トムが鞭で打たれる場面がある。これも実は、ベッキー・サッチャーが絡んでいる。こちらのほうが有名かもしれない。

例の海賊ごっこから生還した翌日、トムは学校でヒーローとなるが、以前けんかをしたベッキーとの関係は、まだぎくしゃくしたまま。その昼休み、ベッキーが先生の大切にしている解剖学の本を破ってしまった。鞭で打たれる、と嘆くベッキーを見て、トムは――

「女の子って、なんて変ってて、ばかなんだろう。学校で一度もぶたれたことがないって? へん、ぶたれたのが何だっていうんだ!……略……ベッキー・サッチャーにとっては、さだめしつらいことだろう。どうにも逃げ道はないんだから」トムは、ちょっとそのことを考えてから、つけ加えた。「なあに、かまうもんか。あいつは、おれが同じ目にあえばいいと思ってるんだから――勝手に泣きべそをかくがいい!」(大久保康雄訳)

こう思っていたトムだったが、いざとなると、「破いたのはぼくです!」と宣言して、ベッキーの代わりに鞭を受けたのである。

まことに英雄的な態度で立派だが、これはかばった相手が自分の惚れている女の子だったという点で、かなり割り引いて考えなければならない。本を破ったのが他の女の子だったら、たぶんトムはこんな犠牲的行為には走らなかっただろう。ともかく、こういういきさつなので、トムに反省の心など生じるはずもないわけだ。

それどころか、トムたちは後に、学芸会の大切な場面で、天窓から吊り下げた猫の爪に引っ掛けて、この先生のカツラを剥ぎ取るという暴挙に出ている。そのうえ、あらかじめ先生が寝ているあいだに、ハゲ頭を金色に塗っておくという念の入れようだ。

要するに、『トム・ソーヤーの冒険』では、先生は鞭を振り回すことは振り回すのだが、終始トムの企みに利用される存在であって、最後にはハゲがばれるという辱めまで受けてしまう。SMに無理に当てはめようとすると、鞭を持つサディストが、本来マゾヒストが受けるはずの辱めを受けるということになって、どうにも格好がつかない。(これはSとMが入れ替わるという、SM小説の典型的一パターンとは、また別の事態。)

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体罰の時代

ともかく、当時、教育の現場で鞭が用いられていたことは明らかである。つい百年ほど前までは、鞭は人に対して用いる、日常のリアルな道具だったわけだ。つまり、『トム・ソーヤーの冒険』が書かれた時代、教育と言えば体罰の時代だった、と言えるだろう。

この作品の中で、作者のマーク・トウェインは、体罰について特に批判はしていない。トウェインにとって、体罰は別段、批判の対象になるものではなく、当たり前にそこにあるものだったのだろう。ただし、彼は、教育そのものに深い疑念を抱いていたように思われる。トム・ソーヤーは悪ガキだが、友情に厚く、勇気のある少年だ。だが、そうした彼の美質が教育によって――少なくとも学校教育によって培われたようには、トウェインは書いていない。むしろ、トムの美質は、彼が学校教育を拒否し、先生の言うことを何一つ守ろうとしなかったからこそ育ったのだ、とでも言いたげな気配がある。

ここでさらに、わたしの個人的な体験をつけ加えてみる。実は、わたしも高校時代、先生から鞭で何度も打たれたことがある。というと、なんだか耽美的な体験でもしたようだが――全くそんな話ではありません。わたしが四十年ほど昔に通ったのは私立の男子校で、教師が体罰を行うというので有名なところだった。

ここで鞭と言っているのは竹刀をバラした竹のことで、これで生徒の尻やら太腿の裏やら、時には首の辺りやらを打つわけである。(かなり痛いです。)わたしは、古文の形容詞のシク活用がうまく唱えられないという理由で、首筋をしたたかに打ち据えられ、学生服のカラーが割れて皮膚を破り、少々血を流したこともあったと記憶している。(念のため断っておくが、わたしはかなり真面目な部類の生徒だった。)

当時としても少し行き過ぎのように感じられたが、なにぶん親がその体罰を喜んでいたのだから、どうしようもない。今は亡きわたしの母などは、三者面談のときに、「うちの息子はいくら叩いても結構ですから、先生、ぜひ厳しく、とにかく厳しく。」などと担任に頼みこんでいた。「おいおい、殴られるのはあなたじゃなくて、このぼくですよ?」と思ったことを、今も忘れずにいる。

「SMと言えば鞭」と連想するのには、わたしのこうした読書体験や実体験が、なんらかの関係を持っているのはまちがいない、と思う。

SM小説は体罰小説?

思うに、SM小説というものには、体罰小説という側面がある。この手の小説では、体罰が(世間的には悪い意味で)見事に効果を発し、登場人物の一人ないし数人は、「教育」(つまりは虐待や洗脳)によって「マゾヒスト」へと生まれ変わるのである。ボーヴァワール風に言えば、「人はマゾヒストに生まれるのではない。マゾヒストになるのだ。」ということだろうか。

だが、ちょうど『トム・ソーヤーの冒険』が、なんとも非SM的であるように、体罰があまりにも当たり前にある世界では、かえってSM小説は成り立ちにくいようにも思われる。なぜなら、体罰が横行する世の中では、「実は体罰はあまり効果を持たない。」ということが、ばれてしまうからだ。

これは、わたし自身の体験からも、はっきり言える。高校時代よくビンタを張られたり、鞭で打たれたりしたものだが、それでわたしが少しでも立派に教育されたかというと、はなはだ疑問だからである。しかも、体罰を受けてもちっとも反省しないという点では、わたしもトム・ソーヤーと変わるところはなかった。となると、わたしの高校時代の体験は、「SMといえば鞭」という固定観念へと向かわせると同時に、わたしをSM的世界から引き離す、という矛盾した効果をもたらしていたのかもしれない。

なんといっても、体罰というのは、それを受ければそれで済む、というところが役に立たないというのか、逆にすばらしいというのか――とにかくそこには、一種の気楽さがある。「課題をやらなければ。だが眠い。いいや、寝てしまえ。ビンタ張られればそれで済むじゃん。」というわけ。

今こそSM?

現にそこにある――ありすぎるほどにあるものからは、幻想は生じない。しかし、SM小説には、体罰が有効だという幻想が必要である。とすれば、体罰はよろしくない、ということになっている現代のほうが、SM的なものが成り立つ要素を強く持っているのかもしれない。

体罰は禁じられてこそ、性的興奮につながるはずだからだ。

プロフィール

美咲凌介(みさきりょうすけ)

1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。

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初出:P+D MAGAZINE(2017/06/27)

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