ヤマ王とドヤ王 東京山谷をつくった男たち 第二回 ルーツは相撲取り
祖父の存在
仁之助の長女、すみ子さんに電話で話を聞いた時、最初は口が重かったのには理由がある。
「父はおじいちゃんの影響をすごく受けていると思います。つらい環境を強いられたけど、根っこのところはおじいちゃんの厳しい指導があったからだと。福井から裸一貫で出てきて、相撲であそこまでのし上がったんだから」
私が仁之助について取材をしていると伝えると、「仁之助の成功の裏には祖父の力が大きい。そこをまず理解して欲しい」とすみ子さんは言うのだ。要するに、祖父の偉業を踏まえた上でなら話をする、とのことだった。
仁之助の父、帰山仁吉は、高砂部屋の幕内力士である。四股名は大緑仁吉。梅ヶ谷、常陸山という二大横綱が、明治の黄金時代を築いた時期に、前頭三枚目として土俵を踏んだ。幕内在位は7場所、成績は24勝22敗14分。
『大相撲力士名鑑』(平成13年版、共同通信社刊)には、化粧まわしを締めた仁吉の写真とともに、こんな説明が加えられている。
<長い手、長い足の細い体の力士。地味で真面目な性格は力士の間で評価が高く、相手が不義理をしても決して責めたりしない剛腹な面も持ち合わせていた。相撲は左四つに食い下がっての寄りを得意とし、明治41年春場所に十両で6勝2分の土付かずの成績で翌夏場所に入幕。好成績を3場所続け、43年春場所には3枚目に昇進。しかし、以後は下降線をたどり十両に落ちて引退、年寄となったが廃業した。後に瀬戸物業で財をなし、簡易宿泊所を建てて多くの流浪者を救済した。>
「簡易宿泊所を建てて……」のくだりは恐らく、仁之助と間違えて説明しているのだろう。
大緑仁吉は、福井県足羽郡福田村(現・福井市東郷二ケ町字福田)の出身。20歳の時に上京した。相撲取りになる考えは全くなかったが、滞在先の親戚が相撲見物に連れて行ってくれ、本場所の雰囲気にすっかり魅せられた。偶然にも、相撲茶屋・高砂屋のせがれの妻が同郷だった縁で、高砂屋に行った。そこで「身長が高いので相撲取りになったらどうか」と勧められ、話が進んで高砂部屋へ入門することになったのだという。ところが実家からは「相撲取りは道楽商売だ」と猛反発されたため、「一生懸命に修行して一人前の力士になります。人がどんなに道楽をしても自分は行を慎んで、真面目に世渡りをしてみます」と誓いの手紙を送り、角界入りしたのだった。
10年以上に及ぶ力士生活を経て、32歳で引退、結婚した。年寄株の大山を8代目として襲名し、副業として瀬戸物業も営んだ。
その後は火災や関東大震災で店を失ったが、その度に店舗を新築し、商売を続けた。還暦を迎える直前に、高砂部屋の関脇に名跡を譲って廃業した。『野球界』(昭和34年に廃刊)という月刊誌に寄せた手記で、仁吉は次のように綴っている。
<襲名についてのお話が出たから申しますが、私が高登関へ株をお譲りして得た金及び協会から贈られた金というもの、之等は私が力士になったればこそ手に入った。私にとっては意義ある金ですから、どうか意義あるように使いたい。これをみだりになくしては済まないと思いましたから、私はその金額に尚、自分のものを足して1万円として葛飾区の畑地を買い、郷里の東郷村、自分の生まれは福田区および郷里の菩提寺永昌寺へ納めました。地所で納めてこれから生じた収入の半分をそれぞれ村、区および寺で使い、残りの半分は積み立ててゆくような方法を立てたのであります。>(旧字体は変更)
年寄を廃業したのは昭和13年。その当時の1万円は、日本銀行の企業物価指数(企業間で取引される商品の価格変動を示す指数)でみると、現在の貨幣価値で518万円に相当する。消費者物価指数は戦後しか公表されていないが、それで測ると1千万円前後に膨れ上がる可能性がある。つまり、仁吉はある程度のまとまった金を持っていたことになる。
すみ子さんによると、仁吉は家を貸したりもしていたそうだ。
「祖父は家作をいくつも持っていました。家作というのは貸家のことです。土地を買って貸したりもしていました。それが戦後の父(仁之助)の財産になっているんですよ」
相撲取りと瀬戸物業で成した財が、その後の糧になっているのは間違いないだろう。それが長男の仁之助に引き継がれる形となったが、仁吉の育て方は、とにかく厳しかった。すみ子さんの回想。
「祖父は自分が苦労してきたから、仁之助を奉公に出させたんです。行く先も何も教えず、とにかく家を出て自分でやれと。どういうつてを辿ったのかは知らないですけど、父は大阪に行ったんです。それで、何年か修業しました」
祖父、仁吉の教えについては、仁之助もスピーチの中で言及している。
「うちの親父は相撲なんかをやっとったんです。まあどっちかといえば、人気商売のようなもんですけども、その関係で、堅い商売をしなきゃいけないってことで、瀬戸物屋を始めました。せがれを、遊ばしちゃいけないっていうんで、親父に散々怒られながら瀬戸物屋をやっておりました」