ヤマ王とドヤ王 東京山谷をつくった男たち 第九回 山谷と吉原


 

ヒモつき売春婦

 山谷に売春婦が出没するようになったきっかけについて、帰山仁之助が生前、興味深い話をしている。今から半世紀近く前の昭和45(1970)年暮れ、浅草ロータリークラブで開かれた例会で、仁之助がある事件について言及した。その肉声が収録されたカセットテープは、甲高い声でこのように伝えている。

「山谷は労働者の町だったわけです。まあ当時、家のない夫婦者が出てくる。そんな中にはいわゆる売春婦がおりまして、山谷に住まって、上野でもって商売をしていたわけなんですね。そうするとたまたま、今の田中栄一さんが、この警視総監当時に、上野の山でもって、警視総監が殴られるっていう問題がありまして。今度は上野がものすごい売春婦の大弾圧を被ったことがありまして。上野にはまあ、その日から1人も売春婦が立たなくなったと同時に、この山谷で今度は商売を始めたんですね。山谷がそれからしばらくするうちにまあ、売春婦がどっさり立つようになりまして、お隣の吉原さんをしのぐような売春問題……」

 それは昭和23(1948)年11月22日夜に起きた。今ではあり得ない事件だが、警視庁のトップである警視総監が、男娼に暴行を受けたのだ。翌日の毎日新聞朝刊は「“夜の男”の集団暴行 警視総監殴らる 上野で記者ら袋叩き」という見出しで報じている。記事によると、田中栄一警視総監ら一行は、上野の山で行われた「狩り込み」(街娼・男娼・浮浪児などの一斉検挙)を視察していた際、男娼のグループに遭遇した。警視総監に随行していた新聞社のカメラマンがフラッシュをたいて総監の視察する姿を撮影し始めると、自分たちが撮られたと思い、怒った男娼たちがカメラマンにつかみかかって大乱闘になったというのだ。この混乱の中で、男娼から一撃を浴びた田中警視総監は「上野の山からいかがわしい男女を一掃すべき」だと怒りをぶちまけ、取締を強化した。この結果、山谷に売春婦が立つようになったというのだ。
 戦後、上野の地下道に溢れていた浮浪者たちは、仁之助ら地元の有力者たちによって、トラックで山谷へ搬送され、進駐軍から払い下げられたテント村に収容された。昭和22(1947)年4月には、山谷にテント・ホテル7棟が建ち、約3300人が泊まったとの記録がある。バラックのような簡易宿泊施設もすでに建てられていたため、事件が起きた頃には、山谷は日雇い労働者の街として復興しつつあった。だから仁之助の発言通り、上野を逃れた売春婦が山谷へ辿りつき、そこで客を取っていた可能性は考えられる。昭和29年6月20日付の読売新聞には、山谷の売春婦に関する記述もみられる。

 ここのドヤ街にたむろする“夜の女”は千人を超すといわれ、服装がひどくきたないうえ料金も安いのでジキパン(こじきパン助の意味)と呼ばれている。四十代の年増女もいれば、男しょうも出没するのがここの特徴。これら“夜の女”たちは全部ヒモつきで、ドヤ街のボスたちの食いものにされている。

 山谷に生きた売春婦たちの多くは、ヒモつきだった。東京都民生局が出版した『東京都の婦人保護』(昭和48年)の中でも、元婦人相談員が同じような指摘をしている。

 山谷の売春の特徴は、90パーセントが家族持ち(ヒモを含む)で、平均年令が高く、生きるためにぎりぎりの行為が多い

 昭和30年代に入ると、簡易宿泊施設は200軒を超え、宿泊者数は約1万5千万人に達した。そのうち半数が日雇い労働者の単身男性で、残りは夫婦と少数の子供だった。日雇い労働者たちは必然的に酒と女に溺れた。夫や情夫とともに、山谷に居住する女性たちは、生活費のため、仲間と一緒に単身男性に春をひさぎ、それが習性と化して夫がヒモになっていった。ヒモの中には、上野駅周辺に張り込み、東北から家出した娘を手なずけ、情婦にしてから山谷に連れ込んだ者もいたという。こうした背景から、山谷で立ちん坊と化す売春婦が増えていったため、明るい旅館街の実現を目指した仁之助たちが動き出し、プラカードを掲げたデモ行進も行った。

 最近山谷の旅館の多くは、真面目な労務者たちの定住で明るい街に変りつつある。好んで夜の女を泊める必要はない(朝日新聞、昭和32年10月16日)

 その当時ですね、吉原の場合は、それほど、警察のほうがうるさくなかったんですけど、旅館業者に対しては場所提供ってなことで、とっても取締がやかましいんですね。で、同じ我々も、お客さんから同じ料金を取りながら、売春婦を泊めれば処罰される。労働者を泊めれば、これはもう厚生省とか民生局から大変喜んで頂けるとのことで。これはもう売春婦を山谷から追放しなきゃいけないと(前出のカセットテープより)

 山谷から売春婦が消え始めたのはいつ頃だったのかは定かでないが、「ここに売春婦も来たことは来たけど、本当にほんのわずかの間だった」という仁之助の証言や、新聞記事などから考えると、東京オリンピック開催以降とみられる。その時をピークに、山谷の日雇い労働者の数もまた、減っていった。

 

〈次回の更新は、2019年9月ごろを予定しています。〉

プロフィール

ヤマ王とドヤ王 水谷竹秀プロフィール画像

水谷竹秀(みずたに・たけひで)

ノンフィクションライター。1975年三重県生まれ。上智大学外国語学部卒業。カメラマンや新聞記者を経てフリーに。2011年『日本を捨てた男たち フィリピンに生きる「困窮邦人」』で第9回開高健ノンフィクション賞受賞。他の著書に『脱出老人 フィリピン移住に最後の人生を賭ける日本人たち』(小学館)、『だから、居場所が欲しかった。 バンコク、コールセンターで働く日本人』(集英社)。

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初出:P+D MAGAZINE(2019/06/23)

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