ヤマ王とドヤ王 東京山谷をつくった男たち 第十三回 「福祉宿」の女将が見た山谷

 

パン助とヒロポン中毒者のたまり場

 その頃の宿泊客について、菊地さんにはこんな記憶が残っている。
 パン助──。
 売春婦を卑しんで呼ぶ言葉のことだ。昭和30年代、山谷や浅草には夜になるとどこからともなく立ちん坊が現れ、路上で客引きをやっていた。その一部が、登喜和にも宿泊していたというのだ。
「3畳間に夫婦で泊まり、奥さんを外へ働きに行かせて、旦那は何もやっていませんでした。要するにヒモです。うちの旅館にそういうのが何組かいて、年単位で泊まっていましたよ。うちの部屋でやってたんだと思いますけど、私は直接見ていません。あとはおかまもいました。綺麗で、背の高い人だったんだよ。銀座に男を捕まえに行ってたみたい。今みたいにおおっぴらにできないから家にいられず、やむなくうちに来ていたのかもしれないね」
 山谷のパン助については、『おもいがわ─山谷に生きる女たち』(宮下忠子著、筑摩書房)に詳しい。著者の宮下さんは、城北労働・福祉センターの医療相談員として働く傍ら、彼女たちの生き様を徹底的に取材している。あるパン助は、東北の貧しい地域で生まれ育ち、口減らしで東京に出され、売春婦として生きていくしかなかった。そんな境遇の女性たちが夫のために体を売り、山谷の簡易宿泊所に暮らしていた。
 登喜和には日雇い労働者も宿泊していたが、菊地さんの脳裏に今も浮かぶのは、彼らが帳場の部屋にたむろしている姿だった。
「ヒロポンって知ってます? 覚せい剤の。注射器で打ってたの見たことあるよ。帳場に大きい火鉢が置いてあったの。そこへみんな集まってやってました。昔は番頭と親しみやすかったのか、労働者たちが帳場の中まで入ってきました」
 登喜和から30メートル先の都電通り(現・吉野通り)では、労働者と警察が対峙する暴動も多発した。泪橋交差点の近くで車が転倒し、炎上した場面も目撃した。登喜和の側面にあるガラス窓と面格子の隙間には、ベニヤ板が今も挟まったままになっているが、それは暴動による投石を防御するためだった。
「窓ガラスが割られたことはありませんが、当時は暴動が旅館のほうまで迫ってきましたから。それで父親がベニヤ板をはさんだんです。取り出すのがめんどくさいからそのままにしてあります」


暴動による投石を防御するために挟み込まれたベニヤ板
 

 ピーク時には約1万5000人の日雇い労働者で溢れた山谷。宿泊所はどこも満室で、入りきらない労働者たちは、タクシーで別の宿泊所まで運ぶほどだったと、菊地さんが振り返る。
「千住大橋の親戚が経営している宿泊所まで運んだことがあります。当時でタクシーを使うぐらいだからよほど必要に迫られたってことだよね。旅館は何軒あっても足りないわねって、身内で話していたぐらいだから」
 当然のことながら宿主たちは羽振りが良かった。
 菊地さんは1980年代半ば、長女を連れてエジプトを旅行している。続いてスペイン、ハワイ、香港と、海外旅行がまだ高嶺の花だった時代に、家族の誰かが飛び回っていた。多数の宿泊所を保有し、山谷の街を牛耳っていた一部の宿主たちは、もっと豪華な暮らしを送っていたことだろう。ところがオイルショックの影響で街から労働者が減っていき、時代が平成に変わってバブルが崩壊すると、失業者が相次いだ。生活保護に頼る人々が増え始め、やがて山谷は「福祉の街」と呼ばれるようになる。その過程で菊地さんは、夫が早世し、続いて父、そして母も亡くなった。
 そんな彼女が本格的に登喜和の女将を引き継いだのは、母が亡くなる数年前。ちょうど日韓ワールドカップが開催された2002年頃で、山谷の一般宿が、試合観戦のために来日した外国人観光客の受け入れに乗り出した時だった。これが端緒となって山谷には外国人が訪れるようになったが、登喜和はその他の多くの宿泊所と同じく、福祉宿のままだった。

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