連載第6回 「映像と小説のあいだ」 春日太一

映像と小説のあいだ 第6回

 小説を原作にした映画やテレビドラマが成功した場合、「原作/原作者の力」として語られることが多い。
 もちろん、原作がゼロから作品世界を生み出したのだから、その力が大きいことには違いない。
 ただ一方で、映画やテレビドラマを先に観てから原作を読んだ際に気づくことがある。劇中で大きなインパクトを与えたセリフ、物語展開、登場人物が原作には描かれていない――!
 それらは実は、原作から脚色する際に脚本家たちが創作したものだった。
 本連載では、そうした見落とされがちな「脚色における創作」に着目しながら、作品の魅力を掘り下げていく。


『人間の証明』
(1977年製作/原作:森村誠一/脚本:松山善三/監督:佐藤純彌/製作会社:角川春樹事務所)

「息子が死にました。私が殺したんです」

 ニューヨークの黒人居住区「ハーレム」から日本にやってきた青年・ジョニー(ジョー山中)が何者かに刺され、平河町の高級ホテルのエレベーターで息絶える。棟居刑事(松田優作)ら麴町警察署の面々と、ニューヨーク市警のシュフタン刑事(ジョージ・ケネディ)、それぞれの捜査により、政治家の郡陽平(三船敏郎)の妻・八杉恭子(岡田茉莉子)が容疑者として浮かび上がる。彼女には、殺人を犯してまで隠さなければならない「過去」があった。

 これが、映画『人間の証明』の大まかな展開だ。森村誠一の同名原作も、そこはほとんど同じである。ただ、映画は上映時間に収める必要があるため、扱える情報量に限りがある。そのため、捜査や推理の細かい描写や事件の主筋から外れた人間模様などは原作から大きくカットされている。

 その一方で、映画版には新たに付け加えられたエピソードがある。それは、棟居によるニューヨーク来訪だ。

 原作では、棟居とシュフタンは双方交わることなく、最後まで別個に捜査を進めている。それに対して映画では、ジョニーの父親を探すべく棟居はニューヨークを訪ね、そしてシュフタンと組んでハーレムを歩き回る。原作では既にジョニーの父親は死んでいる設定のため、映画はこのシークエンスを加えるために父親の末路が脚色されているのだ。

 一連のニューヨークのシークエンスでは、街中での乱闘シーンやカーチェイスなど、大がかりなアクションが繰り広げられている。超大作映画として欠かせないエンターテインメント性が、ここで派手に盛り込まれているのである。

 だが、棟居がニューヨークを訪ねたことの意義は、それだけではない。この脚色が、ドラマとしての作劇上でも重要な効果をもたらすことになったのだ。

 まず一つ目に、棟居のドラマである。

 棟居は戦後間もない少年時代、米兵に父親を殺されていた。焼け跡の市場で公然と日本女性を集団で凌辱しようとした米兵たちを止めに入り、そのために彼らに容赦のない残虐な暴行を受け、死に至ったのだ。以来、棟居は激しく悪を憎むとともに、強い人間不信を抱くようになっていた。この設定は、映画も原作も変わらない。

 そんな棟居が、父親の仇敵の巣窟とも言うべきアメリカに渡ることで、映画版では棟居の「過去との対峙」がより鮮明に描写されることになったのだ。

 原作では最終盤で明らかになるのだが、実は棟居の父を暴行した米兵の一人がシュフタンだった。映画では、会ってすぐにシュフタンの特徴的なタトゥーが棟居の目に入ったことで、そのことに気づく。そうとは知らないシュフタンは棟居に対して快く受け入れ、捜査だけでなく生活面も含め、さまざまな世話をするなど、親切に接した。だが、棟居は決して心を開くことはなかった。

 通常の刑事モノであれば、そんな両者が捜査を通して過去の怨みを超克していく――というバディ感が盛り上がる展開になるところだ。が、本作はそう甘くない。両者は協力し合い、ジョニーの父親にたどり着き、そして決定的な証言を得るに至る。これでめでたし――というと、そうではないのだ。

 これは映画版で追加された設定なのだが、シュフタンは犯罪者であれば射殺することも厭わない。自身の仕事として、顔色一つ変えずにやってのける。そのことが、両者の断絶を決定的なものにしてしまう。

 ニューヨークの高級ホテルで棟居は、陽平と恭子の長男・恭平(岩城滉一)に遭遇する。恭平は東京でひき逃げを犯したため、ニューヨークに隠れていたのだ。棟居に追いつめられた恭平は銃口を向けて逃亡。そして、激しいカーチェイスの果てに、シュフタンに射殺されてしまう。棟居はこう吐き捨てる。

「てめえ! いったい日本人何人殺せば気が済むんだよ!」

 棟居の帰国前に両者は乾杯をするのだが、シュフタンは何事もなかったかのように上司と嬉々として釣りの話を始める。一方の棟居は鏡に写る笑顔のシュフタンに発砲、激しい憎悪をぶつけるのだ。棟居は挨拶の言葉もなくシュフタンに背を向け、去っていった。ニューヨークの描写が加わったことで、棟居の過去の傷はさらに強くえぐられたのである。

 そして、このニューヨークの重要な効果はもう一つある。それが恭子のドラマだ。

 原作に対して強化された要素として、恭子の恭平に対する愛情がある。原作の恭子は教育評論家という設定で、その商売のために恭平を利用している向きがあった。息子への愛情は表向きだけで、実際の子育ては人任せにしていたのだ。恭平を心から想う言葉はほとんど出てこない。

 それに対して映画では、恭子は恭平に熱い愛情を注ぎ続ける。特に決定的な違いは、原作の恭平が自らニューヨークへ渡ったのに対し、映画では恭平からの罪の告解を受けた恭子が橋渡しをしている点だ。しかもこの時、「悪人なら悪人らしく、最後までその苦しみを背負って生き続けるのが、あなたの責任の取り方でしょう」「つらいでしょうけど、罪を背負ってこれからどうやって生きていくかってことが、あなたの人間としての証なのよ」と諭している。恭子の過去と、犯した罪を考えると、それは途方もなく重い言葉だ。

 恭子はファッションデザイナーという設定に変っているが、彼女が夫の姓は使わずに自身の名前で必死に地位を高めてきたのは、恭平と二人で独立して暮らしていくためでもあった。映画では、恭子にとって恭平が全てなのだ。

 だからこそ、ニューヨークで恭平が射殺されたことの悲劇性もまた大きくなる。原作では恭平は逮捕されたが死んではいない。それだけに、映画では恭子の救いの無さはより過酷なものになっている。

 コンクールのパーティー会場で棟居は、恭子に恭平の死を伝える。それを受けて、授賞式の壇上で恭子が聴衆を前に述べたのが、冒頭に挙げたセリフだ。

 恭子は、二人の息子を自らの手で結果として死に至らせてしまったのだ。一人はニューヨークから自身に会いに来たために。もう一人は自身がニューヨークへ行かせたために――。ニューヨークの地で、あまりに皮肉な運命が交差していた。

【執筆者プロフィール】

春日太一(かすが・たいち)
1977年東京都生まれ。時代劇・映画史研究家。日本大学大学院博士後期課程修了。著書に『天才 勝進太郎』(文春新書)、『時代劇は死なず! 完全版 京都太秦の「職人」たち』(河出文庫)、『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』(文春文庫)、『役者は一日にしてならず』『すべての道は役者に通ず』(小学館)、『時代劇入門』(角川新書)、『日本の戦争映画』(文春新書)、『時代劇聖地巡礼 関西ディープ編』(ミシマ社)ほか。

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