連載第13回 「映像と小説のあいだ」 春日太一

映像と小説のあいだ 第13回

 小説を原作にした映画やテレビドラマが成功した場合、「原作/原作者の力」として語られることが多い。
 もちろん、原作がゼロから作品世界を生み出したのだから、その力が大きいことには違いない。
 ただ一方で、映画やテレビドラマを先に観てから原作を読んだ際に気づくことがある。劇中で大きなインパクトを与えたセリフ、物語展開、登場人物が原作には描かれていない――!
 それらは実は、原作から脚色する際に脚本家たちが創作したものだった。
 本連載では、そうした見落とされがちな「脚色における創作」に着目しながら、作品の魅力を掘り下げていく。


『Wの悲劇』
(1984年/原作:夏樹静子/脚色:荒井晴彦、澤井信一郎/監督:澤井信一郎/製作:角川春樹事務所)

「顔をぶたないで! 私、女優なんだから!」

『Wの悲劇は』は、映画史上でも最も大胆な脚色がなされた作品の一つだ。

 夏樹静子による同名原作の舞台は、山中湖にある別荘。製薬会社を営む和辻与兵衛を当主とする和辻家の親族一同が、ここで元旦を過ごしていた。ある晩、親族たちが集まっていると、一族の一人で女子大学生の摩子が与兵衛の部屋から飛び出してくる。そして、与兵衛を殺したことを告げた。女癖の悪い与兵衛に犯されそうになり、身を守るためにナイフを向けたところ偶発的に刺してしまったのだという。外から侵入してきた強盗殺人に見せかけるため、親族たちは協力して偽装工作をする。だが、地元署の中里刑事の捜査により、その偽装は見破られていく――。

 それに対して、映画版の概略はこうだ。芽が出ずに燻り続ける劇団研究生の静香(薬師丸ひろ子)が、思わぬキッカケである舞台の主演に抜擢される――。

 物語も登場人物も、全く異なる。主人公の人物像も違う。そうなるとタイトルだけ使った別モノ――というパターンの脚色と考えたくなるところだが、そうでもない。双方には、接点がある。映画版で静香が抜擢されたのが『Wの悲劇』の舞台化作品で、静香はそこで摩子を演じることになるのだ。

 つまり、原作は劇中劇として登場しているということだ。しかも、その劇中劇は断片的な場面しか使われず、全体の物語を通しで見せることは一度もない。そのため、原作小説を先に読んでいないと、具体的にどういう物語なのかは分からない。そして、原作を劇中劇として内包したまま、映画は完全なるオリジナルの物語として進む。

 それにもかかわらず、原作の存在は映画の劇中で――ひょっとしたらそのまま映画化したと仮定した場合以上に――強烈なインパクトを残していた。それは、映画の物語が劇中劇=原作小説の内容にリンクするように展開しているからだ。

 といっても、それは後半になってからのこと。オーディションと舞台稽古の進行、チャンスにありつけずに燻り続ける静香、彼女を想って励まし続ける昭夫(世良公則)との淡い関係――そうした、静香を取り巻く状況を伝えながら、話はじっくりと進む。

 それが物語中盤に差し掛かり、それまで停滞していた展開が一気に加速する。『Wの悲劇』の公演中、摩子の母親・淑枝を演じる劇団のスター・翔(三田佳子)が宿泊中のホテルで愛人(仲谷昇)と密会していたところ、その愛人が腹上死をしてしまったのだ。スキャンダルになることを恐れた翔は、この段階ではオーディションに落ちて翔の身の回りの世話をしていた静香を呼び出す。そして、愛人と付き合いがあったのは静香であり、死んだのは静香の部屋だったと警察に話すよう持ちかける。交換条件は、摩子役をオーディションで射止めたかおり(高木美保)を降板させ、新たに静香を摩子役に抜擢するという案だ。静香は、この提案に乗った。

「主人公が身代わりに汚名を被る」という共通点を得たことで、ここで初めて原作と映画の物語は交わりを見せる。「私はおじい様を殺してしまった!」という摩子のセリフを静香がさまざまな局面で叫ばせることで、原作の摩子の設定がそれを演じる静香の置かれた状況に自然と重なるようにしている仕掛けも上手い。

 だが一方で、念願の摩子役を手に入れ、その役に没頭するほどに、オーディション前は劇団仲間から「摩子役にピッタリ」と評されていた静香が摩子から遠い人間になっていく。実に皮肉な展開だ。

 そこには、摩子と静香を全く異なる性格の持ち主として設定したことが効いている。摩子は徹底して純粋無垢な人間で、誰もが「守ってあげたい」と思うような存在である。静香もまた、周囲にそのように思われてきた。

 だが、実際はそうではない。純粋に役者への道を目指す素朴な少女――と思わせておいて、実は見栄っ張りで打算的な野心家として設定されている。

 冒頭から劇団のスター俳優・五代(三田村邦彦)と「役者としての経験のため」として好きでもないのに自身の初体験をする。また、昭夫と初めて結ばれた時も、これで恋人同士になれたと思い込む昭夫に対して「そうしたかったから」と、翌朝にはドライな態度で去っていく。そして、何かと世話を焼こうとして稽古場にまで顔を出す昭夫に「早くどこか消えてよ」とまで言い放つ。

 その一方で、静香は進んで芸能界の虚飾にまみれていく。真骨頂は記者会見の場面だ。スキャンダルを追求せんとする芸能マスコミを前に、嘘で塗り固めたエピソードを語りながら涙を流し、批判的な目をぶつけていた周囲から同情を勝ち取ってみせるのだ。

 脚光と引き換えに純粋さを捨てた静香に失望した昭夫は、静香の顔をはたく。その時に静香が切り返したのが、冒頭のセリフだ。それは、「女優」として生き抜かんとする静香のたくましさを象徴する一言だった。

 そして終盤は、そんな静香のたくましさにかつての自分自身を見た翔と、翔に導かれるように女優としてステップアップしていく静香との、バディ的な関係性が物語を引っ張る。

 ここで見逃してはならないのは、劇中劇の展開もまた決して「原作通り」ではないという点だ。映画の展開とリンクするように、実は劇中劇の終盤も原作から脚色されているのだ。

 原作では、摩子は母に頼まれて身代わりになったという展開になっている。だが、劇中劇ではそうではない。摩子は自ら提案して身代わりを引き受けているのだ。そしてラストも、原作は摩子の家庭教師である春生の視点で終わるのに対し、劇中劇は母子の悲劇的な終末で幕を下ろしている。

 どこまでも受動的だった原作の摩子が能動的で意思の強い人間に脚色されたことで、それを演じる静香とより濃厚に重なっていく。だからこそ、母子のドラマとして帰着したことでもたらされる舞台上の感動が、それを演じる二人の女優の信頼関係と重なる。そして、重なり合った二つの共犯関係が、物語に最高の盛り上がりをもたらすことになった。

 憧れていた喝采と脚光を手に入れた静香だったが、最終的にはその全てを失う。それでもなお、涙をこらえて前を向き、昭夫を頼りにせず一人で生き抜こうとするところで映画は終わる。

 映画の劇中、『Wの悲劇』というタイトルには、身勝手な男たちに苛まれる女(WOMAN)たちの悲劇という意味合いが込められていると説明されている。ただ、原作は女性たちが無力なために陥る「悲劇」なのに対し、映画版はその悲劇に立ち向かおうとする力強い女性像が描かれていた。

【執筆者プロフィール】

春日太一(かすが・たいち)
1977年東京都生まれ。時代劇・映画史研究家。日本大学大学院博士後期課程修了。著書に『天才 勝進太郎』(文春新書)、『時代劇は死なず! 完全版 京都太秦の「職人」たち』(河出文庫)、『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』(文春文庫)、『役者は一日にしてならず』『すべての道は役者に通ず』(小学館)、『時代劇入門』(角川新書)、『日本の戦争映画』(文春新書)、『時代劇聖地巡礼 関西ディープ編』(ミシマ社)ほか。最新刊として『鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』(文藝春秋)がある。この作品で第55回大宅壮一ノンフィクション大賞(2024年)を受賞。

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