連載第10回 「映像と小説のあいだ」 春日太一

映像と小説のあいだ 第10回

 小説を原作にした映画やテレビドラマが成功した場合、「原作/原作者の力」として語られることが多い。
 もちろん、原作がゼロから作品世界を生み出したのだから、その力が大きいことには違いない。
 ただ一方で、映画やテレビドラマを先に観てから原作を読んだ際に気づくことがある。劇中で大きなインパクトを与えたセリフ、物語展開、登場人物が原作には描かれていない――!
 それらは実は、原作から脚色する際に脚本家たちが創作したものだった。
 本連載では、そうした見落とされがちな「脚色における創作」に着目しながら、作品の魅力を掘り下げていく。


『疑惑』
(1982年/原作:松本清張/脚色:古田求、野村芳太郎、松本清張/監督:野村芳太郎/製作・松竹・霧プロダクション)

映像と小説のあいだ 第10回 写真1

『疑惑』
Blu-ray:3,630円(税込)
DVD: 3,080円(税込)
発売・販売元:松竹
©1982 松竹株式会社
※2023年11月時点での情報です

「嫌いだな、あたし、あんたの顔」

 富山市の港に一台の自動車が飛び込む。引き上げられた車体からは地元の富豪・白河福太郎の死体が見つかる一方、同乗していた妻の球磨子は自力で脱出していた。福太郎に三億円の生命保険がかけられていたこと、球磨子が元ホステスの後妻で前科があることから、地元新聞の記者・秋谷は彼女を殺人犯として煽る記事を書き、大衆もそれに乗った。球磨子は無実を主張するも警察によって逮捕され、裁判にかけられる。球磨子の弁護士が次々と離れる中、新たに国選弁護人として指名された佐原弁護士は、警察の捜査や検察側の証人による証言の矛盾を次々と突いていく。そして、球磨子もろとも死のうとした福太郎による無理心中という真実に行き着く。

 以上が、松本清張原作『疑惑』のあらすじだ。ここは映画も概ね同じだ。が、それ以外は全く異なっている。

 映画でも球磨子(桃井かおり)のキャラクターは変わらない。無実を主張しながらも、一方では気に入らないことがあれば弁護士にも食ってかかる。そんな、粗野でヒステリックでありながら、強い自尊心の持ち主として描かれている。

 ただ、実は原作には球磨子が直接登場する場面はない。あくまで秋谷や弁護士たちの回想で、その言動が語られるだけだ。そのため、彼女の「実像」は見えてこない。そのことが、「伝説の存在」のような不気味な恐ろしさを増大させていた。

 原作の主人公は記者の秋谷だ。秋谷は明らかに一線を越えた激しさで、球磨子を殺人犯と煽る記事を書き続けた。それだけに、もし無罪になれば全てを失う。また、やくざが球磨子の背後にはいるため、自身や家族への報復の危険性もある。その不安と恐怖を背景に、状況の変化に応じて一喜一憂する秋谷の心理が、原作のドラマを貫く芯になっているのだ。そして最終的に秋谷は、佐原が真実にたどり着いたことを知る。そして最終弁論で佐原がそのことを述べる前に彼の命を狙おうとするところで、原作の物語は終わる。

 一方の映画での秋谷(柄本明)は脇役の一人でしかない。球磨子を有罪にするために動くが、無罪判決が出ると左遷される。

 映画での主役は、球磨子と佐原弁護士だ。そして、展開のメインに据えられているのは、佐原が証人たちの矛盾を覆す裁判劇である。

 さらに、大きな変化が加わっている。それは佐原の性別だ。原作は佐原卓吉という男性なのに対し、映画では律子という女性になっているのだ。

 知性を武器に自立して生きてきたインテリ弁護士の律子(岩下志麻)と、「女」を武器に男を食いものにして生きてきた無学なホステスの球磨子。そんな対極的な女性二人の対峙が全編を貫く。そして、拘置所の面会室で初めて対面した際に球磨子が言い放ったのが、冒頭のセリフだ。律子の決して感情的にならない理知的な態度に冷たさを感じた球磨子は、初対面の段階から毛嫌いしたのだ。

 一方の律子はそんな球磨子の挑発的な言葉に動じることなく、球磨子にあくまで弁護士として事務的に接する。両者の間に信頼感や共感性は存在せず、ことあるごとにぶつかり合う。

 こうして「同性ながら対極的な生き方をしてきた者同士だからこその相克」という要素が加わったことで、真相を探るミステリーや裁判劇のサスペンスだけではなく、人間ドラマとしてスリリングに盛り上がることになった。

 律子は、検察や証人やマスコミだけでなく、守っているはずの球磨子とも対峙しなければならない。球磨子は、火が付いたら手がつけられなくなる「感情の怪物」だ。普通の人間なら相手のしようがなくなり、逃げ出すより他にない。実際、他の弁護士がそうだった。「佐原」だけは、そうではなかった。その関係性は原作も映画も変わらない。

 だが、受け止める印象は大きく異なる。原作の卓吉は、どこか球磨子を哀れに同情する優しさがあった。が、映画の律子には微塵もない。同じ性別だからこそ、自身とは対極的な球磨子の生き方を見下しているところがあり、球磨子がいくら暴言を吐こうともどこ吹く風。むしろ冷たく突き放しているのだ。たとえば、甘い言葉や励ましもなく公判の厳しい見通しばかりを伝えてくる律子に反発した球磨子が、代理人無しでの公判を望んだ際には、律子は「死刑になりたければ、そうすれば?」と全く意に介さない。

 だからといって、律子は仕事の手を抜くことはない。世間に批判され、法曹界に味方もいない上に、肝心の球磨子すら非協力的。そんな孤立無援の状況下での裁判戦なのだが、全く感情を揺るがすことなく、淡々と冷静に証人や検察の矛盾を突いていく。そして、証人と面会する際は球磨子に見せる冷たさとは違う温和で優しい表情を見せ、その心の中に巧みに入り込み、有利な証言を引き出してみせるのだ。その孤高ともいえるプロフェッショナルな仕事ぶりは、ヒロイックとすら言えた。

 そうして、徹底して上からの目線で接してくる律子と対峙することにより、原作では強大な魔物に見えた球磨子が、その不敵なまでに横柄な態度の奥底に揺れ動く弱さを内包した人物として、人間臭く浮かび上がることになった。

 もちろん、主人公や人物設定が大きく脚色されているため、終盤は完全に映画オリジナルの展開になる。

 こうなると、長く厳しい裁判戦を経て律子と球磨子は通じ合うように……というバディものらしい展開を予想するところだが、この映画はそう甘くない。律子は球磨子を懸命に弁護しつつも、根本的なところで見下している姿勢は崩さないのだ。

「私、あなたに同情して弁護してんじゃないのよ。弁護士として当然の職務を果たそうとしているだけ。誤解しないでよね」

 終盤になってもなお、律子はそう言い切る。

 そして、決して交わらない二人の生きざまの相克は、ラストで最高の盛り上りを見せる。無罪を勝ち取って釈放された球磨子は、クラブに律子を招く。だが、そこで繰り広げられるのは、祝勝や慰労といった要素の欠片もない、乾いた光景だった。

「あんたってさ、本当に厭な目付きしてるわね。いつでも人をモルモットみたいに見てるのね」と噛みつく球磨子に対し、律子も「私ね、あなたみたいにエゴイストで自分に甘ったれてる人間って大嫌いなの」と言い返す。

 そして互いに憎悪のワインをかけあった挙句に球磨子は「あんた、自分のこと好きだって言える? 言えないっしょ。可愛そうな人ね」「あんたみたいな女にならなくてよかった」と律子の生き方を批判。一方の律子も「あなたは、それでしか生きられないでしょうね。私は私の生き方で生きてくわ」と、最後の最後まで二人は互いの生き方を全く受け入れていないのだ。

 ただ、それだけで終わらせていないところが見事だ。

 去り際、「まあ、またしくじったら弁護してあげるわ」と言う律子に対し、「頼むわ」と返す球磨子。

 実は互いにどこか認め合っていたことをさりげなく匂わす、この距離感――。最高にハードボイルドでカッコいい。

【執筆者プロフィール】

春日太一(かすが・たいち)
1977年東京都生まれ。時代劇・映画史研究家。日本大学大学院博士後期課程修了。著書に『天才 勝進太郎』(文春新書)、『時代劇は死なず! 完全版 京都太秦の「職人」たち』(河出文庫)、『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』(文春文庫)、『役者は一日にしてならず』『すべての道は役者に通ず』(小学館)、『時代劇入門』(角川新書)、『日本の戦争映画』(文春新書)、『時代劇聖地巡礼 関西ディープ編』(ミシマ社)ほか。

◎編集者コラム◎ 『THE MATCH』ハーラン・コーベン 訳/田口俊樹 訳/北綾子
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