連載第9回 「映像と小説のあいだ」 春日太一

映像と小説のあいだ 第9回

 小説を原作にした映画やテレビドラマが成功した場合、「原作/原作者の力」として語られることが多い。
 もちろん、原作がゼロから作品世界を生み出したのだから、その力が大きいことには違いない。
 ただ一方で、映画やテレビドラマを先に観てから原作を読んだ際に気づくことがある。劇中で大きなインパクトを与えたセリフ、物語展開、登場人物が原作には描かれていない――!
 それらは実は、原作から脚色する際に脚本家たちが創作したものだった。
 本連載では、そうした見落とされがちな「脚色における創作」に着目しながら、作品の魅力を掘り下げていく。


『赤ひげ』
(一九六五年/原作:山本周五郎/脚色:井手雅人、小國英雄、菊島隆三、黒澤明/監督:黒澤明/製作:東宝)

映像と小説のあいだ 第9回 写真1

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「世の中には心の優しい人もいるんだよ。お前はただ、そういう人に会わなかっただけさ」

 舞台は江戸の小石川養生所。町医者の医療を受けられない貧しい人々のために幕府が開設した、公営施設だ。そこに、若き医師・保本登(加山雄三)が訪ねるところから、映画『赤ひげ』の物語は始まる。保本は蘭学を学ぶため長崎におり、三年の遊学を経て江戸に戻ったところだった。江戸では幕府の「御目見医おめみえい」としてエリート街道を進むはずだったが、なぜかこの養生所に勤めることになってしまう。

 養生所の所長は通称「赤ひげ」こと新出去定にいできょじょう(三船敏郎)。当初の予定とのあまりの待遇の違いと、独裁的で高圧的な赤ひげに対しての反抗もあり、保本は養生所の仕事にやる気を示さないでいたが、さまざまな苦境の中でも懸命に生きる患者たちとの触れ合いや、赤ひげの人間として、医師としての大きさを知るにつれ、「仁術」としての医療に目覚めていく――。

 基本的な設定や展開については、山本周五郎の原作『赤ひげ診療譚』と細部の描写やセリフに至るまで、ほぼ同じだ。原作は八編の独立した短編で構成されており、その短編ごとに一件の患者たちの物語が綴られている。映画はその中から「狂女の話」「駆込み訴え」「むじな長屋」「徒労に賭ける」「鶯ばか」の五編が使われた。

「狂女の話」「駆込み訴え」「むじな長屋」という前半の三編は、原作と映画は大きくは変わらない。一方、後半の「徒労に賭ける」「鶯ばか」で大きな脚色が施されている。

 この五編ではいずれも、理不尽に苛まれる患者たちと、それと真っ向から向き合う赤ひげ・保本の姿が描かれる。それは原作も映画も同じだ。だが、原作における医療はどこまでも無力。患者たちを救えないまま、終焉を迎えることになる。

 それは映画でも、前半三編においては変わらない。ところが、後半二編になったところで、医療の捉え方が大きく変化していくのだ。

 四編目の「徒労に賭ける」は、岡場所が舞台。業突く張りの女主人により、十三歳にして客をとらされていた「おとよ」が客から病を移されていたことに気づいた赤ひげが養生所に引き取ろうとする話だ。五編目の「鶯ばか」は、貧しい長屋が舞台。身体の弱い「日雇い」の五郎吉が一家心中を図る話だ。そこは、原作も映画も同じだ。

 原作はいずれも他の三編と同じく、患者を救えずに終わる。「徒労に賭ける」では、おとよは養生所に引き取られることを嫌がり、次に赤ひげが訪ねた際には姿を消していた。消息は最後まで分からない。「鶯ばか」では五郎吉夫婦は一命をとりとめるものの、保本と心を通わせた次男の長次を含む子供たちは皆、命を落としてしまう。どこまでも苦く重く、救いがない。それが原作の余韻だ。

 それが映画は全く異なるのだ。赤ひげはおとよ(二木てるみ)を力づくで連れ出して養生所に運ぶ。そして、保本の付きっ切りの治療を経て回復させている。性病から精神疾患へと、おとよの症状も変えている。また、長次も保本の治療により一命をとりとめた。映画には救いがある。そのため、前半の重苦しさに比べると、後半になって一気に画面全体が明るくなった印象すら受ける。

 ただそれは、単にハッピーエンドに変えるための、甘い味付けにするだけの脚色ではない。

 赤ひげは「これがお前の最初の患者だ」と、おとよを保本に預ける。そして、ここからは完全に映画オリジナルの展開となる。

 保本は誠心誠意の姿勢でおとよに向き合った。その際に発したのが、冒頭に挙げたセリフである。だが、これまであらゆる人間に虐げられてきたおとよは、その優しさを受け入れることができない。人間の優しい態度の裏には、絶えず邪な欲望があると思い込んでいたからだ。そんなおとよを哀れに思い、保本は涙した。

 やがて、看病の過労のために保本が倒れる。そして、今度はおとよが保本を付きっ切りで看病するように。看病を通して、おとよは心を開いていく――。

 気づくのは、かつての保本もまた、実はおとよと同じ心の経過を辿っていたということだ。保本は長崎遊学中に、婚約者に裏切られる。そして、自身が御目見医を外されて養生所に派遣されたのは、医学界で隠然たる力を持つ婚約者の父親の策謀だと思い込んでいた。そのために強い人間不信を抱き、心を閉ざして暮らしてきた。それが赤ひげの優しさに触れ、患者たちと向き合うことで、心の温かみに目覚めていく。だからこそ、おとよを治すこともできたのだ。

 そして、保本がそうであったように、おとよもまた、開いた心の向かう先は苦しむ者の救済だった。養生所で働くことになったおとよは、台所に米を盗みに入った少年と出会う。おとよは少年に盗みをしてはいけないと諭し、自らの食事を分け与えるように。この少年こそ、長次だった。そして、一家心中に巻き込まれた長次を救うため、おとよは井戸の底に向かってその名前を叫び続けた。そうすれば、あの世から魂を引き戻せられるという言い伝えがあったからだ。

 原作における医療は無力感が漂う一方、映画はそれだけに留まらない。ここでの医療は、ただ傷病を治すためだけの存在ではないのだ。治療や看護を通じて相手に温かい真心を伝え、それを受け止めた者がまた次の誰かに温かみを伝える。一つの救いが次の救いをもたらす――そんな人間の温もりを伝播する媒介として、医療や看護は捉えられているのだ。

 原作では独立していた二つのエピソードを優しさをもって繋げることで、「医療のあるべき理想像」としての新たな物語が構築されていた。

【執筆者プロフィール】

春日太一(かすが・たいち)
1977年東京都生まれ。時代劇・映画史研究家。日本大学大学院博士後期課程修了。著書に『天才 勝進太郎』(文春新書)、『時代劇は死なず! 完全版 京都太秦の「職人」たち』(河出文庫)、『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』(文春文庫)、『役者は一日にしてならず』『すべての道は役者に通ず』(小学館)、『時代劇入門』(角川新書)、『日本の戦争映画』(文春新書)、『時代劇聖地巡礼 関西ディープ編』(ミシマ社)ほか。最新刊として『鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』(文藝春秋)がある。この作品で第55回大宅壮一ノンフィクション大賞(2024年)を受賞。

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