連載第38回 「映像と小説のあいだ」 春日太一

映像と小説のあいだ 第38回

 小説を原作にした映画やテレビドラマが成功した場合、「原作/原作者の力」として語られることが多い。
 もちろん、原作がゼロから作品世界を生み出したのだから、その力が大きいことには違いない。
 ただ一方で、映画やテレビドラマを先に観てから原作を読んだ際に気づくことがある。劇中で大きなインパクトを与えたセリフ、物語展開、登場人物が原作には描かれていない──!
 それらは実は、原作から脚色する際に脚本家たちが創作したものだった。
 本連載では、そうした見落とされがちな「脚色における創作」に着目しながら、作品の魅力を掘り下げていく。


『リング』
1998年/原作:鈴木光司/脚色:高橋洋/監督:中田秀夫/配給:東宝

智ちゃんが見ろって──

 それを見たら一週間後に死ぬという「呪いのビデオ」にまつわる恐怖を描いた小説『リング』は映画化され、大ヒットした。

 とある別荘で「呪いのビデオ」を観た四人の若者が、同じ日の同時刻に不可解な死を遂げる。全て心臓発作が死因で、その顔は苦痛に歪んでいた。浅川(原作では新聞系雑誌記者、映画ではテレビディレクター)は大学教員の高山とその真相を探る。そして、かつて謎の死を遂げた超能力者・山村貞子の存在が浮かび上がってくる──

 この設定と展開は、原作も映画も変わらない。ただ、映画は90分弱の上映時間に収める必要があるため、いくつかの設定や人物描写を刈り込んでいる。それに加えて大きな変更点が二箇所ある。

 まずは、貞子の描写だ。

 原作では、物語の中盤から終盤にかけて、浅川の取材を通じて貞子の略歴が明らかになっていく。父親代わりだった大学教授の転落と死、母親の自殺、劇団への所属──など、その変遷はかなり詳しく描かれていた。

 一方、映画ではそうした点は大きくカットされている。母娘が悲劇に向かう原因となった、マスコミによるバッシングのエピソードは詳しく描かれているものの、死に至るまでの詳しい経緯はあまり触れられていない。

 特に異なるのは、その死だ。最後は古井戸に投げ込まれた──という点は同じなのだが、原作では、父親代わりの大学教員が入院していた療養所に勤務する医師に犯され、その挙句に生きたまま投げ込まれている。

 一方、映画は実の父親に投げ込まれた描写があるものの、なぜ父親がそうしたかの理由は明らかにされていない。また、原作では古井戸にいる段階でも生きていたという設定があるが、映画はどの段階で命を落としたかは不明だ。さらに、原作では貞子が両性具有であった点や、医師を通じて天然痘に感染していた可能性にも言及しているが、映画はそれらもない。

 つまり、原作は「呪い」に至るだけの貞子の悲劇性がじっくりと掘り下げられている一方、映画はそれらがほとんど描かれてないのである。これはもちろん上映時間の都合によるものもあるだろうが、結果として作劇上でも大きな効果をもたらすことになった。貞子の心情や人間性が取り払われた分、その得体の知れない不気味さや、彼女のもたらす呪いの理不尽さが強調されることになり、ホラーとしての恐怖感はより高まっているのだ。

 そのことが決定的に表れているのが、「呪いのビデオ」の描写の違いだ。終盤、浅川と高山は古井戸にたどり着く、そこで貞子の遺体を発見する。貞子を弔うことで、その呪いは解ける──という推論によるものだった。実際に、浅川は一週間が過ぎても死ぬことはなかった。これで一件落着──と思いきや、検証のため何度もビデオを観ていた高山は視聴から一週間後に命を落としてしまう。これまでの被害者と同じく心臓麻痺による死で、顔も苦痛に歪んでいた。

 この展開は原作も映画も同じだ。が、高山の死の描写が全く違う。ビデオを再生しながら高山が死んでいくのは変わらない。ただ、原作のビデオは貞子の生前の記憶や思念が録画されているのみで、それを観ていた高山は死ぬ直前まで冷静な思考を続け、最終的には呪いの謎を解き、そのヒントを浅川に託しながら息を引き取る。

 映画はそうではない。高山(真田広之)の再生するビデオには最後に古井戸が映し出され、そこから貞子が這い出てくるのだ。それどころか、貞子はテレビ画面からも飛び出して、高山に襲いかかる。恐怖に怯えながら、高山は死んでいく。映画では、それまでの高山が冷静沈着な二枚目キャラだっただけに、この死にざまとのギャップが大きく、そのことが貞子への恐怖を増大させていた。

 貞子の代名詞といえる、古井戸やテレビから這い出てくる、髪で顔を覆ったビジュアルは、映画のオリジナルだったのだ。そこに至るまでも含め、貞子をホラー映画らしい恐怖の対象に仕立てようという脚色が施されたことで、後に原作を離れた独自のキャラクターとして確立されていくことになった。

 一方、ドラマ的な部分で強化されたのは主人公の周辺だ。原作の浅川は妻子のいる男性という設定になっている。一方の映画の浅川(松嶋菜々子)はシングルマザーで、原作では旧友の立場だった高山が元夫という設定に脚色された。そのため、実子に対する距離感は原作よりも近く描かれており、より強い愛情を受け取ることができる。

 それだけに、我が子が「呪いのビデオ」を観てしまった──という展開は同じでありながら、そのことを知った際の浅川の絶望感はより根深いものがあった。冒頭のセリフは、その際に息子の陽一から発せられたものだ。陽一は最初の被害者である従姉弟の智子と思しき声を受け取っており、それに促されるようにビデオを観たという。

 この変更により、浅川だけでなく高山にも「陽一を救う」というモチベーションが生まれている。その結果、「我が子を呪いから解放するために闘う両親」というドラマチックな面が加わることになった。

 終盤のニュアンスも、やや異なる。「ビデオをダビングして別の人間に見せれば、呪いはその相手に移り、当人は助かる」という法則に浅川が気づく終盤の展開は、同じだ。が、最後にそれを見せに行く相手が少し違っている。

 原作は妻の父母であるのに対し、映画は実の父母なのだ。どちらにしてもつらい犠牲ではあるが、映画の方が浅川に課せられているものは重い。それだけに、貞子の呪いの理不尽さも際立つ。

 膨大な情報量の原作を短い上映時間に収めようとすると、どうしても駆け足の展開で物足りなくなってしまう。それだけに、エンターテインメント性を充実させて、結果的に新たな方向への展開の礎にまでなった本作の脚色手法は、見事なものであった。

【執筆者プロフィール】

春日太一(かすが・たいち)
1977年東京都生まれ。時代劇・映画史研究家。日本大学大学院博士後期課程修了。著書に『天才 勝進太郎』(文春新書)、『時代劇は死なず! 完全版 京都太秦の「職人」たち』(河出文庫)、『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』(文春文庫)、『役者は一日にしてならず』『すべての道は役者に通ず』(小学館)、『時代劇入門』(角川新書)、『日本の戦争映画』(文春新書)、『時代劇聖地巡礼 関西ディープ編』(ミシマ社)ほか。最新刊として『鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』(文藝春秋)がある。この作品で第55回大宅壮一ノンフィクション大賞(2024年)を受賞。

「推してけ! 推してけ!」第58回 ◆『サンクトペテルブルクの鍋』(坂崎かおる・著)
TOPへ戻る