吉川トリコ「じぶんごととする」 15. きれいに踊りたかっただけなんじゃねえの?(前編)
今年の一月に発売された村山由佳さんの『PRIZE―プライズ―』は、文学賞(=直木賞)がほしくてほしくてたまらないのにあと一歩のところで獲りあぐねている作家・天羽カイン(本名・天野佳代子)をめぐる物語である。発売から半年経っても、いまだに編集者や作家と会うとだいたい『PRIZE―プライズ―』の話をしている。この四月には作家ばかり集めて読書会まで主催してしまった。そのうえ、こうしてエッセイで取りあげようとしているんだから、どんだけこすったら気が済むんだというかんじである。
これはつねづね思っていることなのだが、「文学賞は作家にとって誉れである」ということになっているはずなのに、おもてだって「文学賞がほしい」と大声で言ってまわってはいけないような空気があるのはなんでなんだろう。名だたる文学賞に幾度もノミネートされている天羽カインですら、ストレートに賞への欲望を語ることを恥だとみなし、「直木賞くれくれオバケ」のように見られることを情けなく思っている。「承認欲求」という言葉が独り歩きし、あたかもそれが悪いことのように言われるようになってひさしいけれど、「認められたい」「褒められたい」というのは人間に備わったあたりまえの欲求なんじゃないだろうか。もちろん過度に執着してふりまわされてしまったら元も子もないから、「用法・用量を守って正しくお使いください」が大原則なんだけど。
周囲の作家仲間の話を聞いていると、「賞なんてまったく気にしない」という人もいれば、「ほしい。ほしくてたまらない。くれよいますぐにでもくれ。くれくれくれくれくれくれ」と言って憚らない、天羽カインなんてまだかわいいものだと思えるような文学賞くれくれオバケもいる(ここまでくるとオバQを連想させていっそかわいい)。そうかと思えば、「文学賞なんて株価みたいなもんじゃん。自分ではどうすることもできないものになんでみんなそんな大騒ぎしてんの?」ときわめて冷めきった態度の人もいる。
私の場合はというと、以前ある文学賞に落選したときの選評で、作家になる前から憧れていた選考委員の作家にもったいないぐらいの「褒め」を賜ったことがあるのだが、それだけで落選なんか一瞬でチャラになってしまった。あのときのことを思い出すと、いまもふわふわと舞いあがるような気持ちになる。その後、選評から抜き出した言葉を販促用のパネルにしてもらい、いつでも見られるように書斎に飾ってある。ここまで「成功したオタク」はそういないんじゃないかと思う。
以来「褒め」や「認め」を文学賞に求める気持ちはなくなった。あれ以上の気持ちになることなんて、この先よっぽど起こらない気がするからだ。あと、それだけ特大級の「褒め」をもらったところで、ネットで酷評を見つければきっちり傷ついたし落ち込んだので、承認欲求のバケツの底には穴が開いているのだと気づかされたのも大きい。他者からの承認を求めているかぎり、決して満たされることはないし、このレースには終わりがないのだと。
そうしていま私は、生存戦略として文学賞がほしいと思っている。
いまどきは文学賞を獲ったくらいでアウトを帳消しにできたり、溜まりに溜まったファウルゲージがマイナスになるようなこともないだろうが、それでも多少は延命できるんじゃないかという期待がある。これまでお世話になった編集者たちに少しでも報いたいし(賞の候補になっただけで彼らは信じられないほど喜んでくれる)、私ぐらいの初版部数だと一冊刊行しても印税が百万円にも満たないから賞金がもらえるのは正直めちゃくちゃありがたい。百万円ももらえれば、ほっと一息つけるのだ。
一方、当代一のベストセラー作家であるカインにはしっかりとした足場がある。一生遊んで暮らせるほどの蓄えがすでにあり、どの出版社もカインの原稿を喉から手が出るほどほしがっている。おそらく多少のファウルなどものともしないほどの利益をすでに各出版社にもたらしているはずだ。ならば、この先も外部からもたらされる「売れ」や「褒め」など気にせず、しゅくしゅくと作品を書き続けていけばいいだけではないか、いまさら文学賞など必要ないではないか、と私からするとどうしても思えてしまうのだ。
本作のもう一人の主人公である編集者・緒沢千紘も同じ疑問を抱いたようだ。物語の中盤で、天羽カインほどの作家がどうしてそんなに賞にこだわるのかと本人に訊ねるシーンがある。「賞なんて時の運っていうか、所詮は人が選んで決めるもの」だし、「小説作品そのものの値打ちとそれとは全然別物」なのにどうして? と。
欲するだけの評価を受けられないままだと、いつも誰かに嗤われている気がする。わかりやすい値打ちの勲章を手に入れて、嗤った奴らをぎゃふんと言わせてやりたい。そうすれば初めて不安から解放される。
カインもまた別のジェットコースターに乗せられているのだな、とこの箇所を読んで、ようやく私は気づいた。
カインは極端に他人の目を気にしている。だれかに嗤われること、恥をかくことを恐れている。不安がカインを支配しているといってもいい。いま手の中にあるものではなく、手の中にないものばかり注視し、他人の物差しに右往左往させられている状態なのだ。
カインほどのベストセラー作家ともなれば、陰であれこれ噂されることも多いのだろう。陰といわず、ネット上で好き勝手なことを書き散らす人たちの数も桁違いに及ぶだろう。売れているものをただ売れているからという理由で見下し、嘲笑うようなムードがあることもたしかだ(その多くがちゃんと作品を読んでもいないのに!)。あまつさえ「売れている作品がどれも優れているかといったらそういうわけでもない」などと売れない作家に僻みっぽく書かれたりもする。
あんなのただの酸っぱいぶどうなんだから相手にしなければいいと外側にいる私は思ってしまうのだが、ジェットコースターの渦中にいるカインには届かない。だれの目にもあきらかな圧倒的な権威を手に入れ、みずからの力を証明し、完璧な勝利を果たさなければ気が休まることがない。
「認めてもらえない限りずっと不安」なのだとカインは言う。しかし、文学賞を獲ったからといって、その不安はほんとうになくなるものなのだろうか。
天羽カインを、哀しきバケモノにしているのはいったいだれなんだろう。
──後編につづく
(次回は6月12日公開予定です)
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