【NYのベストセラーランキングを先取り!】世継ぎに恵まれず、夫に殺されることを確信した15歳の公爵夫人の運命は……? マギー・オファーレルの最新作! ブックレビューfromNY<第82回>

メディチ家出身のトスカーナ大公の三女

16世紀、トスカーナ大公コジモ1世・デ・メディチの三女、ルクレツィアがフェラーラ公爵アルフォンソ2世・デステと結婚し、16歳で没したことは歴史的事実である。彼女の肖像画も現存している。ルクレツィアは公式には病死とされているが、当時から夫であるアルフォンソ2世に毒殺されたという噂があり、19世紀の詩人ロバート・ブラウニングは、The Last Duchessという詩の中で、妻の死後、彼女の肖像画の前で独白するフェラーラ公爵について詠んでいる。今月取り上げるThe Marriage Portraitの後書きで著者のマギー・オファーレルは、ブラウニングの詩がフェラーラ公爵アルフォンソ2世からインスピレーションを得たと言われているのに対し、この小説はフェラーラ公妃ルクレツィアからインスピレーションを得て書いたものだと述べている[2]。著者はルクレツィアにまつわる乏しい史実と現存する肖像画をもとに、彼女の生涯と死の謎について想像力を膨らませてストーリーを展開している。

ルクレツィアが亡くなったとされる日の前日、結婚生活1年にも満たない夫アルフォンソ2世から、気晴らしに狩猟の館へ行こうと誘われたルクレツィアは、早朝雨の中を夫と共に乗馬で出発し、夕方、やっと目的地に到着したところから小説は始まる。そびえたつ城塞を見て、ルクレツィアは、「狩猟の館ではないではないか」と夫に言いたかった。そして、「夫は私を殺すためにここに連れてきたのだ」と確信したのだった。

次の章からは、フィレンツェのコジモ1世の宮殿で、母エレオノーラがルクレツィアを身ごもった時のエピソードに始まり、ルクレツィアの誕生、子供時代から突然の婚約・結婚、新婚生活に至るまでのストーリーと、絶壁にそそり立つ城塞に夫と共に到着してから次の日の深夜までの出来事が交互の章で語られていく。

お転婆な大公の娘に突然の結婚話

フィレンツェにある大公の宮殿で生まれ育ったルクレツィアは、2人の姉とは違って女の子らしい気質ではなく、動物好きで常に走り回っているようなお転婆娘だった。絵を描くことが好きで、絵の教師や大公のお抱え画家から才能を認められてもいた。

誰もルクレツィアの結婚など想像できなかったが、15歳の時、突然、結婚話が持ち上がった。相手は、ルクレツィアの姉マリーアの婚約者、フェラーラ公爵の嫡男アルフォンソだった。マリーアは結婚式直前、急病で亡くなったのだった。この結婚は両家にとって政治的に必要なものだったが、ルクレツィアのすぐ上の姉イザベラはすでに結婚していたので、コジモ1世にとって未婚の娘はルクレツィアしかいなかった。ルクレツィアとアルフォンソの婚約が調った直後、年老いたフェラーラ公爵が亡くなり、アルフォンソが公爵を継いでアルフォンソ2世となった。15歳のルクレツィアは27歳のフェラーラ公爵と結婚した。

短い婚約期間中のアルフォンソは、まだ幼いルクレツィアに対して優しく、しばしば茶目っ気も示したので、「姉のお下がりなどまっぴらだ」と思っていたルクレツィアも、次第にアルフォンソに心を開いていった。しかし、フェラーラ公爵になった直後から、家族内で、また政治的に数々の困難に直面する羽目に陥ったアルフォンソは、次第に冷徹で目的のためには手段を選ばない一面を見せるようになった。

結婚式のためにアルフォンソがフィレンツェに滞在している時、プロテスタント信仰を咎められて幽閉されていたアルフォンソの母が、娘を伴ってフランスに亡命を試みるという事件が起きた。そのため、結婚式を挙げたルクレツィアとアルフォンソは、そろってフェラーラ城に入城はせず、アルフォンソはルクレツィアに、しばらくヴィラ(領地内の別邸)で生活するよう言い渡した。彼はフェラーラ城とルクレツィアのいるヴィラを行き来する日々となり、フェラーラ城で何が起こっているのかを心配するルクレツィアに対しては、何も心配することはないと言うだけで、詳細は一切語らなかった。

ついにフェラーラ城に入城したルクレツィアは、アルフォンソの妹エリザベータとヌンチャータに会ったが、そこにはアルフォンソの母ともう一人の妹の姿はなかった。そして2人の義妹から、彼女たちがフランスへ亡命したことを知らされた。フランスのプロテスタント派と手を結んだアルフォンソの母は、娘をプロテスタントの貴族と結婚させ、男の子ができることを願っているというのだった。27歳でまだ跡継ぎのないアルフォンソにとっては、嫡男誕生は最重要課題だった。もしこのまま跡継ぎができず、プロテスタントと結婚した妹が男子を生んだ場合、公国はプロテスタントの甥に継承される可能性がある。ルクレツィアは2人の年上の義妹から、妊娠することだけに集中するようにと告げられた。

フェラーラ公妃の肖像画

結婚してすぐ、アルフォンソはルクレツィアの肖像画を描かせるために画家を雇った。画家と2人の助手がルクレツィアに最初に会ったのは、彼女がまだヴィラにいる時だった。画家に先駆けて助手たちが到着した時、アルフォンソは城にいて不在だった。助手の一人ジャコポが突然発作を起こし、同じようなことが子供の頃フィレンツェの宮殿で起きたことを思い出したルクレツィアは、とっさに蜂蜜入りの水を飲ませ、ジャコポは命拾いした。以来、彼はルクレツィアを命の恩人と思って忠節を尽くすようになった。

肖像画の制作は、ルクレツィアがフェラーラ城に移ってからも続けられ、いよいよ仕上げのために画家は制作中の絵をアトリエに持ち帰った。画家と助手たちが城を去った後も、ルクレツィアには妊娠の気配はなかった。妊娠することだけに集中する生活の中で、生き生きと活動的だったルクレツィアは心身ともに衰弱していった。そして次第に、妊娠しない自分は夫に殺されるのではないかと思い詰めるようになった。

公妃の死の真相とは

ある日、アルフォンソは衰弱したルクレツィアに、気晴らしに狩りの館に行こうと誘った。ルクレツィアは美しいヴィラで過ごした日々を懐かしく思い出して喜んだ。しかし、侍女を同行させることも許されず、二人だけで雨の中、馬車ではなく乗馬で城塞に到着した時には、ルクレツィアは疲労困憊だった。

ルクレツィアの運命はどうなるのか? 本当に夫に殺害されてしまうのか?

その夜遅く、画家と助手2人が、完成した肖像画を届けるために城塞を訪れた。その一行の中に、メディチ家からルクレツィアに付き添ってきた侍女が紛れ込んでいたことを、アルフォンソも家来たちも知らなかった。

そして翌日、ルクレツィアの身に起きた驚きの結末――。

史実では、アルフォンソ2世はルクレツィアの死後、2回結婚したが、ついに子供には恵まれなかった。この時代、世継ぎに恵まれないことが、いかに政治的に危機的だったか。世継ぎをもうけることに取りつかれたイギリス、チューダー王朝のヘンリー8世が、娶った妻を次々と離婚したり処刑したりした有名なエピソードもある。

著者について[3]

マギー・オファーレルは1972年北アイルランド生まれ。ケンブリッジ大学卒業後、ジャーナリストとして働いた。2000年に上梓した『アリスの眠り』(After You’d Gone)で小説家デビューを果たし、2001年にベティ・トラスク賞を受賞。The Distance Between Us(2004)でサマセット・モーム賞、The Hand That First Held Mine(2010)でコスタ賞を受賞している。さらに2020年の『ハムネット』(Hamnet)は英女性小説賞、全米批評家協会賞、ドーキー文学賞を受賞している。現在エジンバラ在住。

[2] “Alfonso II d’Este, Duke of Ferrara, is widely considered to have been the inspiration for Robert Browning’s poem “My Last Duchess”; Lucrezia di Cosimo de’ Medici d’Este, Duchess of Ferrara, is the inspiration for this novel.” P.335
[3]“A Note about the Author”p,340; Maggie O’Farrell – Wikipedia

佐藤則男のプロフィール

早稲田大学卒。米コロンビア大学経営大学院卒(MBA取得)。1971年、朝日新聞英字紙Asahi Evening News入社。その後、TDK本社およびニューヨーク勤務。1983年、国際連合予算局に勤務し、のちに国連事務総長となるコフィ・アナン氏の下で働く。 1985年、ニューヨーク州法人Strategic Planners International, Inc.を設立し、日米企業の国際ビジネス・コンサルティングを長く手掛ける。この間もジャーナリズム活動を続け、ヘンリー・キッシンジャー元国務長官、ズビグニュー・ブレジンスキー元大統領補佐官らと親交を結ぶ。『文藝春秋』『SAPIO』などに寄稿し、9.11テロ、イラク戦争ほかアメリカ情勢、世界情勢をリポート。著書に『ニューヨークからのメール』『なぜヒラリー・クリントンを大統領にしないのか?』など。 佐藤則男ブログ、「New Yorkからの緊急リポート」もチェック!

初出:P+D MAGAZINE(2022/10/12)

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