ニホンゴ「再定義」 第7回「萌える」
というわけで纏めると、セクシャルな神秘体験ぽさ+タブー的羞恥感、その融合で生じるエネルギーによって対象を「愛でる」ことがすなわち「萌える」というアクションの奥底にある原理、ということになる。なるほど、それは自分でもビックリだ。ここには、肉体と精神の矛盾、タブー突破の衝動性、そして霊的・精神的な上昇欲求、救済といったもののすべてを悦楽として満喫させてしまう何かがある。ゆえに容易に言語化しづらく、かつ強いのだ。
それにしてもこの「萌え」という概念、明確な定義が定められていない割には一般語としてガッツリ定着した印象がある。要するに日常的に必要とされるからであろう。情報化によって不本意にも「自己責任性」が過度に強調されるようになった現代社会を生き抜くにあたって、内的な平安とモチベーションを保つために大なり小なり必要なコトバなのかもしれない、とも感じる。
伝統的に「個人の責任範囲を超えたストレスの受け皿」といえばキリスト教会や仏教界といった大宗教の界隈であったが、彼らは(もちろん例外はあるが全体的に)教義の解釈を独占することでいろいろと形骸化させてしまい、一般人の多くにとって、まるで痒いところに手の届かない存在になってしまった。キリスト教そのものはいけてる存在なのかもしれないけど「キリスト教会」という組織になるとあかんね、ということなのかもしれない。そういえば、手塚治虫の傑作『ブッダ』にもそのへんで苦悩する話があったっけ。つまりは開祖時代の直後から問題はあったということか。
とはいえ、そういった諸問題を知的にクリアしましたよ、さあいらっしゃい! という触れ込みの新興宗教に接近するのもちょっと怖い。悪意の有無とかかわりなく、カルト化の弊害と常に紙一重の状態に置かれてしまうからだ。
いっぽう、精神的安定のためにそもそも宗教じみた要素は不要だわ! という人も多い(私自身を含む)のだが、そうした人々にしても、実際には何かしら、実務・実用性を超えたサムシングを依り代にして自分の存在価値を再認識しながら生きているものだ。
その依り代とは、多くの場合、家族だったりペットだったり自らの手になる作品や製品だったりするわけだが、もしそれらが取り払われた場合、何かがそのポジションを埋めねばならない。フィギュアやゲームキャラがそのポジションに就く単身オタクの生活システムは、ある意味その先端を行く存在だろう。そして彼らには、周囲からどう見られようが、萌えフィギュアや萌えグッズを依り代とする自分の内的な価値体系や精神性には、凡人には窺い知れぬ素晴らしい意味があるという確信が求められる。知られざる特権性による差別化、と言い換えることも可能だろう。これぞ、おひとりさま勝手にセルフ信仰の奥義であり、社会の趨勢からみて今後ますますニーズが拡大し、高度化が求められる領域と思われる。
その前提で振り返ってみるに、たとえば仮想アイドルの先駆けにして完成系ともいわれる初音ミクなどは、先述したディープ萌え原理の各要素について、おおよそ見事にクリアする存在なのだ。なるほど。だから陳腐化せずに信仰の対象となり続けるのか。そういえば人間が仮想キャラと法的結婚したことで話題になった相手も初音ミクであった。いろいろと整合性が取れてしまって怖い。
そんなわけで、萌えるという行為の奥底は実に深い。なんという隠微な光明の素晴らしさ。
この原理がオープンになった場合、何らかの形で大規模サービス産業化することは可能だろうか? もし出来るなら、それこそ「真のニーズに応える」実用的な真・新興宗教として、隆盛を極めるかもしれない。
なんとなく、フィリップ・K・ディックが予見した悪夢世界のどれかに当てはまるような気がしなくもなくて、ちょっと怖い。
(第8回は9月30日公開予定です)
マライ・メントライン
翻訳者・通訳者・エッセイスト。ドイツ最北部の町キール出身。2度の留学を経て、2008年より日本在住。ドイツ放送局のプロデューサーも務めながらウェブでも情報発信と多方面に活躍。著書に『ドイツ語エッセイ 笑うときにも真面目なんです』。