こざわたまこ『教室のゴルディロックスゾーン』スピンオフ小説「メロンソーダと烏龍茶」

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　ベランダを吹き抜けた風に、うーちゃんがぶるりと肩を震わせた。朝から出しっぱなしにしていた観葉植物の鉢をよいしょと持ち上げ、そろそろ中に入ろうか、と目配せをする。うん、と頷いて、マグカップの残りを飲み干した。ほとんど冷めかけていた紅茶が、ゆっくりと喉を伝い、胃に降りていく。甘さや香りの奥に隠れた、かすかな渋みに舌が痺しびれる。

　カラオケから朝帰りしたあの日、私は数ヶ月ぶりに父とリビングで鉢合わせた。玄関から自分の部屋に向かう途中、新聞を読んでいた父が私に気づいて、はあ、と大きなため息を吐ついた。こいつには怒鳴どなる価値もない、と言うように。父が昔のように頭ごなしに私を叱りつけることは、あの頃すでにほとんどなくなっていた。父の紹介で入った会社を休みがちになり、ベッドから起き上がることすら困難になって、退職願を出した時に、自然とそうなった。その時、思った。ああ、だめだ。一刻も早くこの家を出よう。こんなところにいてはいけない。私は私の人生を歩かなくちゃならない。父は、気づいただろうか？　父が私を見限ったんじゃない。あれは、私が父を見限った瞬間だった。

　もちろん家を出たからといって、それで万事解決、とはいかなかった。家を出た私はただの無職で、しかも宿無しだった。なかなか引っ越し先が見つからなくて、公園で野宿をしたこともある（後になって、うーちゃんに死ぬほど叱られた）。ネットカフェを転々としたり、人生初めてのアルバイトを一日でクビになったり、父が突然うーちゃんのアパートに乗り込んできたりしたこともあった。本当に、本当に色々なことがあった。私が今勤めているのは、何度目かの転職先で知人から紹介してもらった、オーダーメイドの衣装製作を請け負っている会社だ。まさか、学生時代の趣味が今頃になって役に立つとは思わなかった。とはいえ私は高給取りではないし、どうにか生活できるようになった今も、もう無理だ、さすがにやっていけない、と思う日はたくさんある。でも時々、本当に時々だけど、神様がくれたご褒美のような一日に巡り会えることもある。仕事はつらくて、とても楽しい。そんな風に思える日が来るなんて、思ってもいなかった。

　家を出たことに、後悔は微塵みじんもない。あれ以来、両親との連絡を絶っていることも。全部、私が自分で決めたことだから。でも、ひとつだけ気がかりがあるとしたらそれは、あの日家に残してきた妹のことだ。私はあの家に、まだ小さかった妹を――優花ゆうかを、置き去りにして来てしまった。そのことが、ずっと心のしこりになっている。優花は昔から、賢くて優秀な子だった。父にだって、気に入られていた。優花なら、あの父親とだってうまくやれるんじゃないか。そんな風に思っていた時期もある。でも私だって、心の底ではわかっていたはずだ。あの家で十代を過ごすということが、一体どういうことなのか。

　そう遠くない未来に、優花が家族を憎いと思う日が来るのかもしれない。父を、母を、私を、あるいはそのすべてを捨てたいと願う日が。その時が来たら、私は優花に思い切り家族を憎ませてあげたい。そのための手助けなら、なんだってするつもりだ。私はだめな姉だけど、私にできることなんて、きっとほんのわずかだけど、そのくらいのことならできると思う。だって、私はもう大人だから。大人になることができたから。うーちゃんのおかげで。かつては子どもだった、自分のおかげで。

　ベランダの鍵を閉めると、冷え性のうーちゃんが後ろから抱きついてきて、私の脛すねの辺りに自分の足をからませた。触られた瞬間、ひゃっと声を上げてしまうような、うーちゃんの足の冷たさが好き。私はきっと死ぬ時も、うーちゃんのこの体温を思い出すだろう。

「もー。何すんの」

「へっへっへっ。冷たかろう、冷たかろう」

　明日は日曜日だ。いつもより少しだけ遅い時間に起きて、お昼は近所にできたばかりのタイ料理屋さんを訪ねる。ふたりで一枚のメニュー表を覗き込んで、夏の終わりにとびきり辛いものを食べよう。気が向いたら、帰りにあの不味まずいジュースを一緒に飲んであげてもいい。夜は自分の部屋でおんぼろのミシンを踏んで、うーちゃんのためにお揃いのブランケットを縫うのだ。だから、これからもずっとよろしくね。うーちゃん、大好き。

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