こざわたまこ『教室のゴルディロックスゾーン』スピンオフ小説「化け猫、かく語りき」
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「俺、経営向いてないのかなあ……」
ほのかに漂った石鹸のかおりに、む、と顔を上げると、寿郎がいつのまにかわたしの隣に腰を下ろしていた。銭湯を出てすぐ、建物の真横に設置されたこぢんまりとしたベンチは、和代の時代からあるもので、普段はわたしの昼寝場所となっている。寿郎は無駄に身幅が広いので、二人用のはずのこのベンチも、寿郎とわたしが座るとそれだけでぎゅうぎゅう詰めである。
「今日も常連さんに言われちゃったよ。ばあさんの時代はこんなことなかった、って」
はあ、とため息を吐く。どうやら相当落ち込んでいるようだ。屈強な肉体を持っているわりに、メソメソと気に病んでばかりいる男である。もう少し、祖母のような気概を持ったらどうなのか。
「なあお前、どう思う?」
知らんがな。と答えるかわりに、げふ、とゲップをお見舞いしてやった。
「……お前はいいよなあ、悩みとかなさそうで」
何を失礼な。
「ばあちゃんに叱られちゃうな。ここを継ごうだなんて考えるんじゃないよ、って言われてたのに」
そう言って、寿郎がわたしの脇の下に手を滑り込ませた。また「じょりじょり」をやられるのかと身構えたが、どうやらそんな元気もないらしい。わたしを膝の上に置いてからは、さわさわと背中を撫でるだけだった。
「生まれ変わりだなんて、馬鹿馬鹿しいよなあ」
やっと気づいたか、馬鹿め。
「でもさあ、頭のハゲまでおんなじ場所にあるんだもん」
そう言って、わたしのおでこの十円ハゲを人差し指でなぞった。そこはあんまり、触られたくないのだ。寿郎の腕からするりと逃げ出し、地面に降りて振り返る。寿郎はベンチに座ったまま、わたしをじっと見つめていた。
「お前、本当に虎丸じゃないの?」
そう言って眉尻を下げるその表情に、ふと、既視感を覚えた。寿郎の顔が、いつか見た少年の姿とだぶる。いくつかの断片的な映像が、ぼんやりとした形を成していく。遠い記憶の彼方に、その子はいた。震える足をぐっと踏ん張り、両目に大きな涙を溜めながら、わたしの前に立ちはだかったあの子。……ああ、そうか。こいつはあの時の――。
『教室のゴルディロックスゾーン』
こざわたまこ
こざわたまこ
1986年福島県生まれ。専修大学文学部卒。2012年「僕の災い」で「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞。同作を収録した『負け逃げ』でデビュー。その他の著書に『仕事は2番』『君には、言えない』(文庫化にあたり『君に言えなかったこと』から改題)がある。