こざわたまこ『教室のゴルディロックスゾーン』スピンオフ小説「化け猫、かく語りき」

教ゴルスピンオフバナー

 ところが、ここでひとつ誤算があった。どうやら寿郎は、壊滅的に商売が下手らしい。残念ながら、ケチだが商才のあった祖母とは比べるべくもない。おかげで潰れかけの銭湯の経営状態は、日に日に悪化しているようだ。先日は「銭湯とアートとの融合」などと言って、東京の知人から買ったという糞の役にも立たぬ油絵(黄緑色の顔をした老婆が逆さりにされて微笑ほほえんでいる、なんとも薄気味悪い絵だ)を休憩室に飾り、近所のお年寄りからクレームを受けていたし、その前は、質の悪いあかすりタオルを業者から大量購入し、従業員から不評を買っていた。

 このままだと「湯屋さがみ」が廃業する日もそう遠くはないだろう。おおらかで気のいい住民達はもちろん(なんと言っても、わたしによく餌をくれるところがいい)、せわしない世間の空気からは隔絶された独特のゆるやかさと風通しのよさが、特に気に入っていたのだが……。とはいえ、この世に生きとし生けるもので、滅びないものなどいない。生き物は日々、緩慢な死に向かっている、と言ったのは誰だったか。もちろん「湯屋さがみ」も、例外ではない。どうあがいたところで、いつかは消えてなくなるのだ。ここが近々潰れるならばそれはそれで、自然の摂理に則ったまでのこと。

***

 この辺りは学校が近く、午後五時を回ると部活帰りの生徒達もちらほら姿を現し始める。子ども達はいつだってやかましく、賑やかで、無軌道な生命力に満ちていて。そして、すべからくケチである。奴らのお財布事情はたかが知れているため、子どもに愛想を振り撒く必要はない、というのがわたしの持論だ。彼らが育てたアサガオの苗に、用を足してやるのが関の山である。そうこうしているうちに、住宅街に家の明かりがぽつぽつと灯り出した。どこからともなく聞こえ始めた生活音とともに、宵の口のやわらかな空気が辺りを包み込んでいく。

 今日は、最近よく見かける銀縁眼鏡の青年が、わたしに餌を与えてくれた。暖簾をくぐり抜けたところを待ち構え、にゃんにゃんと足元に擦りつく。青年は最初こそ「あ、いや今日はさすがに……」と抵抗の姿勢を見せていたが、粘り強く交渉を続けた結果、昨日に引き続き鰹節かつおぶしパックを購入させることに成功した。ちょろいもんである。そういえば、後から出てきた子ども達に「あれ、先生じゃん」とか何とか言われていたが、あれで教師なんて務まるのだろうか? まあ、わたしの知ったことではないが。人の好さそうな青年は、最後にわたしの背中の辺りをひと撫でして(いつもは絶対触らせないが、今日は特別サービスだ)、またくるよ、とだけ言い残し、銭湯を去っていった。青年がかざした指先から、線香のかおりがふわりと鼻をかすめた。それを嗅いで、ああそうか、もうすぐお盆だ、と気づく。



【好評発売中!】

 

『教室のゴルディロックスゾーン』
こざわたまこ


こざわたまこ
1986年福島県生まれ。専修大学文学部卒。2012年「僕の災い」で「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞。同作を収録した『負け逃げ』でデビュー。その他の著書に『仕事は2番』『君には、言えない』(文庫化にあたり『君に言えなかったこと』から改題)がある。

著者の窓 第28回 ◈ 若松英輔『光であることば』
週末は書店へ行こう! 目利き書店員のブックガイド vol.105 大盛堂書店 山本 亮さん