【連載第1回】リッダ! 1972 髙山文彦
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抗議の矛先はパレスチナにたいして占領地拡大を押しすすめるイスラエルに向けられ、武器と財政面で支援するアメリカへ、そしてアメリカに追随する日本へと向けられているが、他国にたいする威嚇と武力による侵略行為の禁止を明記した国連憲章を無視し、挑発と武力攻撃をくり返すイスラエルにたいして黙認をつづける国際社会全般にもおよんでいるのは疑いを容れないだろう。
三月三〇日はパレスチナ人にとって、忘れることのできない蜂起と惨劇の日で、「土地の日」と呼ばれている。一九七六年の同日、イスラエルはパレスチナ北部にひろがる二一〇〇ヘクタールの広大な土地を自国で定めた土地収用法によって一方的に没収し、ゼネストを起こして対抗するパレスチナ人に容赦なく銃撃をあびせ、六人を殺害、七〇人以上を負傷させた。以来、占領地にあるパレスチナの人びとは、この日が近づくたびに抗議行動をくり返してきたのだが、檜森孝雄の自決直前までのイスラエルの行動はとりわけ常軌を逸していた。
遺書に出てくるシャロンは、ローマ帝国に滅ぼされた紀元二世紀以前の領地にまでイスラエルの版図を拡大(大イスラエル主義)しようとする強硬なシオニストのリーダーであり、一貫してパレスチナ人を追い出しにかかり、隣国レバノンへも戦争を仕掛けてきた軍人であるが、ついに二〇〇一年首相の座に就くと、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)のムスタファ議長をミサイル攻撃で爆殺し、同年九月一一日に発生したウサマ・ビン=ラーディンを首謀者とするアラブ勢力によるアメリカ同時多発攻撃をめぐって「これは自由世界とテロ勢力、自由の敵との闘いだ」――この論理はいまのロシアによるウクライナ侵略戦争にもあてはまる――とし、パレスチナ自治政府をテロ支援団体と認定し――これもロシアがウクライナをネオナチ国家と規定しているのに似ている――それを大義名分にして、米国攻撃とは直接関係のない同政府と自治区、また難民キャンプへの攻撃を正当化した。
いつの世も変わらぬ戦術の第一歩は、攻撃対象への挑発行為である。シャロンは首相就任の前年、極右政党であるリクード党の党首として、エルサレム旧市街のイスラム教の聖地ハラム・アッシャリーフに建つ「岩のドーム」に一〇〇〇名以上の武装警護部隊を率いて強行入場し、「エルサレムはすべてイスラエルのものだ」と宣言した。予告段階からはげしく反発していたパレスチナ人は、土足で聖地を踏みにじられたことにたまらず蜂起し、投石や自爆攻撃による反攻を開始したが(第二次インティファーダ。アラビア語で「頭を上げる」の意。「蜂起」の意で使われる)、アメリカが支援する強力な武器のまえには、貧者たちのあらん限りの力など巨人に挑むいっぴきの蟻虫に等しかった。女や子どもらをふくむ三〇〇〇もの人びとが殺傷され、シャロンは熱狂的な国民の支持を集めて首相公選で圧勝したのだ。
彼は就任するや、躊躇なくパレスチナ自治区内に侵攻を開始した。ガザにあるPLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長執務室をふくむ自治政府施設をミサイルで攻撃し、ヨルダン川西岸ラマラの議長府に隣接する治安施設にも攻撃を加え、アラファトを軟禁状態に置いた。ガザの議長府本部ビルと警察本部にも三〇発以上のミサイルをあびせて壊滅させた。
そして檜森孝雄の自決前日、「アラファトはテロ連合を率いており、彼を孤立させねばならない。パレスチナのすべてのテロ基盤を破壊するために、あらゆる手段をとる」とシャロンは言い、無力化したアラファトがたてこもるラマラに大規模な攻勢をかけ、戦車で議長府を包囲、ブルドーザーで外壁を破壊し、議長府をふくむ総合庁舎に砲撃をあびせて敷地を完全制圧した。
この日からそう遠くない一九九三年、パレスチナ人とイスラエルは、二国家共存による和平を目指した奇跡的な日々があったのだ。同年、イスラエルのラビン首相とアラファト議長とのあいだで、「ヨルダン川西岸とガザで五年間のパレスチナ暫定自治をおこない、暫定自治開始から二年以内にその最終的地位に関する交渉を開始し、暫定自治の終わる五年後に、最終的地位協定を発効させる」という暫定和平条約が結ばれ、「最終的地位協定には、エルサレムの帰属、パレスチナ難民の処遇、安全保障、国境画定などを含む」ことまでが約束された。
「オスロ合意」と呼ばれるこの和平締結によってはじめてパレスチナ暫定自治政府が成立し、レバノン戦争でチュニジアに逃れていたアラファトは二五年ぶりにパレスチナにもどり、翌年ひらかれた総選挙で自治政府代表に選ばれた。しかしながら、シャロンほか強硬派シオニストはこの和平合意を粉砕しようと挑発や戦闘行為をくり返し、パレスチナ人とのあいだでテロの応酬や衝突が激化した。暫定政府発足から三年後の一九九五年一一月には、極右イスラエル青年によって現職首相であったラビンが暗殺され、大イスラエル主義者のネタニヤフが政権の座に就き、針の穴にラクダを通すよりもむずかしいと言われた和平への光の道は暗黒に蔽われてしまった。
ネタニヤフのつぎに首相となった比較的穏健派のバラックが、あらためて和平協議に乗り出したのだけれども、これをつぶしたのもシャロンであった。岩のドームへの強行入場はこのときのことで、アラファトがバラックと協議を重ねているさなかの九月二八日のことである。
「イスラエルにとって有利な和平」と「パレスチナにとって不利な紛争」を扇動するシャロンは「レバノン戦争のときアラファトを抹殺しておけばよかった」と言い、二国家共存の道を身の危険を顧みず探し求めてきたアラファトは、「シャロンのしていることは占領とテロだ。パレスチナ人はだれも屈しない。われわれはすべて殉教者になる」と言って、皆殺し必至の全面戦争に突入しかねない窮地に追い込まれた。
パレスチナではじめて女性の殉教者が出たのは、二〇〇二年一月二七日のことである。二八歳のワファー・イドリスは赤新月社(赤十字と同意。イスラム圏では十字を嫌いこのような呼称)で働く看護師だった。建国宣言と同時に攻め込んできたイスラエルに家を追い出された祖父母をもち、ラマナの難民キャンプで暮らしていた。多くの酷たらしい経験をしてきた彼女は、イスラエル兵が放った銃弾を頭にうけ致命傷を負った一五歳の少年の救命措置にあたり、それから数日後、エルサレムの靴屋へ行き、何足かの靴を試着した。そしてそのあと店を出るなり、身に着けていた貧弱な爆弾を爆発させた。八一歳の老人がひとり死んだ。(以上、『COURRiER Japon』二〇〇九年九月号)
ついに女性までが決起するようになった。檜森孝雄が自決を準備していた日々、パレスチナは瀕死の状況にあったのだ。
パレスチナは地中海の東沿岸にひろがる地域で、北をシリア、南をエジプトに挟まれており、「オリエントの肥沃な三角地帯」の一部をなしている。エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地であり、多くの衝突や侵略に見舞われてはきたが、二〇世紀はじめの第一次世界大戦以前までは共存関係を崩壊させるようなことはなかった。
パレスチナに暮らしてきたアラブ人をパレスチナ人といい、同地に建国されたユダヤ人国家をイスラエルという。アラブ人による紀元七世紀の同地征服以降、イスラエル建国までの一三〇〇年間にわたってこの地に定住してきた人びとがパレスチナ人である。ユダヤ人は、紀元二世紀にローマ帝国に滅ぼされて以降、二〇世紀半ばの建国まで一八〇〇年間、自国をもてず世界中に離散していた。この気の遠くなるような長大な民族の非望のさだめを「ディアスポラ」(ギリシャ語で「離散」の意)と彼らは呼び、帝政ロシア時代のポグロム(迫害)、ナチス・ドイツ時代のホロコーストといった人類史上もっとも酸鼻を極める民族浄化=大虐殺を経験するなかで、神の「約束の地」であるパレスチナに帰り、自分たちの国を建設しようというシオニズム運動が台頭してきた。
ところで、長年定住してきたアラブ人を追い出してユダヤ人国家をつくろうとするシオニストの論理には、自分たちこそアラブ人が来るよりまえに暮らしていた先住者だという考えかたがあり、なによりパレスチナは神がわれわれに与えたもうた「約束の地」だとする選民思想が底流にある。古代パレスチナを征服したユダヤ人は、飢饉から逃れた先のエジプトで長いこと奴隷にされたが、預言者モーセによってエジプトを脱出し、神がアブラハムとその子孫に与えると約束したカナン(パレスチナの古代地名)に帰還し定住するようになった、と旧約聖書は伝える。
シオニストはこれを神との契約と受けとめて、いままさにわれわれの運命にそのときが到来したと考えた。まぎれもなく聖書に書かれているのは自分たちのことであり、ついに「約束の地」に帰るときが来たのだと。こうした運命論は陰謀史観や歴史修正に陥りやすく、みずからそうした言説を声高に主張しがちだが、武力によって占領地を拡大しようとする強硬なシオニストたちは、不必要なくらい民族の歴史解釈を直線化し、多様性を排除する傾向が深刻だった。なぜならモーセが神から授かった「十戒」のなかでもっとも重要だと思われる三つの戒め――すなわち「あなたは殺してはいけない」「あなたは盗んではいけない」「あなたは隣人の家を欲しがってはいけない」について、それはユダヤ教徒のあいだにおける戒律なのであって異教徒にたいしてはまったく無効なのだ、と言わんばかりだからである。
ディアスポラのはじまりの年である紀元七〇年の聖地シオンの山(シオニズムの由来)の第二神殿破壊とその後のエルサレム壊滅で、ユダヤ人はひとり残らずパレスチナを離れたのではない。ローマは彼らを追放などしなかった。ビザンツ帝国を経てオスマン帝国の長い治世下になるとイスラム教に改宗する人びとも地中海世界では多数あらわれたし、同国が滅亡する第一次世界大戦以前までは、パレスチナのアラブ人とユダヤ人はこの地で共存し、たがいの結婚式に招きあい、一緒に食事をすることも日常的にあったのである。
もうひとつ、指摘しておかなければならない。ユダヤ人は国をもてなかったというけれど、七世紀から一一世紀にかけて、カスピ海の北部(ロシア南部)から西岸、そしてさらに西へカフカス地方をまたいで黒海の北部沿岸一帯(ウクライナ)にかかる広大な草原地帯に、ハザール王国というユダヤ教国家があたかも神との契約をはたしたかのように存在した。彼らはパレスチナを故郷とする人びとではなく、アブラハムやイサクやヤコブの子孫でもなかった。彼らは純然たる白人であり、キリスト教勢力とイスラム教勢力にはさまれた特殊な境遇のなかでユダヤ教に改宗したのだ。彼らはやがて台頭したキエフ大公国との戦争で衰退し、モンゴルによってとどめを刺されたが、このハザール人こそがアシュケナージと呼ばれる東欧系ユダヤ人の源流であり、イスラエル建国を主導したシオニズムは彼らから生まれたというのが、いまでは文献学や遺伝学などの研究によって証明されていると言っていい。
これを近年最初に多くの国々に伝えたのは、スターリン支配下のソ連でおこなわれた非人間的裁判を材に共産主義の悪魔性を浮き彫りにした世界文学の傑作『真昼の暗黒』の作者アーサー・ケストラーだった。ハンガリー生まれのユダヤ人である彼は、シオニズム運動の先駆者のひとりとしてパレスチナへ入植した経験があり、一時は大イスラエル主義のリーダーであったウラジーミル・ジャボティンスキー(ウクライナ・オデーサ生まれ)の側近でさえあったが、急激にすすむパレスチナ人排除と占領地拡大のユダヤ・ナショナリズムに失望し、一九四五年にはイギリスに帰化して、人生の最晩年にさしかかってユダヤ人とは何者であるかを探究する『第十三部族』を発表した(一九七六年。邦訳『ユダヤ人とは誰か 十三支族・カザール王国の謎』三交社、一九九〇年五月)。世界的に著名なジャーナリストであり作家であったケストラーは、同作で、ホロコーストの嵐を生き延びた世界のユダヤ人の大部分はハザール王国をルーツとする東欧系ユダヤ人であり、彼らの祖先はパレスチナとは無関係で、ボルガ川流域やカフカスの平原地帯に暮らしていたアーリア系人種であったとして、シオニストがとなえる単一民族説を否定してみせたのだ。
しかし彼は、虚無の嵐のように占領地拡大を押しすすめるイスラエル国家を否定するわけではなく、ヒットラーの幼稚で視野の狭い利己的なユダヤ人殲滅の人種理論を打ち崩そうという願望からこれを書いている。六〇〇万人ものユダヤ人を虐殺したヨーロッパの反ユダヤ主義とは、じつは多様な民族性の真実にたいする無知と虚構から生まれたものであり、ハザール王国の興亡物語を知れば、パレスチナにあった一二部族からなるユダヤの民には、じつはそれとまったく血脈を異にする一三番目の部族があったことが明らかになり、しかもホロコーストの犠牲者の大半がこの一三番目の部族であるのだから、ヨーロッパで巻き起こったこの反ユダヤ主義の騒乱は、まったく見当はずれな残酷きわまる茶番劇ということになる。
ケストラーの同作はこのような議論を起こし、多くの国で翻訳出版されさまざまな反響を呼び起こしたが、イスラエル国内の歴史学者は真実への探究の腰をあげなかったし、「これはパレスチナ人から金をもらった反ユダヤ的行為である」などという駐英イスラエル大使のコメントにあらわれているように、晩年の彼はイスラエル国家を擁護する立場を保っていたにもかかわらず、シオニストたちからさんざん不興を買ったのだ。
同書の出版がシオニストにとって深刻だったのは、彼らの帰るべき故郷はなにもパレスチナでなくてもよかった、ということになるからである。建国するなら真の故郷といえるカスピ海と黒海のあいだに横たわるハザールの大地のどこかであってもよかっただろうし、彼らを衰退させたウクライナのどこかでもよかったのではないかということになって、同一民族起源説をもってパレスチナへの建国を正当化してきたシオニストの主張を根底から揺るがしかねなかった。加えてケストラーが指ししめした方角には、ユダヤ・ナショナリズムを牽引するシオニストの論理や情緒的思考がナチスの反ユダヤ主義の構造とあまりにも似ている、という危険な海域がひろがっていた。ユダヤ人にたいするナチスのジェノサイド(民族浄化)と、パレスチナ人にたいするイスラエルのジェノサイドが同一線上に肩を並べて見えてくるのだ。
世界シオニスト連盟からも、イスラエル国内の歴史学者たちからも、ケストラーは口汚い言葉で非難をあびせられ、勇気を奮ってヘブライ語に翻訳した奇特なエルサレムの出版社は、ついに恐怖に打ち勝つことができず配本をあきらめた。
しかしながら、『第十三部族』を海外で手にとったユダヤ人は数多くいたのである。とりわけホロコーストを生き延びた東欧系のアシュケナージは、自分の血脈が遠くハザールに求められることを知り、反ユダヤ主義というものが幻想のうえにつくられた砂上の楼閣ような創作であり、それによって自分や自分の親族が苦しめられてきた事実を見出した。ナチスの悪名高いニュールンベルク法に書かれた、「父母または祖父母の一人がユダヤ教徒であれば、その人間はユダヤ人である」といったような人種差別規定は、あの狭くて不衛生でみじめなゲットーに押し込められながらも、非ユダヤ人との同化を志向してきたユダヤ人のわずかな希望さえ打ち砕いたが、これにたいしてイスラエルが採用したユダヤ人定義は「母親がユダヤ人か、あるいはユダヤ教徒」というもので、本人の信仰がたとえ仏教やキリスト教であったとしても、母親がユダヤ人ならその子であるおまえもユダヤ人であると規定する点において一致していた。イスラエルのユダヤ人規定は、宗教法のもとにいよいよパレスチナ人にたいする差別を押しすすめるための装置として生まれたわけで、殺し殺された者どうしがナショナリズムの点では合わせ鏡のように奇妙に連帯し、殺された者が殺した者の邪悪な知恵の果実をそっくり真似たのだ。
ケストラーの〝歴史惑乱の書〟から三〇年後、ついにイスラエルでシオニストの創作神話を実証的に突き崩す革命的な書物があらわれてベストセラーになったのは、祖父や父の世代にたいして自由であろうとするジェネレーションがイスラエル市民のあいだに成熟してきたからである。『第十三部族』がヘブライ語で出まわらなかったとはいえ、威圧的で情緒的な非難ばかりが権威ある各方面からあびせられたことで、むしろイスラエルの国民から、ほんとうはどうなのかと関心を集めていたこともあろう。その真実が客観的な事実と誠実な探究心をもって自国民の信用すべき人物に書かれることを。
現代イスラエルの歴史学者シュロモー・サンドは、テルアビブ大学で現代ヨーロッパ史を講じる現役教授でありながら、「ローマ人はいかなる『民族』の組織的追放も決して実行したことはなかった」という史実を明らかにし、「追放、離散、建国」といったシオニズム神話を根底から揺さぶった。彼の研究成果は『いかにしてユダヤ人はつくりだされたか――聖書からシオニズムまで』という大部な書物として二〇〇八年初めにイスラエルで出版され、まもなくフランス語と英語に翻訳、世界一五カ国でベストセラーとなった。日本では二〇一〇年に『ユダヤ人の起源 歴史はどのように創作されたのか』(高橋武智監訳 佐々木康之・木村高子訳 浩気社発行 ランダムハウス講談社発売 現在ちくま学芸文庫)の邦題で出版されている。
ヘブライ語で執筆したシュロモー・サンドは、どこよりもまずイスラエルで出版する道を選び、そして出版されるや同書は一九週にわたってベストセラーとなり、周囲の歴史学者からは「アカデミックな突撃のときの声」をあげられ、「激越なシオニスト」からはブログ上で「民族の敵として指弾された」という。彼らの声高な声援のおかげもあって、この歴史書はまたたく間に四万部を売りあげた。
オーストリアのリンツで一九四八年に生まれ、両親につれられて建国直後のイスラエルに移り住んだ彼は、アーサー・ケストラーがおよばなかった充分な実証的研究によって、ユダヤ人をじつに多様性をもった歴史的存在として多面的に掘り下げており、ローマによる神殿破壊後もユダヤ人はパレスチナに残り、むしろ聖地喪失によって直接神と向き合うようになり、それまでの大祭司を頂点とする権威主義的な信仰のありかたから転じて、ラビを中心とする平和と対話を重んじる豊かな信仰世界を築いていったことを物語る。
七世紀、新しく誕生したイスラム教を信仰するアラブ人にパレスチナ全土が占領されるまで、「ユダの人々がなお人口の大半を占め、ヘブライ語が支配的な現地語だった」とサンドは述べ、このアラブ人の征服によって、すでに神との対話さえできれば住む場所などどこでもよいと考えるようになっていた彼らは、アラブ人に追いたてられるまでもなく、みずからすすんでパレスチナをあとにした、と論証している。
したがって「紀元七〇年追放・離散」は史実ではなく、それより六〇〇年も下ったビザンツ帝国時代に離散がはじまったのであり、しかも彼らのなかにはパレスチナにとどまった者も数多くいて、血にまみれた離散ではなく「追放なき離郷」だったという。
こうした史実は、サンドがはじめて明らかにしたのではない。アーサー・ケストラーよりもずっとまえに、イスラエルの国民国家(ネイション・ステイト)としての自己確立のために聖書と歴史を専門に研究していた学者たちのあいだでは、つとに知られていたのだ。一九五一年に国民教育大臣に就任した、当時イスラエルでもっとも権威ある歴史学者のひとりであったベンツィオン・ディヌールは、「もしそうなら、近代になってからの彼らの領土権更新の要求がそれだけ正当化されず、承認されなくなるだろうと(中略)深刻に悩んでいた」とサンドはしるし、さらに学者たちの頭を悩ませたのは、ずっと古い時代、あのバビロン捕囚のとき、「連れ去られた人々とその子孫のうち、ほんの一部分しかエルサレムにもどらなかった。残りの人々、すなわち彼らの大半は、東方で花開き、まさに沸き立ちつつあったユダヤ文化の中心部に定着し、そこで繁栄する道を選んだ」という「公知の事実」であったと書いている。パレスチナになにがなんでも建国しようとしたシオニストの正当性は、ここでも大きく揺らいだ。
シュロモー・サンドは、ハザール王国についても一章を割いて精緻に論証している(「第四章 沈黙の地――失われた(ユダヤの)時を求めて」)。ここでは詳しくは述べないが、実在した国であったということに異論を差しはさむ余地は寸分もないし、サンドの著作にたいしてこんにちまでまともな反証はひとつも出されていない。
ユダヤ人とはパレスチナ離散時と同一の血脈でつながる単一の民族ではなく、ハザール人のようにユダヤ教に改宗した別民族をふくむグローバルな宗教的イデオロギー集団のことであって、ユダヤ教を信仰する正統派の敬虔な人びとは、自分たちはユダヤ人であるというアイデンティティをもっていたし、なにより彼らをとりまくキリスト教徒がユダヤ教徒を異端視し迫害したことによって、人種の区別なくユダヤ教徒=ユダヤ人という特殊な位置が確定されていった。
アシュケナージは中世ヨーロッパにおいてそうした全ユダヤ人口の八〇%以上を占め、カトリックを中心とするキリスト教拡大のなかで、イエス・キリストを処刑台に送った者として、またキリスト教徒に禁止されていた金融業などを営む呪われた異教徒として蔑視され、十字軍の侵攻、ペストの大流行時の虐殺をはじめとして、中世から近代にいたるまでさまざまなきびしい迫害をうけた。
シュロモー・サンドによれば、イスラエル建国後しばらくはこうした民族的多様性を認める実証的研究がさまざまに発表され、前出のベンツィオン・ディヌールも「離郷を生み出す母国」としてハザール王国を認め、「それも最も大規模な離郷の一つを、すなわちロシア・ポーランド・リトアニアへのイスラエルの子らの離郷を生み出す母国となったと考えることができよう」としていたが、強硬派のシオニストたちが占領地を拡大させるなかでタブー化され、「イスラエルの大学ではこのテーマについて完璧に沈黙を守り、問題をめぐるいかなる研究も生み出さなかった」という。それでも一九七〇年以前までは、「学界の定説となることはなかったにしても(中略)シオニストであろうとなかろうと、広汎な学者世界である程度まで受け入れられていた」と述べているのだ。
もはや、パレスチナを追放され世界中に飛び散った血の源流をひとつにするユダヤ民族が長く苦しい時を経て「約束の地」に国をつくったという建国物語は、シオニストによって創作された近代のファンタジーであったと断言してもいいだろう。彼らの大半がハザール王国から離散した先の現在でいうロシア、ウクライナ、リトアニア、ポーランド、ドイツ、ハンガリー、オーストリアなど中東欧諸国での迫害を逃れてきたアシュケナージであって、建国時の首相ダヴィド・ベン=グリオンはポーランド出身、二代目のモシェ・シャレットはウクライナ、以後歴代首相のほとんどがウクライナかベラルーシ、ポーランド(旧ロシア・ソ連領を含む)の出身者で占められ、シャロンはパレスチナ生まれだが両親はウクライナからの移民、祖父はシオニズム運動家であった。彼らこそ単一起源神話を主導した人びとであったが、だとすればアラブ人よりもむかしから自分たちはパレスチナで暮らしていたという先住性の主張も甚だしく正当性を欠くことになり、イスラエル国家の建設はパレスチナでなくてもよかったのではないかということになる。イスラエルという国家は、敬虔な正統的ユダヤ教徒によって建国されたのではない。「モーセの十戒」とは無縁の、すっかり世俗化したユダヤ民族主義者による政治的イデオロギー国家と言うべきだろう。
1958年宮崎県高千穂町生まれ。法政大学文学部中退。1999年『火花 北条民雄の生涯』で第31回大宅壮一ノンフィクション賞と第22回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に『鬼降る森』『水平記』『エレクトラ』『どん底』『大津波を生きる』『宿命の子』『ふたり』などがある。