【連載第1回】リッダ! 1972 髙山文彦

 重信房子の独房には、その日、桜の花のひとひらが春風に乗って、小さな窓から舞い込んできた。畳三畳の広さに暖房もないので、冬の寒さはたいそうこたえたが、古いだけあって窓の正面には大きな桜の樹が枝を伸ばしており、春爛漫を迎えていた。子どものころから花好きな彼女は、刻一刻と変化する桜のようすを歌に詠み、絵に描いた。
 東京拘置所は明治の建設時には煉瓦づくりだったが、関東大震災で倒壊後、鉄筋コンクリートに建て替えられ、昭和、平成へと引き継がれてきた古い建物で、翌年新築された獄舎に移るまで房には窓があり、外気にも触れることができて、花守のように彼女は心ゆくまで桜を愛でることができた。
 国際指名手配されていた重信房子は、この日より二年まえの二〇〇〇年一一月、潜伏先の大阪で旅券法違反容疑で逮捕され、オランダ・ハーグでのフランス大使館占拠事件の共謀者として起訴され、審理がはじまろうとしていた。彼女は無実を主張し、徹底的に検察と争う姿勢を見せていた。
 世界を股にかけた日本赤軍の最高指導者として、あるいは日本政府から六〇〇万ドルもの身代金とともに多くの同志を獄中から奪還した〝闇の奥の魔女〟として、ジャーナリズムは「テロリストの女王」などとさかんに書きたてたが、本人にはそのような自己認識は皆無で、むしろ公安当局の情報を鵜呑みにしてそのまま国民に伝えるジャーナリズムのありかたを悲しんでいるふうだった。
 テロリストとはなにか。だれが、なぜ、どのようにして規定するのか。髭もまだ伸びきらぬ少年を自爆攻撃に向かわせるのは、直接には所属の組織かもしれないが、彼らをそうせざるを得なくさせる国際政治の力学や意図を充分に理解しているのか。むやみにわかりやすく「善」と「悪」、「正義」と「不義」を対置することで事実はいつでも歪められ、尊い真実は鉄のカーテンに蔽われるか、無数のミサイルの着弾地に無言のまま埋葬されてきたではないか。
 翌々日の四月一日午前、弁護士の大谷恭子が突然面会に来たと聞いて、重信房子は「なんだか胸が騒ぎ、全身が粟立った」(重信房子『革命の季節』幻冬舎)。なぜならこのような場合、よい話がもたらされたためしがないからだ。
 面会室のドアを開けるなり、目のまえにいた大谷弁護士は、「あなたにとって良いニュースではないんだけれど……」と言い、檜森孝雄がパレスチナの「土地の日」の三月三〇日、日比谷公園のかもめ広場で焼身自殺をとげた、と正確な情報を盛り込んで一気に話した。
「私はただ呆然と聞き、涙を流す余裕すらなかった。〝焼身自殺〟〝パレスチナの土地の日〟という言葉が耳に残り、『ああ、彼はやってしまった……』という思いにとらわれた」と、重信はそのとき自分に起きた心の状態を述べているが、つづけて、「これは、絶望の〝自殺〟ではなく、パレスチナに連帯し、イスラエルに抗議し、そして殉教者の列に自らを整列させるために、彼はやってしまった……と思った。彼がもっとも愛し、志を分かちがたく結んだ仲間たち、パレスチナ解放の一環として30年前『リッダ空港襲撃作戦』で自決した戦士たちの列に自ら加わることを、きっといつも望んでいた彼にとって、それは必然の行為だったのかもしれない」(同)と、頭のなかを駆けめぐった思いをしるしている。
 もしかしたら自分が送った返事が彼の決意を揺るぎないものにしたのではないか、と彼女には悔やまれた。
 大谷弁護士は、今朝届いたという檜森孝雄からの重信宛ての葉書をたずさえていた。それは自決当日に投函されたもので、このように書かれていた。

 お手紙ありがたくいただきました。何度か繰り返し読ませてもらいました。返信を考えましたが文字にならず時が過ぎてしまいました。最後に、初めてお会いしたときのような笑顔で接し会えたかと思うと、人間捨てたもんではないと思っております。(後略)3月30日 ひもり拝

 大谷弁護士は、つづけて焼身現場に残されていたメモのコピーを見せた。アクリル板越しに読んだ重信は、やはりそうなのかと深い悲しみに沈みながら、冷静に考えられるまでにはまだしばらく時間がかかった。
 肉眼の記憶にかすかに残る若い彼の顔、写真でしか見たことがない中年の彼の顔、それらが桜吹雪に包まれて燃えあがる。連合赤軍事件でリンチのはてに殺された明治大学の親友・遠山とおやま美枝子みえこを彼女にとっての最初の犠牲者とするなら、奥平剛士と安田安之の戦死、それにつづくPFLPの幹部で作家であったガッサン・カナファーニとその姪の爆死、武力支配された被占領地でごみか虫けらのようにつぎつぎと殺されていったパレスチナの友人たちを含めたら、彼女のこれまでの人生はおびただしい犠牲死にとりかこまれていた。
 その後、檜森の追悼の会に出席した大谷弁護士から、仲間たちが紹介した話として、郷里の葬式には親戚や友人、幼馴染がたくさん集まり、天涯孤独のように自分の境涯を語っていたのは彼一流の照れ隠しであったこと、いつも母親には心配をかけていたが、あいつは母思いで、母親が死ぬのを見届けてから死んでくれたのは救いだったと実兄が言っていたこと、丸岡修の妹からは、親族以外の面会は許されていないのを承知で、郷里への行き帰りには決まって宮城刑務所に立ち寄り、受け付けてもらえないだろうと知りながら律儀に差し入れをつづけていたこと……そういった意外な話を聞かされて、救われるような思いがした。
 9・11事件の年の晩秋、接見禁止の房に、檜森は季節はずれのあやめの花を無言で差しいれてきたことがある。彼女にとっては、ベイルートの五月を思い出させてくれる花のひとつであるアイリス。奥平と安田の死をともに弔いたいという気持ちとともに、9・11の自爆作戦を決行したアラブゲリラの思いを共有したいとでも思ったのだろうか。檜森は同事件の直後、「ボクは、9・11闘争を無条件に支持する」と言い、「平和的であれ暴力的であれ、人間の尊厳を回復するための抵抗を無条件に支持します」と、遺書に書いていた。重信は、あの事件のあとから彼は自決による完結を真剣に考えはじめたのではないかと思うようになった。「リッダ作戦でなくなった被害者と仲間だった人々の両方のためにも、これからも活動していく」と、彼が実兄に語っていたということも新聞で知った彼女は、檜森の心のありさまを自分なりにようやく理解した。
「抑圧された側に身を置いて、『平和的であれ暴力的であれ』そうした人々の闘いを無条件で支持するという確固とした信念」を檜森孝雄はもちながら、「同時に現実に暴力性において他者を殺すなら、自分が命を絶つ方を選び取るという、彼の30年目の『リッダ作戦』への回答だったような死だ」(同)と彼女は思い、二〇二〇年五月二八日、二一年七カ月におよぶ獄中生活を経て、四度がんの手術をうけながら生きて社会にもどってきた彼女は、出所とほぼ同時に刊行した『戦士たちの記録 パレスチナに生きる』(幻冬舎)のなかで、ふたたび檜森の自決についてこのように述べている。

 ユセフ(檜森のアラブ名・引用者注)はバーシム(奥平のアラブ名・同)をはじめとするリッダ闘争の仲間たちと同じ意志を持って決起したのだ。1972年のリッダ闘争に照応する30年後、2002年の日本での闘いは他者を傷つけることなく、自決する闘いとなった。あいも変わらずむしろ慢心して弾圧につぐ弾圧をくり返すイスラエルに対し、抗議で総身を燃やす、バーシムら仲間の戦士たちのもとに帰る道は自決しかなかったのだと思う。

 このとき彼女が思い浮かべたのは、三〇年まえ、同じようなタイミングで、ベイルートのシェルターに届けられた二通の手紙だったのではなかろうか。その鮮烈な戦死の報からほぼ一週間後、まったく思いがけずローマから届いたのである。どちらも奥平剛士からの手紙で、一通は重信宛てに、もう一通は彼の両親宛てに、そして最後の一通は叔母宛てに、作戦決行の前日に書かれていた。
「奥平(こう、僕は呼びたいので)房子さん」と、檜森孝雄は『ひろば』という仲間内の回覧誌で重信房子のことを呼んでいる。戸籍上このふたりは夫婦であり、どうやらこの一点において檜森は彼女との絆をつなぎとめていたのではないかとも思えるし、あるいはまた、彼女の懐妊を聞いたとき、お腹の子は当然奥平の子だと思っていたので、あとでパレスチナ・ゲリラの幹部が父親だったと知って、裏切られたような衝撃の記憶がしばらく去らなかった。彼女と距離を置いたのは、それも理由のひとつになっていたかもしれないが、それはともかく、彼女は両親への遺書を託されるほどの関係ではあったのだ。
「予想していなかったので戦死後突然届いた手紙に驚き、血が逆流するような想い」(前掲書)のなかで開封した彼女は、こんにちまでいくたびも読み返し、「あの時の胸の震えた自身の慟哭どうこくは今もよみがえる。今、私は当時のリッダ戦士たちと共にした時をふり返り、母親、あるいは祖母の年となって読んでも、自分たちの革命の季節の、ひたむきな精神の高揚感が同じように訪れる」(同)と言っている。転戦や避難や逃亡をくり返すうちに、自分への手紙はどこかに失くしてしまったが、しっかりとおぼえていてメモに残しておいた。「ローマの大聖堂の窓辺で、今この手紙を書いています。窓から美しい日射しが届いています」ではじまるそれには、「これから旅立ちそちらに戻ります。ありがとう。生きたい道を生きられたことをあなたに感謝する」とつづき、「我々の戦死は決して悲しまないでほしい。葬式ではなく祭を! 祭こそ、我々の斗いと死にふさわしい。先に行って待っている。地獄で又、革命をやろう」と結ばれていた。
 最後の言葉を言ったのは、じつは重信のほうだった。奥平たちを戦地へ送り出すパーティーを終えた夜、彼女のアパートに奥平が来て、ランボーの詩などについてひとしきり話をしていると、「僕たち、最後に何で詩の話なんかしてるんだ」と奥平がおかしそうに言うので、「地獄でまた革命やる気だからじゃない?」と彼女は笑い返した。それを思い出して、彼は返礼のように書いてよこしたのだ。
 重信房子は声をあげて思う存分泣いたあと、同封されていた両親への手紙を読んだ。こちらのほうは新しい封筒にいれなおし、遺髪とともに無事に両親に届けられたので現物が残った。彼女のアパートにあらわれるのは、奥平と安田のふたりしかいなかった。パーティーのまえだったかあとだったか、きれいにしましょうねと言って散髪をしてやり、もしものときのために切り落とした髪を大切にしまっておいたのだ。安田の髪も切ってやったはずだが、彼の両親に送ったかどうか彼女はおぼえていない。

 ご無沙汰しております。今ローマから書いています。これが最後の手紙になるでしょう。国を出る時から生きて帰ることはないときめていましたが、不思議に今まで生きのびて、多くの人にあい、多くの事を知り、そして、最初の考え通りの路を行こうとしていること、何度考えても、ありがたい事だと感じます。思う通り、わがままいっぱいにさせていただきましたこと、お礼の言いようもありません。ついに孝養のこの字もさせていただくひまがありませんでしたが、もしも任務が許すならば、いつも第一にそれをしたいと思い続けていた事は、わかって下さい。我々兵士にとって死はごく当然の日常時ですが、ただお二人が嘆かれるだろうこと、それだけが今僕のこころを悲しませます。ベトナムで今死んでいく数千の若い兵士、こちらで、又世界の至る所で、革命のために死のうとしている若い兵士たち、僕らもその一人だし、あなたがたも彼らのために泣いている何千何万の父や母の一人であること、こうした我々の血と涙だけが何か価値のある物を、作り出すであろう事をいつもおぼえていて下さい。
 ローマの空は明るく、風は甘いです。町は光にあふれています。少年時よみふけった、プリュータークの思い出が町の至る所で、僕を熱くさせます。仕事がすみしだいお二人のもとに帰ります。
 ではお元気で。さようなら

剛士

 お守りはちゃんと持って行きます。写真といっしょに。

(一九七二年五月二九日)

 これが殺戮と自決を胸に、あした旅立とうとする二六歳の青年の遺書なのだろうか。混じりけのない水晶のようにのびやかで、率直で、明るいのだ。「プリューターク」とは、少年少女向けの偉人伝を得意とした澤田謙の『プリューターク英雄伝』のことであろう。子どものころ父親から贈られたものだった。追伸にある「写真」とは、早世した兄の遺影のことだ。
「あの時思った」と、重信房子は言う。「彼らは死に、私は生きている。否、彼らの中の私は死んだが、彼らは私の中に生きているし、生き続ける」(同)と。そして、「事実の暴露」をもって彼らとパレスチナの真実を生あるかぎり伝えることが自分の残りの人生の使命だと述べている。
 奥平が置いていったいくつかの遺品のなかから、彼女はぼろぼろになった文庫本のアルチュール・ランボー詩集『地獄の季節』をひらいてみた。「俺は自分の理性の囚徒ではない」(小林秀雄訳・岩波文庫)という一節に黒々と太い線が引かれているのを見つけて、決意を不動のものにしようとしていた孤独な時間の密度が感じられた。
「もう行く。ありがとう今日まで」
 最後に彼はそう言ってアパートを出て行き、ひときわ金星のきらめく暁闇の空の下を一度もふり向かず角を曲がって消えた。山田修の死後から飼っていた野良猫のオリードが、彼のあとを追いかけていった。
「リッダ闘争を巡って主に岡本公三氏が語られてきたが、戦死した仲間たちの息吹はほとんど伝えられることなく二十数年が過ぎた」と、檜森孝雄は遺稿(「水平線の向こうに」)の冒頭近くに書いているが、まさしく生き残った者だけが語り、語られ、死んだ者は書かざる自伝とともにこの世から消えたのだ。

               
 これから私は、なるべく奥平剛士に焦点をあわせながら、彼らの肖像と伝記を書いていこうと思う。他国の空港――そこはそもそもパレスチナ・アラブの土地であり、パレスチナとイスラエルは戦争を継続中だったのだが――における前代未聞の襲撃作戦は、二〇〇一年九月一一日の直接アメリカをねらった「同時多発テロ」で頂点に達した感があるが、その源流となった彼らの姿は、鏡の表と裏を返して見れば、なにも粗野で思慮分別に欠ける無頼漢などではなく、パレスチナ・アラブの人びとにとっては数千キロかなたのはるか東洋からあらわれた奇特な義民であり、当時だれもがそうたやすくは踏み込めなかった虐げられた人びとの大地に、日本人としてはじめて奥の奥まで踏み込んだ勤勉で実直なエクスプローラーであったことがわかってくるだろう。キューバ革命政権樹立後、アルジェで痛烈なソ連批判をしたあと、忽然とキューバを去り、はるかコンゴへと渡ったあのチェ・ゲバラがそうであったように。
 もとより歴史というものは、名もなき人びとの汗と涙によって綴られるものではない。王政廃止、主権在民、信仰の自由を宣言し、国民国家という近代国家像を人類史にはじめて現出させたナポレオンでさえ、「歴史とは暗黙の諒解のうえにできあがった嘘の集積である」と喝破したように、またトルストイが「真実だけでできていたなら、歴史はすばらしいものだったろうに」と嘆いたように、勝者や支配者によって跡付けられる「正史」から見れば、つくづく彼らは唾を吐きかけられ踏みつぶされるべき不純物か雑菌のたぐいであろう。しかしながら五〇年が過ぎたいま、なぜ彼らがそのようにあらざるを得なかったのか、心を落ち着けて現実を正視してみるとき、世界の「正史」の形相は一変するだろう。
 下関、岡山、京都と奥平が生まれ育ち学んだ場所をめぐり、彼と行動をともにした重信房子、そしていまは死んでしまってこの世にない丸岡修とも私はたびたび面会し、手紙のやりとりも頻繁にするようになった。ふたりはこちらの仔細でしつこい質問にいちいち誠実にこたえ、誤解や資料の誤まりなどを含めて正確な事実を伝えようと、制限された枚数をコクヨの集計用紙を使ってびっしりと小さな文字で埋め尽くし、送り返してきた。
 岡本公三に会うために訪れたレバノンでは、なにもかも灼き尽くしてしまいそうな中東の烈しい太陽の放射と、ひざまずきたくなるようなパレスチナの終わりのない悲劇のなかに、彼らの行動の真実が息づいているのを知った。日本では到底測りえない感情と記憶の重量が、そこにはあるのだった。
 奥平と安田の遺体は、イスラエル政府によって広大な砂漠のどこかに埋められた。ネゲブ砂漠はイスラエルの国土の半分以上を占めている。私は無辺の砂漠地帯を行きながら、ゆらめき立つ蜃気楼の向こうに、幻影でもいいから、ふたりがあらわれてくれないかと思った。

※続きは随時更新します

初出:P+D MAGAZINE(2022/10/27)

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「リッダ! 1972」アーカイヴ

髙山文彦(たかやま・ふみひこ)

1958年宮崎県高千穂町生まれ。法政大学文学部中退。1999年『火花 北条民雄の生涯』で第31回大宅壮一ノンフィクション賞と第22回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に『鬼降る森』『水平記』『エレクトラ』『どん底』『大津波を生きる』『宿命の子』『ふたり』などがある。

特別対談 田口幹人 × 白坂洋一[後編]
採れたて本!【デビュー#05】