【連載第1回】リッダ! 1972 髙山文彦

 それまで意識的に距離を置いてきた日本赤軍の元最高指導者・重信房子にも、三〇年ぶりに手紙を書き送り、二〇〇〇年に逮捕収監され二〇年の懲役刑をうけることになる彼女の裁判にもはじめて傍聴に出かけている。
 距離を置いていたのは、リッダ作戦を決行した日本人部隊が自分たちのことを無名戦士として永久に位置づけられることを望んでいたにもかかわらず、それまで存在してもいなかった「日本赤軍」の結成をただちに重信房子が宣言し、奥平と安田、岡本の三人があたかも日本赤軍の戦士であったかのような印象をジャーナリズムに与えたことに起因しているのかもしれない。
 鹿児島大学農学部の学生であった赤軍派シンパの岡本を除けば、奥平と安田、山田修は京都大学工学部共闘会議の仲間だったし、檜森は立命館大学法学部の学生で、この四人は一九六九年の京大闘争敗北後、京大助手の滝田修(本名・竹本信弘)が提唱する綱領や党則などいっさい設けない少数単位のゲリラ戦を志向する遊撃的な革命家集団「京都パルチザン」のメンバーであった。奥平をリーダーとする彼らは銀閣寺近くの白川疎水のほとりにある二階建ての日本家屋をアジトに、土木現場で肉体労働をして資金を稼ぎ、レバノンに向かった。
 檜森には重信房子が属した共産主義者同盟赤軍派への批判や不信感が強かったし、リッダ作戦は現実としてもそうなのだが、あくまで京都パルチザンが担った闘争との意識が強かった。もうひとつ、重信逮捕から五カ月後、彼女が日本赤軍の解散宣言を獄中から発したことにたいして、しっかりと総括の議論もせずになぜ一方的にそのようなことをしたのだと、地団駄を踏む思いでいたのだ。檜森は重信を「魔女」と呼び、彼女が言い出した日本赤軍は「家父長制に依持された悪しき旧日本型の組織」であり、「重信の私党」であると言っていた。
 こうした思いもあって、彼はこれまで明らかにしてこなかったリッダ作戦をめぐる事実関係について手記を書きあげ、掲載誌を彼女に送った。これは作戦の真実を知らない彼女に総括の一助としてもらいたいがための遺書のつもりではなかったかと思われる。自決を準備するなかで、彼女への愛憎おりまざる複雑な思いも溶解していったのではなかろうか。このような手紙を一緒に書き送っている。

 サ姉へ
 ごぶさたです。
 丁度、30年ぶりの便りとなります。お元気でしょうか。
 昨年、Tさんから句をいただいております。花が描かれた句をじっと見させてもらいました。
 しばらくの間、返歌を考えていました。平安の時の恋歌の類をひっくり返したりしながら、ついに諦めたのですが、返歌とは程遠い覚え書きを新たに書き進めました。
『黒』というアナキスト誌に一文を載せてもらいました。今日11日、出来上がった冊子を送ってもらい、場になじまない拙文を確かめて、体から力が抜けていくようです。
 99年に『叛』に一文を載せましたが、あれは岡本を一人にしない僕なりの表現のつもりでした。今回のは、二人を含めた京都の仲間たちへの送り言葉のつもりです。

 どう呼んでいいのか途惑いながら書き始め、サ姉と記していますが、もう1年以上の接禁状態なのですね。これから、どれ丈、この状態が強いられるかわからない日本の状況です。そして、僕の方もどれ丈生きてられるかわからない状況です。
 人を介した言葉で、例え語句が正確でも全く別な意味合いをもって伝えられることを繰り返し体験してきたのではないか、と僕は思っています。『叛』も『黒』も、そうした表現になっている可能性は否定できません。その上で尚、言葉を発したのは未熟のさらけ出しかもしれません。御笑覧下さい。
 いつか、直にお会いできる日が来るのを心待ちにしていました。それもどうやら危ういようです。今度の18日には地裁でお目にかかりたいと思っています。柵越しの再会を受け入れる心の整理がつくかどうか、試してみます。
 再見! 2月11日

 彼は二月一八日にひらかれる公判で再会を果たしたいと言い出している。大きな変化である。
「サ姉」と呼んでいるのは、「サミーラ」というアラブ名から来ている。でもこれは、彼女の二〇代の終わりに出版された自叙伝(『わが愛わが革命』講談社)に便宜上使われた仮の名にすぎず、現地でも偽名として使われており、「マリアン」というのが正式な呼び名だった。檜森も当然よく知っているはずなのに、「どう呼んでいいのか途惑いながら」と手紙にもあるように、彼にとってはまっすぐに向き合うにはまばゆすぎる光源なのだ。最後に「再見!」と書いたとき、彼の胸は大きく波打ったことだろう。
『叛』という雑誌に檜森が原稿を送ったのは一九九九年一月二〇日のことだった。「日本赤軍創成期をめぐる覚え書」と題するそれには、日本出国からレバノンでの活動、山田修の死の詳細のほか、日本赤軍の総括を指向するような文章が綴られているが、重信房子にたいしては、どんな批判もしているわけではない。断片的な回想と考察が織りまぜられたそれのなかで、こちらの目をひときわ引くのは、「警視庁で見せられたサラーハ(安田安之のアラブ名・引用者注)の遺体写真には首から上が無く、手榴弾で自爆したというのは本当だったのだ、とわかった。覚悟の上の自爆だった。あの空港での銃撃戦の最中にこれほど見事に自爆したということに、空港で別れてからの四カ月が伝えられてくるような気がした。バーシム(奥平剛士のアラブ名・同)の遺体を見せられることはなかった」という一説で、安田安之の壮絶な自爆死のありさまが伝説ではなかったことが明示されている。人を殺すのだから殺す側も自裁によって人の死にこたえなければならぬという、檜森も一緒に交わしたあの日の誓いどおり、彼は自分の顔のまえで手榴弾を爆発させたのだ。「警視庁で見せられた」というのは、帰国直後に旅券法違反で逮捕され、リッダ作戦について事情を聞かれたときのことである。
公判は予定どおり二月一八日、東京地裁でひらかれた。彼は出かけていった。どんな気持ちだっただろう。
 ところが、傍聴席に腰かけて彼女の入廷を待っていた彼は、彼女があらわれてまもなく静かに席を立ち、法廷の外に出ていってしまった。それから廊下にしゃがみ込み、長いことなにか考え込んでいた。遅れてやってきた足立正生が体調を心配して隣りにしゃがみ込むと、握りしめていた傍聴券を差し出して、「ちゃんと挨拶はすんだよ」とつぶやいて、ゆっくりと立ちあがり歩き去っていった。足立が檜森の姿を見たのは、それが最後である。
 重信房子の手元に掲載誌と手紙が届いたのは、三月六日であった。弁護士から受取人に渡るまで、ずいぶん時間がかかってしまった。檜森が来るのを知らない彼女は、知っていれば目で探すものを、幾人かの知人と挨拶を交わして被告人席に就いたのだ。
 万感こめて書いたであろう手紙を、彼はきっと読んでもらえたものと思っていた。にもかかわらず、彼女は自分を探そうともしてくれない。それでムッとして出てしまったのだろうか。
 思いがけない手紙と手記をうけとって、彼女はおどろいた。そしてどちらも読み終えると、あくる日すぐにペンをとった。檜森のことはこの三〇年、忘れるはずがなかった。折にふれてようすは聞いていたし、心配していたけれど、なかなか自分から便りを出せなかった。それが突然、心をひらいてくれたように手紙をくれて、こちらの心もひらき、書きはじめたら長文になってしまった。
 数日まえ、大谷恭子弁護士から檜森の近況を聞いていたが、そのときにはまだ手紙と掲載誌が届いていることを知らされていなかったと、ことわりをいれたあとで、「彼らは死に、僕は生きている。その瞬間が今尚続いているような気がする」という雑誌の一節を引いて、「その想いは、丸岡さんを含む、当時の陽射しを知っている者の同じ実感かもしれません」と書き出している。
 自然、流れの中心には奥平剛士がおさまり、リーダーとして「抜きんでた存在だったこと」、「べき論とか、大げさなもの言いとか、格好つけるとか、そういうのがない人で、赤軍派の人々とのちがいにびっくりした」こと、「日本の運動に何か返せればという思いからスタート」した自分のようなものとは違って、彼は「パレスチナ革命、解放闘争そのものに踏み込んで、相手の要求に最高形態で応えることを願い、又、覚悟していた」人であったとペンをすすめる。決死作戦をめぐる奥平と山田のはげしい論争、山田の不慮の死、「帰らない旅になるかもしれない」と突然奥平に告げられ、こんどは自分と「大激論」になったこと。そうした彼の上にのしかかっていた「重圧や、悩み、葛藤の様々を共有しきれる対象たりえなかった自分を、失って後、はりさけるような痛みとして自覚させられたものです」と綴る。
 檜森の心にあるわだかまりへの思慮も忘れていなかった。空港襲撃作戦後、「当時、マスコミ的な関心が私に当てられた分、バーシムやサラーハらの静かな生き様に雑音をたてた形になりましたが、彼らは、路傍の石や、草のようでありたかったのだろうと思います」と、檜森の心中をおもんばかるような言葉がつづき、そして後段から終わりにかけて、このようにしるす。

 同じように、生きていることへのこだわり、彼らの死にもかかわらず生きつづけて来たあなたのたたずまいを、行間から読みます。少ししか判らないかもしれないけど、共通する想いを感じます。彼らだけを行かせてしまったという、あなたの苦渋は、生として、生をもとめるよりも、たとえば9・11を支持する様な「やさしさ」に沈殿している何かを感じます。彼らはきっと、もっと、ちがうのではないか、と私は思います。とは言っても、親しい距離に居たのはあなたなのですが。(中略)
 奥平さんの母上が、どうしているか判りませんが、御挨拶出来る立場にはありませんが、もし交流していらっしゃるのでしたら、お詫び方々、御挨拶をお伝えください。
〝語句が正確でも全く別な意味合いをもって伝えられることを繰り返し体験してきたのではないかと僕は思っています。〟その痛みや無念さを、思い計ってくれる友が居るだけで十分に嬉しいことです。
 会って、自在に話せば溶解することも、かかえたまま、いつかの再会を願いつづけます。同じ反弾圧・新しい希望を共に。
 では又。

 それぞれの秘密を厳守せねばならなかった特殊任務のなかで、いくつかの行き違いがあり、誤解を生じさせたことがあったのは、重信房子のおおらかで度胸のすわった正直な気風が、作戦から外されてひとり生き残ってしまった檜森の屈折した心理に少なからぬ影響を及ぼしていたからではないかと思われる。
 ふたりが直接会っていたのは、一九七一年九月に彼がベイルートにあらわれて以降、翌七二年二月に帰国するまでの数カ月間にすぎず、それも片手で数えられる程度でしかなかった。彼女には、奥平剛士をリーダーと仰ぎ、安田安之を兄として、ふたりの傍らにいつも付き添っている、あまりしゃべらないが目だけはきらきらしている痩せぎすの二四歳の青年という印象くらいしかなく、山田修の遺体を日本に連れ帰る役割を奥平から厳命され、悔し涙を流して拒みつづけていたとき、「必要なら、また来ればいんだから」と主張した重信を不満そうに目を見ひらいて睨んだことがあった。それを彼女はおぼえている。決死作戦から最終的に自分を外したのはこのひとことだったとでもいうような、ひねくれたような感情が彼のその後の人生に底流していた。
 檜森は何度も手紙を読み返したに違いない。そして自分の9・11支持表明を「やさしさ」と解し、そこに苦渋の沈殿があると読む重信本人こそ、いまなお「はりさけるような痛み」を引きうけて国家権力と戦っていると感じたのではないか。いま問われている彼女の罪はでっちあげられたものであり、なんの罪咎つみとがもないことを確信している彼には、目と目をあわせてしまえばなにをしでかすかわからなくなりそうな自分が、きっと怖かったのだ。
 近い日の死の到来をほのめかすような一行をもつ檜森の手紙に、彼女は返信で、「あなたも、責任としても、しぶとく生きつづけて下さい」などと元日本赤軍の最高幹部らしく激励しているが、この目と目をあわさぬ一方的な対面が、三〇日を決行の日と定めている彼にとっては最後の別れの儀式となったのだ。


「リッダ! 1972」アーカイヴ

髙山文彦(たかやま・ふみひこ)

1958年宮崎県高千穂町生まれ。法政大学文学部中退。1999年『火花 北条民雄の生涯』で第31回大宅壮一ノンフィクション賞と第22回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に『鬼降る森』『水平記』『エレクトラ』『どん底』『大津波を生きる』『宿命の子』『ふたり』などがある。

特別対談 田口幹人 × 白坂洋一[後編]
採れたて本!【デビュー#05】