【連載第2回】リッダ! 1972 髙山文彦

リッダ! 1972 第2回


 教養課程二年目の終わり、後期試験のいくつかをうけず、みずから選んで留年を決めたとき、追試をうけろと学生課が助け舟を出してくれたのに、「受けたら通るかも知れんから、受けん」と言って、職員の目を白黒させた奥平であった。父親には秋にはすでに留年の希望を伝えていたが、その理由とは、「物理や数学の演習問題をほとんどやってないから」(『天よ、我に仕事を与えよ』)。自分が自分に招いた境遇に情けをかけられるのを嫌う、正直で生真面目な性格だったのだろう。
 なぜ留年したのか、はっきりとはわからない。ただ、はっきりしているのは、遊び惚けていたわけではないということだ。むしろ彼は真剣に生きていた。それは彼の死後六年を経た一九七八年一二月に後輩たちの手によって刊行された遺稿集『天よ、我に仕事を与えよ』におさめられた日記や読書ノート、両親をふくむ関係者へのインタビューを読んだらわかる。残念ながら日記は、前述のように一九六七年二月二六日までしかなく、これは教養部の留年が終わろうとする時期でもあり、入学以来つづけてきた東九条のスラムでのセツルメント活動に訣別した時期とも重なる。
 二回生でリーダーのひとりとなった彼は、スラムの子どもたちに勉強を教えたり、公園で遊ばせたり、ハイキングへつれていくだけでなく、地域活動にも熱心に取り組みながら、生きる意味を求めて苦闘している。
 セツルメント活動の本拠地の建物は、カトリックの神父をリーダーとして建てられた「希望の家」という施設であった。奥平たちは共学制の他大学や女子大もいれて「兄弟会」をつくり、その施設を兄弟会としてではなく個人として子どもたちに読み書きを教える場合に限って使わせてもらっていたが、九月には希望の家とのあいだで話し合いがもたれ、「来年二月に新館が完成するまで当分のあいだ休んでほしい」と、神父から出入禁止を通告されてしまった。その理由とは、「子どもの監督は専門家でないとできないし、学生にはそうした技術を学ぶ時間がない」というもので、神父はこのように言った。
「あなたたちにはこの地域の子どもたちを指導する力はない。地域の人、学校の先生、皆そう言う。青年を指導するのはよけい無理だ」
 よろず屋会からも、三行半がつきつけられた。
「青年と学生が交わるのは最初から反対だった。青年と学生は違う」
 あの東九条青年会のリーダー、そしてよろず屋会の舵をとる男が、このように言うのである。
 これは奥平の一九六四年九月一七日の日記に書かれている。まだ活動をはじめて数カ月しかたっていない時点で、歓迎されざる存在として撥ねつけられたのだ。三日後、思うところがあったのだろう、「俺自身の前期活動の総括」と題して彼は日記にこのように書きつける。
「俺は何を何のためにやってきたのか。最初、底辺研に入ったのは、何もやらないでいるのがやり切れなかったこと。小島や秋本が学生運動に入っているらしいことに対する負けたくないという感情、つまり見栄。それに岡田さんの影響があった。
 とにかくあの時は、俺が非凡な学生でないことを示すためにはどこかの部(それも左翼関係)に入らざるを得ぬような動機であった。
 セツルメントが何であるかはっきり知っていたわけではない。ただ漠然と底辺の人に接することによって人間を大きくする(ごく卑俗な意味で)と思っていたにすぎない。
 そのころの俺には左翼的な思想は全くなかったから。学生運動に入るのはいやだったことも、セツルをえらんだ理由の一つである」
 すでに私たちは彼が一九七二年五月三〇日、イスラエルの地で華々しく死ぬことを知っている。しかしこれを読んでみると、はじめから革命一直線の思いつめたような青年などではなく、むしろ左翼思想や学生運動から意識的に距離をおき一個の人間としての成長を追い求める、ごくありふれた非政治的青年だったことがわかる。ただしそれは文学青年にありがちな内向的でヒロイックなものではなく、たとえば同年七月二八日の日記に見えるように、「研究者として資本家の望む一つの機械としての人間になることから逃れる道がセツルで見出せるのではないか」というような、近代資本主義が抱えてきた矛盾を乗り越えていくための現実的思考であり、彼は研究者になることを望んでいたのだ。
 東九条青年会とよろず屋会のリーダーであり、土木作業に従事する人物は、日記やインタビューに「大杉」という名でたびたび登場する。彼との出会いによって奥平は土方をはじめ、セツルメント活動を離れてからも東九条とは縁を結びつづけたのだが、私はこの「大杉」という人物こそ奥平の核心を肌身で知る人ではないかと考え、東九条のほうぼうを訪ね歩いた。奥平にたいする思いの深さを、このようにインタビューで語っているからである。
「あいつの性格というのは、ともかく、『まず俺が、甘いか酸いか嚙んでみたる』というわけや。『正しいやつをわしがまず実行したる。ええか悪いか、初めから能書きは言わへん。俺からやったる。それによって、お前らがよかったらついて来い。間違うてんなら、どっちなと行け。寝ころべ。あっち向いて走ってもええ』。そういうとらまえ方を一貫して持っているわけや。わし、それが好きなんや。(中略)
 そうかと思うたら、人間がね、本当に苦しんで、自分が弱気になったときには、ものすごく支えてくれる。わしが椎間板ヘルニアで腰を切る〔手術する〕時、誰かが電話をかけたんか、誰かから聞きよったんやな。まだおぼえてるわ。(中略)それで、『お前、切るのか? 切るのはやめとけ。わし、これから医者へ行って聞いてきたる』いうて、医者とひざづめ談判して聞いてきて、また帰って来て、説明しよったな。その時に、わし感服したな。『腰切るのは相当慎重にやれよ。動くのやったら薬と注射で癒したほうがええぞ』と。その時、びしょ濡れや。(中略)
 よかったよ。地域の人に対しては、本当によかったよ。どんな人ともわけへだてのない、区別、差別も全然ないわな。兄貴がもっていたと思うけど、あの何でも学んでやろうという、貪欲な姿勢、あの姿勢ね。すべてをオールマイティにするのやと、自分のもんにひきいれていくんやと、そのなかで、おのれのもっている信念とどうなんかというとらまえ方というのは、わしらにはできんかもしれん」
 体力のはげしい消耗とつねに危険がまとわりつく土木現場において彼は、まず自分が先に「正しい」仕事の手本を実践してみせ、それをもって人を引っ張ろうとする不言実行型の青年であった、と大杉は言うのである。率先垂範、去る者追わず型のこのような人間は、その厳格なありかたが孤独で冷たい印象を周囲に与えることがあるいっぽう、たとえひとりになっても黙々と最後まで目的を達成しようとする強固な自我を確立していたものと思われる。
 大杉は自分が椎間板ヘルニアの手術をうけるときの奥平の親身な姿を語っているが、彼は同じインタビューのなかの別段落でも、請け負った仕事をひととおり終えて親方から手渡された工事代金をもって病室に駆け込んできた奥平の姿を伝えている。入院費用を心配したのだろう。「この金はあなたの金だから全部やる」と彼は言い、大杉は「なにいうてんねん。これはおまえが汗水流して稼いだ金やないか」と押しもどし、結局半分に分けようと譲歩させる。最悪の状態にある恩人にたいして誠意を尽くすことに躊躇しないのだ。
 奥平が日本を離れるときも、ふたりは別れを交わしている。大杉の話しぶりからは、一緒にベイルートへ行こうとさえ思いつめていたような印象さえうける。それほどふたりの別れは、万感胸に迫るような切実なものだった。
「そやから、別れた時、剛士は『お前、えろうなれよ、偉なれよ』と言うた。わしはこういう形で行くけれど、お前はお前のペースのなかで、一つきちっとつかんでやれよというね、一つの……、ともかく、『偉なれよ』と、念を押しよったわ」
 その後、大杉は、奥平に会いにレバノンへ行ったのではないか、いや行ったはずだ、と私は聞いている。


「リッダ! 1972」アーカイヴ

髙山文彦(たかやま・ふみひこ)

1958年宮崎県高千穂町生まれ。法政大学文学部中退。1999年『火花 北条民雄の生涯』で第31回大宅壮一ノンフィクション賞と第22回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に『鬼降る森』『水平記』『エレクトラ』『どん底』『大津波を生きる』『宿命の子』『ふたり』などがある。

採れたて本!【デビュー#08】
こざわたまこ『教室のゴルディロックスゾーン』