【連載第3回】リッダ! 1972 髙山文彦


「Mさんという人は、アニキがつれてくる学生バイトをだいぶシバいたんです。そういうやつらは三日でやめていく。きつい仕事が終わって、一緒にホルモン食うて、酒飲むやろ。アニキはそういうときも、ほとんどしゃべらへん。ところが、座が引けるまでとことんつきあう。歌だけは、歌ってくれと言われたらいくらでも歌った。『北帰行』とか『麦と兵隊』は、アニキの好きな歌やったね。『インターナショナル』なんてそんな革命歌のたぐいは歌わへん。学生運動の話をするやつがいたら、土掘りもまともにできへんやつが運動の話なんかするな、とMさんにシバかれる。アニキは別格や」
 Y氏の話は問わず語りにつづく。なにかもうその声は、見知らぬ遠い国から気流に乗って流れてくる音楽を聴いているように思われた。
「ある青年が土方から逃げて、地区の公園でぶらぶらしてたことがある。Mさんはそいつに五〇〇円を握らせて、これをやるから一週間で仕事を見つけてこいと言うねん。一週間後に公園で会ったら、まだ仕事してへん。で、また五〇〇円を握らせて、仕事見つけてこいとやるやろ。そして見つけて来なんだら、土方に引っ張り込む。面倒みるのはアニキや。東九条では火事がたびたび起きたんやけど、あれはぼくがまだ一七のときや。焼け出された人たちへの支援の一環として、食糧の中身が乾パンから白飯になったんやね。その白飯の弁当を学生が食った。ぼくも食うてしまった。日曜日の晩に集まったとき、Mさんにこっぴどく怒られて、おまえら救済する側やないかい、それでも活動家か、と。それからひとりひとり被災者のまえに引っ張り出されて、自己批判させられた。あした視察に来る行政の人間をどうやって落とすんや、相手をちゃんと見て、火事のこともきちんと調べて、相手の家まで行って脅すぐらいせえや、と。アニキは住民ひとりひとりから聞き取りをしていったと思うよ。セツルを辞めてはいたけど、相変わらず一軒一軒、御用聞きみたいにまわることはつづけていたもの。だから、あのアニキは、東九条の実態をよく知っていたんやね」
 この火事というのが、いつ果てるともしれない暗黒の運命のように東九条に張りついて離れなかった。いま彼が語り出した火事とは、一九六七年八月九日の大火のことで、東九条の北河原町で約一二〇〇平方メートルが焼け、死者二名、一二一世帯、三〇七名が焼け出されている。東九条は火事の多発地帯となっており、これこそが彼らの運動をつき動かす重大な動機のひとつとなっていた。
 Mには、あせりがあったかもしれない。
 セツルメント活動というのは、かつてキリスト教徒であった片山潜かたやませんによって日本に移入され、賀川豊彦かがわとよひこによってスラム改善運動として育ってきた歴史があり、東九条でもキリスト教会が中心となって医療サービスや子どもたちに教育の場を提供していたが、そこに共産党系のセツルメント活動がはいり込み、奥平がまだセツラーであったころには地域互助会グループからも非難の声が出て、共産主義を根源的に敵対視する教会からも締め出された。
 その後も彼らは、たいてい土日にやって来ては教会まえの公園で子どもたちに読み書きを教えたり、一緒に駆けっこをしたり、ハイキングにつれていったりしていたが、それでも彼らを「アカ」呼ばわりする者が住民のなかにはいて、都合のよい日に来て都合のよい時間に帰り、自分のセツラー体験を大学にレポート提出する学生にたいして、「自分たちをモルモット扱いするな」というきびしい意見も出ていたのだ。
 いまや学生セツラーたちは、党の方針と現地世論に引き裂かれ、民青同盟員でありながらそれとは一線を画し、一部にはMの「前進会」と協同して活動する奥平のような学生も出てきた。そして一九六七年八月の大火をうけて、Mがスラム全体の連帯意識をどうにかしてつくりあげようと企てたのが、自主映画『東九条』の制作とその上映運動であった。これを推しすすめることによって、彼は主義主張によらない相互扶助の世界の構築を夢みていたのである。
 そんな経験や勉強なんて一度もしたことがないのに、いきなりY氏が命じられたのは、東九条の実態を伝える記録映画を監督として撮れということだった。台本を仲間と手分けして書き、八ミリカメラを手にスラムの隅々まで撮影してまわった。Mが思い描いていたのは、完成したらスラムの悲惨な実情を行政や党や学生セツラーたちに見せて、なにより住民自身に見てもらって、どうしてこんなにたびたび火事が起こり人が死ななければならないのか、党やセツラーが為すべきなのは運動理論の構築や正しさの証明などではなく、地べたに腹をこすりつけて生きるスラムの人たちの仲間になることであり、生活改善へ力強くすすもうとする住民自身の意識の目覚めではないかと、時間をかけて訴えていくことであった。
「映画なんてカメラまわせば撮れるやないかい。おまえは一七かもしれへんが、高橋たかはし貞樹さだきを見てみいや。一九歳で『特殊部落一千年史』を書いたんやで」
 そう言って尻をたたかれながら編集を終えたとき、精も根も尽き果てていたY氏は首のうしろに腫瘍ができて、一カ月間入院するはめになった。これは一九六八年九月のこと。彼は一八歳になっていた。そして、そのうえ上映会は一度おこなわれたきりで、党や地域内互助グループとの対立が激化して、その後一度もひらかれぬまま上映実行委員会は活動停止、委員長であったMではなく監督をつとめたY氏が共産党を除名された。
 その自主映画『東九条』を、私はY氏からDVDを借りて観ることができた。上映時間五五分、モノクロ、無声。デジタルスキャンされた映像はかなり見やすくなってはいるものの、原版のフィルムの劣化は隠しようもなく、黒い雨のような線がいくつも出ている。人の声や町の喧騒が聞かれないのは残念ではあったが、京都駅南口から歩いて五分とかからぬ近さ、新幹線が走り抜けていく高架線のほとんど直下にこのような巨大スラムが黒ずんでひろがっているありさまをカメラは冒頭から映し出し、いかにも不衛生で貧弱なスラムの家並みを執拗にねちっこくとらえていた。
 火事で焼けたまま放置されているすっかり炭化した家々の骨組み、M氏率いる「前進会」の若者たちの活動、朝鮮語の通訳を介した医療現場の熱心な診療風景、公園で遊んだり学生セツラーに勉強を教えてもらっている子どもたち、リヤカーを引き竹籠を背負って廃品回収にまわるバタ屋の男たち女たち、そして密集地のなかであるにもかかわらずあたりまえのようにごみを燃やす住民の劣悪な環境は、ここに生きる人びとの生活意識の低さを描き出し、華やかな文化都市京都の、その玄関口のすぐわきに、こんな奈落のような場所が口をあけていたのかと、あらためておどろかされた。
 冒頭には、このような字幕が掲げられている。

 この映画えいがは、ひがし九条くじょうすこしでもくするようにとおもい、がんばっているひがし九条くじょう青年せいねんとセツルの学生がくせいが、ひがし九条くじょうみなさんをはじめとするおおくの人人ひとびと協力きょうりょくつくりあげたものです。
 ひがし九条くじょうではくるしい生活せいかつをさせられ、不当ふとう差別さべつけてくらしている人人ひとびとなかにも、そのような差別さべつ貧乏びんぼう矛盾むじゅんとしていかりをかんじるのでなく、まるであたまえのことのようにおもっている人がまだまだたくさんいます。
 私たちは「ひがし九条くじょうのありのまま」を映画えいがにとりました。私たちは、この映画えいがおおくの人人に、とくひがし九条くじょう人人ひとびとに、もう一度いちどひがし九条くじょう問題もんだい矛盾むじゅんかんがえなおしてもらうよううったえます。


 東九条とは、どういうところなのか。
 もう少し詳しく見ていきたい。

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