こざわたまこ『教室のゴルディロックスゾーン』最初の1篇(+α)まるごとためし読み!

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 約束の月曜日、さきちゃんは当然のように待ち合わせ場所に姿を現さなかった。

 一緒に帰る、という約束はかなわないまま一週間が経ち、そして今日。私は校舎に残った生徒達の視線にさらされながら、廊下でさきちゃんを待っていた。ここを通りかかったさきちゃんを待ちぶせして、つかまえてしまおうという作戦だ。しかし、待てど暮らせどさきちゃんはなかなか姿を現さない。そうこうしているうちに、スピーカーからは下校を促す校内放送が流れ始めた。

 ちょうどその時、私の目の前を見覚えのある生徒が横切った。さきちゃんと一緒にいた三組の女子──おのちん、だ。おのちんは吹奏楽部に所属しているらしく、胸に大きな金管楽器を抱えている。勇気を振り絞って、声をかけた。

 おのちんは私の話を聞くと、怪訝そうな顔で「さきなら結構前に帰ったはずだけど」と答えた。

「てか、一緒じゃないの? うちらには、高橋さんと一緒に帰るって言ってた」

「えっ」

 私がよっぽどおかしな顔をしていたせいだろうか。おのちんは眉をひそめ、何かを探るような表情で私を見つめていた。

「高橋さんって、その。一年の時、さきと同じクラスだったんだよね」

 思わぬ質問に恐る恐る、うん、と頷くと、おのちんが、聞いてもいい、と首を傾げた。

「さきって、やっぱり昔からああいう──」

 おのちんが何か言いかけたその時、廊下の向こうから、早くしないと先生に怒られるよ、という声が聞こえた。おのちんと同じような楽器を首にぶらさげた女子が、こちらに手を振っている。今行く、とおのちんがそれに返した。

「……ごめん、なんでもないや。今の、忘れて」

 明日さきに会ったら伝えとくね、高橋さんのこと。おのちんはそう言って踵を返し、ばたばたと部活仲間のもとに走っていった。

 小さくなっていくおのちんの後ろ姿を見つめながら、ぐるりと首を回す。ふと気がつけば、辺りはすっかり暗くなっていた。昇降口の明かりが、妙に白々しい。一人取り残された下駄箱でゆっくりと辺りを見回すと、黒のクレヨンにも似たべっとりとした夕闇が少しずつ校舎を塗り潰していくのがわかった。

 

「依子ちゃん?」

 その日、学校帰りに立ち寄ったスーパーで日用品のコーナーを物色していると、聞き覚えのある声に呼び止められた。振り返った先で、同じく買い物の途中だったらしいさきちゃんのお母さんが、こちらに手を振っていた。

「この前は遊びに来てくれてありがとうね」

「あっ、あの。あの時のケーキ、ありがとうございました。父さ、父もすごく美味おいしかったって」

 今度会ったらお礼しないとって、言ってました。そう言って頭を下げると、おばさんは「あら、本当? それはよかった」と顔をほころばせた。

 さきちゃんの家に遊びに行った帰り、マンションの共用スペースで、依子ちゃん待って、と呼び止められた。おばさんは玄関からサンダルで出てきたらしく、まだほのかに温かさの残るそれを、紙袋に入れて持たせてくれた。

『これ、おみやげ。焼きたてだから、よかったらお父さんと一緒に食べてね』

 家に持ち帰り、夕食の後に一口だけつまんだケーキの欠片かけらは、冷めてもやっぱり美味しかった。

「いいのいいの、お礼なんて。気にしないでくださいって、お父さんにそう伝えてくれる?」

 そのかわり、またさきと遊んであげてね。おばさんの口から飛び出したさきちゃんの名前に、思わず口ごもってしまう。おばさんは特に気にする様子もなく、依子ちゃん、今日はお夕飯のお買い物? と首を傾げた。

「……あ、えっと。はい」

 今日の戦利品は父さんに頼まれていた特売チラシの豚挽肉ひきにくと、見切り品のオクラだった。我ながら、なかなかいいチョイスだと思う。今朝父さんは珍しく寝坊したらしく、今夜はカレーだ、とだけ言い残して、朝食も食べずに家を飛び出していった。多分帰りは遅くなるから、炊飯器のスイッチだけでも入れておこう。本当は私が作れたらいいんだけど、一人でコンロを使うのはまだちょっと怖い。

 おばさんは私の顔と買い物カゴを交互に見比べると、感心したように、えらいねえ、とつぶやいた。それに比べてうちのさきは、とも。

 おばさんは私に会うと、必ずと言っていいほど「えらい」を連発する。トトの面倒を見てえらい。まだ中学生なのにえらい。がんばっていてえらい。お母さんがいないのに、えらい。えらい、えらい、えらい、えらい。おばさんのことは好きだけど、そう言ってくれるのはうれしいけど、私は時々おばさんが吐き出した「えらい」の分だけ、自分の周りから少しずつ酸素がなくなっていくような、そんな気持ちになることがある。

「さきは包丁なんて持ったことないし、服も脱いだらその辺に脱ぎっぱなし。洗い物だって、面倒臭がってやろうともしないんだから。依子ちゃんは、そんなことないでしょう?」

 中学に上がってから、私は父さんに任せきりだった家事を少しずつ覚えるようになった。掃除や洗濯は一度やり方を覚えてしまえば苦ではなかったし、それなりに楽しい。やればやっただけ褒められるし、勉強やスポーツとは違って自分のペースでできるから。順位もつかない。誰にもかされない。そのことに、ほっとする。でもそれが、この先何かの役に立つんだろうか。

「家でさきによく、依子ちゃんのこと見習えって言ってるの」

「えっ」

 正直、複雑だった。私と比べられるなんて、さきちゃんは嫌がるんじゃないだろうか。掃除や洗濯なんかより、勉強やスポーツができるならそっちの方がいいじゃん。いかにもさきちゃんが口にしそうな台詞が、頭に浮かんだ。

「……ねえ、依子ちゃん」

 気がつくと、おばさんが眉を八の字にして、私の顔を覗き込んでいた。

「あの子、新しいクラスでうまくやれてる? ちょっと前まで、依子ちゃんとクラスが離れちゃったって相当落ち込んでたの。依子ちゃんも知ってるでしょう?」

 そんなの、もう随分昔のことのように思える。今さきちゃんの頭の中は、新しい友達のことでいっぱいだ。そこに、私の入る隙間なんてこれっぽっちもない。

「あの子は、依子ちゃんがいないとダメだから」

 おばさんの中で、私とさきちゃんの関係は一年生の時のままで止まっているのだ。もしそうだったら、どんなにいいだろう。でも、もう違う。私達の間柄は、二ヶ月前とは全く違ったものになっている。それをおばさんに、どう伝えればいいのかわからない。

 ちょっとそこ、いいっすか。野太い声に顔を上げる。この店のアルバイトらしい男性が、コンテナボックスを抱えて立ち往生していた。道を塞いでいたらしい。すみません、と場所を移動すると、男性は私の後ろをすり抜けて、スタッフオンリーの札が貼られたアルミのドアの向こうへと消えていった。

 男性が去った後もぶらぶらと揺れ続けるドアを見つめながら、おばさんがぽつりとつぶやいた。

「さきは幸せ者だね」

 え、と首を傾げる。するとおばさんは私の方を見て、だって、依子ちゃんみたいな友達がいるんだもん、と目を細めた。

「さきは私に似て、人よりも少し弱いところがあるから。だからずっと、心配だったの。この子はこの先、やっていけるのかなって。だから、さきが初めて依子ちゃんを家に連れてきた時はうれしかった……」

 黙り込んだ私を見て、そうだ、とおばさんが声のトーンを変えた。

「今度の日曜日は、依子ちゃんも一緒?」

「え」

「なんとかっていう集まりで、みんなと出かけるんでしょう? 隣町の」

 おばさんはここから二十分電車を乗り継いだ先にある、繁華街の名前を口にした。駅の南口には市役所や病院が、北口には最近出来たばかりの小さなショッピングモールがある街だ。この辺りの中学生は、週末になるとみんなその街に遊びに行く。

「公民館でイベントがどうのって、随分前から楽しみにしてたみたい。私にはさっぱりだけど」

 さきをよろしくね、と言われて反射的に、はい、と頷いていた。

「依子ちゃん、さきと友達でいてあげてね。これからもずっと、さきと仲良くしてやってね」

 おばさんは別れ際、念押しするように何度も何度もそう口にした。ねえ、依子ちゃん。これからもさきをお願いよ。私はそれになんと答えていいかわからず、レジの列に消えていくおばさんの後ろ姿を黙って見送ることしかできなかった。



【6月28日発売!】

 

『教室のゴルディロックスゾーン』
こざわたまこ


こざわたまこ
1986年福島県生まれ。専修大学文学部卒。2012年「僕の災い」で「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞。同作を収録した『負け逃げ』でデビュー。その他の著書に『仕事は2番』『君には、言えない』(文庫化にあたり『君に言えなかったこと』から改題)がある。

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