こざわたまこ『教室のゴルディロックスゾーン』最初の1篇(+α)まるごとためし読み!

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「あの、私……」

 いつの間にそこにいたのか、伊藤さんが申し訳なさそうな顔をして、ぽりぽりと頬を掻いていた。あの時逸らされたはずの視線が今、私の顔の辺りで焦点を結んでいる。

「なんか、ごめん。声かけるつもりはなかったんだけど」

 そう言って、こちらに歩いてくる。

「私、邪魔かな」

 あれだったら、いなくなるけど。そう言われて、慌てて首を振った。伊藤さんは、練習着らしいスポーティーなトレーニングウェアに身を包んでいた。日曜日なのに、一人で練習だろうか。

 ちょっと話さない、と言われて、伊藤さんの後をついていくことにする。

「私、今年の初めにこの辺に引っ越して来たんだ」

 堤防の階段へと移動しながら、伊藤さんがそんなことを教えてくれた。

「それから散歩と練習がてら、たまに走ってる。私の家、ここから見えるかな。ほら、あそこ。高橋さんの家は? なんだ、結構近いじゃん。全然知らなかった」

 伊藤さんは、クラスにいる時と比べてよく喋った。もしかしたら、少し緊張してるのかもしれない。伊藤さんみたいな女の子でも緊張することがあるんだな、と思ったら、なんだかおかしかった。河原には、私達以外誰もいない。小さなモンシロチョウが一匹、ふわふわと原っぱを飛び回っているだけだ。

「高橋さんもあいつに会いに来たの?」

 伊藤さんはがさごそと胸元のボディバッグに手を突っ込み、ドッグフードの入ったビニール袋を取り出した。

「あいつって、シロのこと?」

「そう呼んでるんだ」

 伊藤さんは目をまばたかせ、高橋さん、ネーミングセンスないね、と笑った。

「最近見かけないから。どうしたのかなって思ってたんだよね」

 誰かいいひとにもらわれていっちゃったかな。不自然な沈黙の後、伊藤さんが気を取り直したようにつぶやいた。

「私達以外にも餌あげてた人、いたみたいだし。あいつ、あれで結構調子いいからなあ」

 食べすぎなんだよね、最近かなり肥えてたもん。そう言って、伊藤さんが笑う。私は勇気を出して、伊藤さん、と口を開いた。

「変なこと、聞いてもいいかな」

 何それ、怖いなあ。伊藤さんはそう言いながらも、続きを目で促した。

「……ここに、シロは本当にいたの?」

 すると伊藤さんは、はあ? と素っ頓狂な声を上げた。

「何言ってんの、いたに決まってるじゃん。夢でも見てたの?」

 しっかりしてよ、と伊藤さんが私の背中をたたいた。ぱしっ、と小気味のいい音が鳴る。その直後、自分の指先をじっと見つめて、あれ、と首をひねった。

「もしかして高橋さん、家でも犬飼ってる?」

「え」

 色は黒かな、と伊藤さんがつぶやく。

「……なんで、わかるの」

「さて、なんででしょう」

 マジックの種明かしをするみたいな顔で、だってほら、と私の服を指さした。

「これ、その子のでしょ?」

 伊藤さんに言われるがまま、肘のあたりに手を伸ばす。それを目にした瞬間、あ、と声が出た。

「ちょうど生え替わりの季節だっけ。やっぱり、飼うってなると大変なんだねぇ」

 それは、トトの背中の毛だった。いつのまに、こんなところについていたんだろう。毎年この時期になると、いやになるくらい目にしてきた。リビングは毛だらけになるし、掃除機はつまるし、いくら掃除してもきりがないし。父さんなんかは一度、クリーニングに出したばかりのスーツをだめにして、がっくり肩を落としていたっけ。

「その子、なんて名前なの?」

 伊藤さんがそう言って、こちらを振り返る。その動きが、ぴたりと止まった。

「……高橋さん?」

「トト」

 伊藤さんが、え、と首を傾げた。

「トト、っていうの。その犬の名前」

 大好きなトト。

 いつも私のそばにいてくれたトト。

 私はトトが好きだった。いつも少しだけれた、あの鼻の感触が好きだった。首の周りについた皮を、パンの生地をこねるみたいに触るのが好きだった。うれしい時にはぱたぱたと風を切り、かなしい時にはしょんぼりと地面に垂れる、嘘の吐けない尻尾のあり方が好きだった。私に何かあると心配そうに首を傾げる、いたいけなその仕草が好きだった。

「でももう、死んじゃった」

 トトはもう、ここにいない。あの懐かしい黒々とした毛並みも、鼻筋の通ったハンサムな横顔も、アンバランスな両耳も、かしこそうなとび色の目も。この世のどこを探しても見つからない。もう、ずっと前から。久しぶりに二人で河原に出かけた、その翌朝のことだった。結局、あれが最後のお出かけになってしまった。

 久しぶりの散歩に疲れたのか、トトは家に帰るとごはんも食べずに寝床に向かい、毛布の上に体を横たえた。大好きだったキャベツの芯が、干からびたままケージの隅に転がっていた。目やにをぬぐい、そっと耳の後ろを掻いてやると、トトは私の手首の辺りにくんくんと鼻をうごめかせ、安心したように瞼を閉じた。その日の明け方、父さんが寝床を覗いた時には、すでに息を引き取っていたらしい。私はトトの死に目には立ち会えないまま。だから今も、トトがどこかで生きているような、そんな気がして。

「トトって名前は、私がつけたの。弟だから、トト。センス、悪いでしょ。でも、私は」

 続きは言葉にならなかった。突然声を押し殺して泣き出した私を、伊藤さんは何も言わず、じっと見つめていた。

「ねえ、高橋さん。見て」

 それからしばらく経って、伊藤さんが正面を指差した。顔を上げると、黄昏時たそがれどきにきらきらと輝く川の向こうで、息を呑むほど真っ赤な夕焼けが辺り一帯をあかね色に染め上げていた。川も橋も地面も蝶々も、伊藤さんの顔も、何もかも。

「……きれい」

 伊藤さんがそれを見て、なんだか世界の終わりみたいだね、とつぶやいた。

 でも、私は知っている。このくらいじゃ、世界は全然終わらない。美しい夕焼けも、大切な人の裏切りも、愛犬の死も。それだけで、世界を傷つけることなんてできない。私達は、私達が思うよりもずっとしぶとく、たくましくて、うんざりするくらい頑丈だ。

 さきちゃん、さきちゃん、さきちゃん。

 心の中で、こっそり叫んだ。私、本当は地球なんてどうでもよかったよ。さきちゃんが一緒に帰ってくれるなら、それだけでよかった。さきちゃんが私のそばにいてくれるなら、それでよかった。でももう、それは二度と叶わない。

 ああ、と思った。今ここに、宇宙人が攻め込んでくればいいのに。ヒトの力なんて及びもつかないような圧倒的に理不尽な力で、この河原も私も、さきちゃんもさきちゃんちのマンションも、すべてをなぎ倒して地面を焼き払い、何もかも消し去ってくれればいい。地球なんて、このまま滅びてしまえばいい。

 少しして、伊藤さんが私の背中に手を添えるのがわかった。伊藤さんの手は思ったよりもずっと小さくて、でもその手のひらを通じて、じんじんと熱が伝わってきた。

 私はその手に支えられながら、泣いた。赤ちゃんみたいにわんわん泣いた。そして、トトの名前を呼んだ。もういない、この世でたった一人の弟の名前を呼んだ。返事が返ってくることはないのだ、とわかっていても、止めることはできなかった。

「胡蝶は宇宙人の夢を見る」(了)



【6月28日発売!】

 

『教室のゴルディロックスゾーン』
こざわたまこ


こざわたまこ
1986年福島県生まれ。専修大学文学部卒。2012年「僕の災い」で「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞。同作を収録した『負け逃げ』でデビュー。その他の著書に『仕事は2番』『君には、言えない』(文庫化にあたり『君に言えなかったこと』から改題)がある。

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