連載第18回 「映像と小説のあいだ」 春日太一

映像と小説のあいだ 第18回

 小説を原作にした映画やテレビドラマが成功した場合、「原作/原作者の力」として語られることが多い。
 もちろん、原作がゼロから作品世界を生み出したのだから、その力が大きいことには違いない。
 ただ一方で、映画やテレビドラマを先に観てから原作を読んだ際に気づくことがある。劇中で大きなインパクトを与えたセリフ、物語展開、登場人物が原作には描かれていない──
 それらは実は、原作から脚色する際に脚本家たちが創作したものだった。
 本連載では、そうした見落とされがちな「脚色における創作」に着目しながら、作品の魅力を掘り下げていく。


『鍵』
(1959年/原作:谷崎潤一郎/脚色:長谷部慶治、和田夏十、市川崑/監督:市川崑/製作:大映東京撮影所)

「ハナさん、また間違えたのね──

 精力が減退しつつある初老の主人公は、若い頃から絶倫の妻・郁子を性的に満足させられないことに悩んでいた。妻もまた夫の肉体に嫌悪感すら抱いていた。一人娘・敏子の婚約者・木村を招いて食事会を開いた際、郁子は酔って入浴中に眠ってしてしまう。主人公は木村とともに郁子を寝室に運んだ。その後、主人公だけが残った際、郁子はうわごとのように木村の名を呼ぶ。嫉妬した主人公は郁子を激しく求めた。この時、主人公も郁子も、初めて性的な悦楽を得る。そして、それ以来、主人公は木村を頻繁に招き、その度に郁子は酔って眠ってしまうようになった。やがて、郁子は実際の木村と関係を結ぶようになり、そのことで主人公の欲望もまた一段と燃えていく。だが、激しい性生活は同時に主人公の健康も蝕んでいった──。

 谷崎潤一郎の小説『鍵』は、そんな一組の夫婦の織り成す倒錯した性生活の様子が、夫婦それぞれの日記を交互に読ませる構成で展開される。

 それを市川崑監督が映画化した作品もまた、基本的な人物関係や設定は変わらない。だが、原作にあった濃厚なエロティックな印象は大きく薄らいでいる。

 それは主人公・剣持(二代目中村雁治郎)の年齢設定を初老から老人に変更し、郁子(京マチ子)が絶倫である設定をカットしたことで、「性」の臭いが感じにくくなったこともある。加えて、原作は日記形式のために夫婦それぞれの主観のみで構成されていたが、映画はフラットに引いて各人物を捉えていることも大きい。そのため、新たに木村(仲代達矢)と敏子(叶順子)の視点も加わり、この夫婦の営みが客観的に見つめられることになったのだ。

 その結果、アブノーマルな性生活を描いた小説は、一人の哀れな老人の顛末を描いたブラックコメディへと変貌することになる。それが作り手側の狙いであったことは、冒頭の段階で木村がカメラ=観客に向かって「老衰と戦ったある男の悲壮な、そしてたいへん興味のある物語です」と宣言していることからも明らかだ。

 この狙いを際立たせる上で、剣持の職業も変更されている。原作では専門が不明な学者だったが、映画では古美術鑑定家に。映画の剣持は豪華な日本家屋に住んでいて、屋敷内には見事な美術品が並ぶ。だが、実際の家計は火の車で、美術品の数々も本来なら取引先の骨董屋に戻すべきものだった。それを引き取り先が決まるまで──ということで、置いているに過ぎなかったのだ。そんな見栄っ張りな俗物ぶりが、老いを受け入れられずに若さを求める剣持の心理に説得力をもたらしていた。

 この変更が象徴するように、とにかく映画は「若返りのために奮闘する剣持」を哀れで滑稽な存在として、徹底して冷たく突き放して描いている。特に、木村の存在がそれを際立たせていた。原作の木村は夫婦の前にいる姿のみのため、「性生活のダシに使われる若者」という存在でしかない。だが映画での木村は、そうした剣持の魂胆を全て見抜いているのである。しかも、そのことをあえて敏子に伝えることで、敏子の郁子への嫉妬に火をつけ、敏子は木村にのめり込んでいく。原作では木村の肉体に溺れつつも精神的に一線を引いていた郁子も、映画では木村の虜として描かれていた。この一家をクールに操る、悪魔的な存在として木村は描かれているのだ。そのことが、懸命に奮闘する剣持の姿をより哀れに映し出すことになった。

 郁子の心理も大きく脚色されている。原作での郁子は剣持との歪な性生活に悦びを得ていたが、映画ではそうではない。求めるものはあくまで木村なのだ。そのため、終盤のニュアンスも変わることになった。

 剣持は高血圧になり、やがて郁子との性交渉の最中に脳溢血の発作が起きてしまう。この展開は同じなのだが、その要因は異なる。原作では、剣持が郁子に欲情して自らその肉体を求める。郁子は夫に嫌悪しつつも淫欲のためにそれを受け入れる。それに対し映画では、実は木村と会っていないにもかかわらず、郁子は剣持に木村との情事を告白。激しく嫉妬した剣持は「お前の身体を手放すくらいなら、死んでも構わないと考えていた」と郁子を求めるのだ。だがこの時、郁子は剣持の高血圧を把握しており、激しい性交渉の危険性を理解していた。つまり、剣持に発作を起こさせるためにあえて仕掛けたのである。

 その後、剣持は言語不詳の寝たきり状態に陥り、しばらくして二度目の発作を起こして息を引き取る。その展開は同じなのだが、要因はまたも違うものになっている。原作では郁子が目を離した間に発作を起こす。それに対して映画では、剣持は郁子を前にしてその裸体を見ることを懇願する。郁子もそれに応え、全裸になる。そして剣持は興奮して発作を起こしてしまうのだ。郁子は剣持が倒れている間も木村との情事を重ね、剣持の死を願うようになっていた。そのために、あえて裸体を見せたのだった。

 この二度の発作の描写は、死の危険に瀕してもなお郁子を求める剣持の哀れさと、そんな剣持の心理を読んで誘惑する郁子の毒性を際立たせている。

 これに限らず、郁子、木村、そしてここではあまり触れていないが敏子、この三名が剣持をないがしろにしてエゴイスティックに生きる毒性が映画では大きくクローズアップされている。そのため、剣持の死後に三者三様の思惑を抱えつつ慰労会を開く最終盤の展開が、実にグロテスクな光景として映し出されることになった。郁子は木村との暮らしに歓喜し、敏子は郁子の殺害を企み、実はこの家が貧しいことに初めて気づいた木村は脱出を図る──。

 だが、この映画はここで終わらない。原作は三人が共に暮らすであろう未来を感じさせて終わるのだが、そうではないのだ。夫婦の主観を通して描かれた原作に対して映画は木村と敏子の視点が加わっていることは先に記した通りだが、実はその外側にもう一つの視点が用意されていたのだ。

 それが、お手伝いとしてこの家で働く老婆・ハナ(北林谷栄)だった。原作では「婆や」としてわずかしか出てこないが、映画には終始映り続ける。ハナはそのとぼけた言動により、コメディリリーフ的な役回りかと思わせておいて、実はそうでなかったことに終盤になって気づく。

「なんや偉そうに。誰も旦那さんを構うてあげんから私が──」剣持をないがしろにする郁子たちに対して内心では不満を抱いていることが、徐々に明らかになっていくのだ。

 最後の最後にハナはある行動に出る。序盤、色盲であるハナは緑の缶に入れた磨き粉と間違えて、殺虫剤の入った赤い缶を台所に置いてしまい、そのことを郁子に咎められていた。そして、慰労会の席でハナは三人にサラダを出すのだが、そこに殺虫剤を振りかける。今度は間違いのないよう、わざわざ缶の裏に「どく」と記して。

 まず敏子が倒れ、次に木村が倒れる。そして、残った郁子が三人を見下ろすように立ちはだかるハナに告げたのが、冒頭に挙げたセリフだ。郁子は、ハナが殺意を抱いていたことに最期の段階でも気づいていなかったのだ。そして、ハナは犯行を自供するも警察は心中事件として処理してしまう。

 剣持も含め、欲に駆られた人間たちの哀れな末路が毒っ気たっぷりに描かれた本作は、欲望に邁進しきった原作に対する冷徹な批評にもなっていたのだ。

【執筆者プロフィール】

春日太一(かすが・たいち)
1977年東京都生まれ。時代劇・映画史研究家。日本大学大学院博士後期課程修了。著書に『天才 勝進太郎』(文春新書)、『時代劇は死なず! 完全版 京都太秦の「職人」たち』(河出文庫)、『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』(文春文庫)、『役者は一日にしてならず』『すべての道は役者に通ず』(小学館)、『時代劇入門』(角川新書)、『日本の戦争映画』(文春新書)、『時代劇聖地巡礼 関西ディープ編』(ミシマ社)ほか。最新刊として『鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』(文藝春秋)がある。この作品で第55回大宅壮一ノンフィクション大賞(2024年)を受賞。

◎編集者コラム◎ 『スクリーンが待っている』西川美和
ミステリの住人 第3回『時代小説 × 蝉谷めぐ実』