連載第17回 「映像と小説のあいだ」 春日太一

映像と小説のあいだ 第17回

 小説を原作にした映画やテレビドラマが成功した場合、「原作/原作者の力」として語られることが多い。
 もちろん、原作がゼロから作品世界を生み出したのだから、その力が大きいことには違いない。
 ただ一方で、映画やテレビドラマを先に観てから原作を読んだ際に気づくことがある。劇中で大きなインパクトを与えたセリフ、物語展開、登場人物が原作には描かれていない――!
 それらは実は、原作から脚色する際に脚本家たちが創作したものだった。
 本連載では、そうした見落とされがちな「脚色における創作」に着目しながら、作品の魅力を掘り下げていく。


『人生劇場 飛車角』
(1963年/原作:尾崎士郎/脚色:直居欣哉、鈴木尚之/監督:沢島忠/製作:東映東京撮影所)

映像と小説のあいだ 第17回 写真1
『人生劇場 飛車角
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「オレに男を立てたいと思うなら、おとよを幸せにしてやってくれよ」

『人生劇場』は、原作者の分身といえる早稲田大学の学生で小説家の青成瓢吉を主人公にした大長編小説だ。何度も映像化された中でも名作の誉れ高い本作は、その第三部にあたる「残侠篇」が原作になっている。

 原作はあくまで瓢吉が主役なのに対し、本作はタイトルが示すように脇の登場人物である侠客・飛車角(鶴田浩二)が完全に主人公だ。瓢吉(梅宮辰夫)の出番は少なく、本筋とあまり関わりない感じで飛車角や老侠客・吉良常(月形龍之介)の聞き役的な役割でしか登場していていない。そのため、原作の半分以上を構成する、瓢吉とその周辺の人間模様はバッサリと削られている。

 その上で映画は、飛車角と吉良常、飛車角とその情婦・おとよ(佐久間良子)、飛車角と弟分の宮川(高倉健)とおとよのドラマがより濃厚に描き込まれる。そのため、残された飛車角パートも原作から結構な量の改変がなされることになった。

 物語の舞台が、前半は大正時代の深川なのは原作と変わらない。「飛車角」こと小山角太郎は遊女のおとよと横浜から駆けおちし、深川に流れつく。地元を仕切る小金一家の親分(加藤嘉)にかくまわれた飛車角は、客分として同地で隠れ住むことになる。この設定も、原作とほとんど変わらない。

 深川では新興勢力の丈徳一家がのしてきており、見かねた小金は殴り込みをすることになる。そして飛車角はその先頭に立って、宮川ら数人を連れ立って敵地へ。見事に丈徳を討ち果たす。そして、警察からの逃亡中に逃げ込んだ先が瓢吉の家で、そこで偶然にも居合わせた吉良常に匿われ、友情を育む――という展開も同じだ。

 が、ここからが、映画では大きな脚色が施されている。おとよは小金の弟分の奈良平(水島道太郎)に引き取られることになる。そして、自首を決意した飛車角はおとよと「最後」の挨拶を交わし、二人は別れる。この設定は原作と同じなのだが、その間の展開がまるで違うのだ。

 原作では、奈良平はおとよを元いた横浜の遊郭に売り払ってしまう。それを知った飛車角は奈良平を殺害する。そして、奈良平殺害の罪を自首するのだ。

 だが、映画はそうではない。奈良平は快くおとよを引き取り、会いにきた飛車角と二人きりでの別れ場を設けている。この変更には、三つの大きな意味がある。一つは奈良平を「器の大きい善人」だと思わせていること。二つ目はその流れで、奈良平はこの段階では死んでいないこと。この二つは、後半で大きく効いてくることになる。

 そして三つ目が、飛車角とおとよの別れの場面が密室に設定されたことだ。原作でも、二人の別れの場面はある。だが、それはおとよを探す飛車角と人力車に乗るおとよが街角で出くわすというもの。その時のやりとりは――、

【「忘れないでおくれね、あたしのことを」 「忘れようはあるめえが」 飛車角は眩しそうに空を仰いだ。「仕方がねえや、――」】

――と、互いに未練は残しつつも、どこかアッサリしたものになっている。

 ところが映画では、おとよは激しくうろたえて慟哭しながら、飛車角が自首することを拒む。そして、一緒に逃げたいとすがりつく。

「夕べ一晩だけだって、長い思いをしたんだよ…。まして7年。とても一人じゃ生きていけない」「二人きりになれるところへ行こう! 二人きりで逃げて!」

 おとよの激しい想いが伝わる濃厚な描写になっている。だからこそ、それを断ち切ってまで自首する飛車角の決意、その想いを引きずって収監され続ける中での飛車角の恋慕は、いずれも原作以上に強く伝わるものになった。

 飛車角の収監中に小金は命を落とし、一家は離ればなれになる。そして、宮川とおとよは互いに飛車角との関係を知らないまま結ばれる。この中盤の展開は、原作と変わらない。ただ、その背景にある事情が大きく異なっていた。

 ここで奈良平の設定を変えた意味がわかってくる。原作では、小金は丈徳の残党たちを再結集させた通称「デカ虎」との抗争の最中に病死し、デカ虎がその縄張りを得ている。だが、映画にはデカ虎は登場しない。奈良平が裏で子分を使って小金を暗殺しているのだ。

 この変更が、後半のドラマの重要な芯となる。

 おとよはその真相を知ってしまったために逃走、車夫をしていた宮川に助けられる。そして、病に倒れたおとよの看病をしているうちに二人は惹かれ合い、やがて懇ろになる。これが映画の展開だ。原作では、玉ノ井の遊郭で遊女をしているおとよの客として宮川が現われ、二人は懇ろになる。

 原作の肉体だけの関係から、心の通じ合う関係に改変されているということだ。それだけに、互いに飛車角の関係者と知った時にのしかかってくる心の重みは、より大きいものになる。

 原作では、宮川は「おれは自分の方を可哀想だとは思っても、飛車角を気の毒だと考えたこたあねえよ」と言い、おとよは宮川に駆け落ちを持ちかける。それに対し、映画では宮川もおとよも激しく悔恨して苦しみ抜いている様が描かれる。

 飛車角の受け止め方も異なっている。飛車角はおとよとの再会だけを願って刑期を過ごしてきた。そして出所した出迎えた吉良常が、飛車角に二人のことを伝える。その流れは原作と同じだ。だが、原作では飛車角は二人を許すことをすぐに吉良常に伝えているのに対し、映画では押し黙ったまま何も言わないのだ。

 原作の飛車角はその後すぐ東京に戻り、宮川と対面。彼を許している。一方、映画の飛車角は吉良常の地元である三河の吉良で暮らすようになる。そこで初めて、飛車角は吉良常に本心を明かすのだ。二人と会うことを薦める吉良常に、飛車角はこう言い放つ。

「おとよが諦めきれねえ!」「惚れてるんだ。惚れてるからこそ会えねえ」

 ひとかどの侠客である飛車角であっても、どうにもならない恋心。それが切なく伝わる場面になっている。それでも、飛車角は二人と会うことになる。この「二人」というのがポイントだ。原作の飛車角は、それぞれと全く違うシチュエーションで一人ずつ会っている。それだけに、二人同時の対面となる映画の方が三者の気まずさ、そして飛車角に突きつけられる「現実」、ともに途方もなく重いものになっている。

 ここで、飛車角は宮川に言い放つ。

「オレはテメエの指を全部でもつめてやりてえ。だがな、そんなことをしたらそこにいる女が泣くぜ」

 そして、そこに続くのが冒頭に挙げたセリフだ。未練は残しながらも、二人への気遣いも伝わる、なんとも粋な言い回しだ。

 これを経ての最終盤の展開は、原作と全く異なるものになっている。ここでも奈良平の設定変更が大きな意味を持ってくる。

 原作では、飛車角から許しを得たその足で宮川はデカ虎殺害へと向かい、これを見事に果たす。そして、一度は警察に捕まるも逃走、吉良常の計らいで故郷の山形へ身をひそめることになった。その後に飛車角はおとよと再会。二人は心中しようとするも果たせなかった。

 一方の映画では、おとよから小金殺害の黒幕が奈良平だと聞かされた宮川が単身で乗り込むも返り討ちに会い、命を落としてしまう。そして、その敵討ちに飛車角が今度は乗り込んでいく――と、なんとも悲壮かつ勇壮な、エンターテインメント性あふれるクライマックスになっている。

 全編を通して、おとよの心情は原作よりも激しく描かれ、そのために三角関係のラブストーリーも濃厚なものになっている。ただ、それは結果として甘ったるくなるのではなく、「それでもなお、侠客としての筋道を命がけ通さなかければならない」という飛車角と宮川の「侠」の部分を際立たせているのだ。本作は東映が任侠映画路線を本格化していくキッカケの一つでもあるのだが、二人の「侠」はそうなるのもよくわかるだけの魅力にあふれていた。

【執筆者プロフィール】

春日太一(かすが・たいち)
1977年東京都生まれ。時代劇・映画史研究家。日本大学大学院博士後期課程修了。著書に『天才 勝進太郎』(文春新書)、『時代劇は死なず! 完全版 京都太秦の「職人」たち』(河出文庫)、『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』(文春文庫)、『役者は一日にしてならず』『すべての道は役者に通ず』(小学館)、『時代劇入門』(角川新書)、『日本の戦争映画』(文春新書)、『時代劇聖地巡礼 関西ディープ編』(ミシマ社)ほか。最新刊として『鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』(文藝春秋)がある。

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