連載第16回 「映像と小説のあいだ」 春日太一

映像と小説のあいだ 第16回

 小説を原作にした映画やテレビドラマが成功した場合、「原作/原作者の力」として語られることが多い。
 もちろん、原作がゼロから作品世界を生み出したのだから、その力が大きいことには違いない。
 ただ一方で、映画やテレビドラマを先に観てから原作を読んだ際に気づくことがある。劇中で大きなインパクトを与えたセリフ、物語展開、登場人物が原作には描かれていない──!
 それらは実は、原作から脚色する際に脚本家たちが創作したものだった。
 本連載では、そうした見落とされがちな「脚色における創作」に着目しながら、作品の魅力を掘り下げていく。


『ランボー』
(1982年/原作:デイヴィッド・マレル/脚色:マイケル・コゾル、ウィリアム・サックハイム、シルヴェスター・スタローン/監督:テッド・コッチェフ/製作:カロルコ・ピクチャーズ)

「They’re all gone, sir.(みんな、死亡しました)」

 アメリカの山間にある田舎町に、無職の流れ者でヴェトナム帰還兵のジョン・ランボーがやってくるところから小説『First Blood』の物語は始まる。警察署長のティーズルは彼の身なりの薄汚さから浮浪者と判断、町に犯罪を持ち込む恐れを抱き、パトカーに乗せて町はずれへと追い出す。だが、ランボーは反抗し、何度追い返しても戻ってきた。やがてティーズルは署に連行、署員たちにランボーの髭を剃らせようとするが、その刃物を見たランボーはヴェトナムの戦場がフラッシュバック。署員たちを倒して脱出し、山の中へ逃げ込む。ティーズルと署員たちは山中にランボーを追うが、反撃に遭ってしまう。ランボーは元グリーンベレーの英雄だったのだ──。

 シルヴェスター・スタローン主演で映画化された本作は日本などでは『ランボー』のタイトルで公開。後にシリーズ化され、ロッキーと並ぶスタローンの代名詞的な役柄になっていく。

 原作も映画も、国のために悲惨な戦場で戦いながらも帰国後は惨めな暮らししか待っていなかった──という帰還兵の悲劇が描かれているが、映画ではその点が原作よりも強調されている。

 それは冒頭からも分かる。原作のランボーは流れ者として町を訪れただけだったが、映画では戦友を訪ねた後だった。この改変が中盤に効くことになる。

 山に籠ったランボーを撃退するため、州兵までもが動員され、さらにランボーをよく知るトラウトマン大佐(リチャード・クレンナ)もやってくる。ただ、ランボーとトラウトマンの関係性は原作と映画では異なる。

 原作のトラウトマンは訓練学校の校長で、ランボーと直接の顔見知りではない。そのため関係性は希薄で、あくまでランボー対策の案を授けに来ただけだ。ランボーと直接のやり取りもほぼない。それに対して映画では、戦場の上官という立場にあり、ランボーを戦闘マシーンに育てた張本人でもある。つまり、関係性はかなり強くなっている。

 映画の中盤、トラウトマンは無線でランボーに呼びかける。潜伏する位置を割り出すためだ。

 戦場と同じように、無線を通じて点呼をするトラウトマン。それに対するランボーの応答が、冒頭に挙げたセリフだ。戦場で、あるいは帰還後に、ランボーと同じ部隊に所属した戦友はみな亡くなっていた。冒頭で訪ねた戦友が最後の一人で、彼もまた来訪時には死亡していた。戦場で蒔いた枯葉剤による後遺症で重いガンを患い、苦しみ抜いて死んだという。

 ヴェトナム帰還兵であるために帰国後に定職にありつくことができず、どこへ行っても爪弾きにされてきたランボーにとって、戦場こそが生き甲斐であり、戦友たちだけが心の拠り所だった。その最後の一人すらいなくなった孤独が、先のセリフからは強く伝わる。

 このセリフに象徴されるように、映画は原作以上に、ランボーの悲劇にドラマの焦点を当てている。それは、トラウトマンだけでなくティーズル(ブライアン・デネヒー、映画では警察署長ではなく保安官)の設定が変更されている点も大きい。

 原作での警察は映画ほど理不尽ではない。判事の判決を受けた上で拘留しているし、地下牢に入れたのも判決通りの行動だ。さらに、浮浪者の若者たちに町が迷惑を被ってきた経緯もあるし、署内での取り調べも手順に沿ってやっている。つまり、ここでの警察官たちは職務をこなしただけで、明確な悪意は見えないのだ。

 映画はそうした背景や手順をバッサリとカットした。その一方で、ランボーに対していきなりリンチまがいの仕打ちをしている。そのため、彼らが「悪」として際立ち、ランボーが受けたことの理不尽さが、より明確に伝わってくる。

 また、山中での戦闘も大きく異なる展開になっている。ティーズルたちに追われながらランボーの戦闘本能が目覚め、狩る側と狩られる側の立場が逆転していくのは同じだが、ランボーの反撃の手段が全く違う。原作のランボーはライフルで遠隔距離から一人ずつ射殺していく。それに対して、映画では実は直接的には一人も殺していない。ヘリコプターに石を投げた勢いで、身を乗り出していた狙撃手が墜落死した一件のみ。ナイフで作った手製の罠を山中に仕掛けているが、それは追手を行動不能にするためであり、それ以上の危害は加えていない。ティーズルを仕留めるタイミングもあったが、警告するに留めている。だからこそ、ランボーは「加害者」のポジションになることはなく、「理不尽にあった悲劇の人物」として貫かれ続けることになった。

 そして、何より異なるのはラストだ。

 ランボーが山中を脱出して町に現れ、ガソリンスタンドを爆破するなど大暴れするのは同じだが、そこからが異なる。原作ではティーズルも朝鮮戦争の英雄という設定で、ランボーとの戦闘を通してソルジャーとしての本能に目覚め、ランボーとの決着を自ら望むようになる。そして、ランボーとの撃ち合いの結果、返り討ちにあって命を落とす。一方のランボーも深手を負い、トラウトマンによって止めをさされて死亡してしまうのだ。

 それに対して映画は──続編が作られたことからも分かるように──ランボーは生き残る。ここで、トラウトマンとの関係性が原作から強化されたことが大きな意味を成してくる。投降を呼びかけるため、トラウトマンはランボーと対峙する。「It’s over.(もう終わったんだ)」そう語りかけるトラウトマンに、ランボーはこう言い放つ。

「Nothing is over!(何も終わっちゃいない!)」

 そして、ランボーはひたすら吐露する。帰還してからの惨めな暮らし、そして止むことのないフラッシュバック──。ランボーの戦争は、終わっていなかったのだ。

 こうして、本作は一人のソルジャーの心の叫びのドラマとして、刻まれることになった。

【執筆者プロフィール】

春日太一(かすが・たいち)
1977年東京都生まれ。時代劇・映画史研究家。日本大学大学院博士後期課程修了。著書に『天才 勝進太郎』(文春新書)、『時代劇は死なず! 完全版 京都太秦の「職人」たち』(河出文庫)、『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』(文春文庫)、『役者は一日にしてならず』『すべての道は役者に通ず』(小学館)、『時代劇入門』(角川新書)、『日本の戦争映画』(文春新書)、『時代劇聖地巡礼 関西ディープ編』(ミシマ社)ほか。最新刊として『鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』(文藝春秋)がある。この作品で第55回大宅壮一ノンフィクション大賞(2024年)を受賞。

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