「文壇酒徒番付」で何度も“横綱”に選ばれた酒豪で美食家の作家Tとは……?

1955年~97年まで、酒之友社より発行されていた趣味の雑誌「酒」の存在をご存知でしょうか? 地酒ブームの火付け役ともなったこの雑誌。毎年新年号での大人気名物企画が「文壇酒徒番付」でしたが、その番付に名を連ねていた文豪とは…?

かつて、心より酒を愛した佐々木久子女史が編集長を務め、1955年~97年まで酒之友社より発行されていた趣味の雑誌「酒」という月刊誌がありました。地酒ブームの火付け役ともなった雑誌ですが、毎年新年号での大人気名物企画が「文壇酒徒番付」でした。

酒新年特別号表紙
昭和48年「酒」新年特別号表紙(資料提供 清見定道)

文壇には“左党”で鳴らした酒豪が大勢いました。開高健、井伏鱒二、織田作之助など枚挙にいとまがないほど。開高健などは、シングルモルトのマッカランをストレートで飲みながら、原稿を執筆していたとも言われています。
現在、電子全集配信中の作家・立原正秋も、朝食からビールを水替わりに飲み、名酒「三千盛」をこよなく愛し、毎食ごとに酒を飲むのはもちろん、酒瓶を抱えて風呂に入っていたといわれるほど、筋金入りの酒豪でした。

昭和48年「酒」新年特別号掲載の「文壇酒徒番付」では、立原はなんと東の正横綱になっています。ちなみに前年47年も東の正横綱、翌49年は東の張出横綱という“名誉ある”位についていました。他の顔ぶれを覗いてみても、開高健、野坂昭如、梶山季之、山口瞳といった多士済々な酒豪作家が番付に並んでおり、昔の作家と酒には、密接な関係がありました。

昭和48年「酒」新年特別号「文壇酒徒番付」
昭和48年「酒」新年特別号「文壇酒徒番付」より 立原正秋は東の正横綱である。
(資料提供 清見定道)

現在、配信中の「立原正秋電子全集 第10回」巻では、「美食家の横顔 エッセイⅡ」と銘打ち、食通として知られた立原の”食”に対する眼差しや、酒にまつわる思いが凝縮された小品が多数収録されています。
また、長女・立原 幹氏の連載中の回想録「東ケ谷山房 残像 十」では、家庭での”食”へのこだわりや、決して乱れることがなかったという酒を嗜む姿が描かれてますので、ご一読ください。

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立原正秋は岐阜の名酒「三千盛」を愛していた

東ヶ谷山房 残像 十 立原 幹

緑が濃くなれば、何が食べたいのか、木々の葉が落ち、枯れ葉になった時は何を食べたくなるのか。
目と、空気と、皮膚感と、香りと、感じられるすべてから、味覚は持てると思う。

昔は、今のように手に入る食材の種類が多くはなかった。にもかかわらず、味覚も感覚も細やか、季節と色が食べ物に見えた。料理を作る事がどれ程か大切で大変なことなのか、父との生活の中でわかって学んだ事だ。
父はすごかった。
作った料理が気に食わねば、器が空を飛び卓袱台は見事にひっくりかえった。
おいしい食材を壊して作るのは許されなかった。
調味料の少しの違いも指摘された。
季節と食材の状態、その日の気温によって調理法も調理時間も変わってくる。手をぬけばすぐにばれた。言い訳はしなかった。
わが家に計量器はなく、今だに私はきちっと手にとって見たことがない。
美味しい思う味、ひいてはその家の味というものがあるはずである。
わが家では、父の味覚がすべてで、それが世界だった。
塩が少し、ほんの少しだけ多かったと思うと父は必ずそれを言った。私が微妙に思っていた事は逃れられなかった。
どんなにアルコールが入っていても父の舌は確かだった。
夕食の時間が私は嫌だった。父のクレームがなかった日はホッとした。
しかし、こんな日々があったからこと、私は料理を作るのが嫌いではなく食材をいかようにでも作る楽しさを覚えたのだと思う。

父がいた頃は、現在のようにありとあらゆる食材があったわけではなく、手に入る物は限られていた。が、食卓に並ぶ料理は豊富であった。
家庭料理は、家庭料理の域を少し越えるくらいが美味しいのだと思う。
生活の中で、食べるということが大きな位置をしめていた。保存食も季節ごとに作っていく。すぐに食べるのではないものも、料理には重要なことだ。
父のいない今でも流れは変わらない。同じように保存食を作っている。
梅干し、辣韮、蕗や山椒の佃煮、青唐辛子のピクルス、青じそやえごまの葉のしょうゆ漬け、しその実や山椒の実の塩漬け等々、季節を追いかけながら作業をしていく。
こうして一年のめぐって来る季節は早いが決して義務とは思えない義務感を楽しんでいる自分がいる。

酒屋さんが月に何度も来た。
日本酒、ビール、ウィスキーを家庭で消費する量ではなかったが、父の仕事が忙しい時程、酒屋さんは頻繁に来た。
そんな時は父の味覚はなお一層難しくなっている。もちろん気分も難しくなっているのでそれを踏まえて食事を作らなければ思いもよらない文句が飛んでくる。
夕食は二時間かけて作り、五時から七時までが夕食の時間だった。
二時間もの食事の間、何を話していたのかほとんど記憶がないが、冬は父の飲む日本酒の燗をするために、何度も席を立った。
主菜と副菜を何品も作り、父は飲みながらゆっくりと食べていた。最後のご飯まで二時間かかった。
家族が、二時間も食べているわけではなく父の食事が終わるまで誰も席を立つ事はなかった。正確には立てなかったのかもしれない・・・。
父が酔うという事はなかった。姿勢はいつも変わらなかった。それでも、時々何かくどくどと言うことがあり、私は父が幾分酔っているのだろうと思う時もあった。
外から酔って帰ってきたことはなかった。他人の前では少しでも崩すことはしなかったのだ。

父が飽きないように、文句を言われないようにと、考える日々だった。私は学業よりもそのことの方が大切だったし、そうしなければ家の中がまわらなかった。
今思えば、辛くても楽しい日々だった。
父が残していった季節の習慣や味覚は、巨大な岩のように家にある。
味覚は残らないようで残る。父から私へ、私から息子へと・・・。


立原 幹/Miki Tachihara
1953年生まれ。幼児期より父の美意識に接し、美を教えられて育つ。父・立原正秋の死後に筆をとりエッセイストとなる。著書に『風のように光のように』『立原幹と歩く立原正秋の鎌倉』『空花乱墜』などがある。

おわりに

立原幹氏が描く、父・立原正秋の思い出、家庭での“食”へのこだわり、酒の嗜み、そして立原家に伝承する“味覚”……如何でしたか?
なお、今回紹介した雑誌「酒」では、昭和51年に創刊250号を記念して「戦後三十年総まくり文壇酒徒番付」も発表しています。ここでは、流石に大御所がズラリと並び、さしもの立原正秋も“前頭”に位置してます。昭和48年の番付と比較してみるのも楽しいかもしれません。
戦後三十年総まくり文壇酒徒番付

昭和51年「酒」創刊250記念号「戦後三十年総まくり文壇酒徒番付」より。東の正横綱は井伏鱒二、西の正横綱は井上靖である。(資料提供 清見定道)

立原正秋 電子全集10 『美食家の横顔 エッセイII』

立原正秋は美食家としての一面ももっていた。本物の味を厳しく見定め、また自ら庖丁を握ることもあった立原の食へのこだわりに満ちた1巻である。

随筆集『秘すれば花』、『坂道と雲と』を中心に、食に関わるエッセイ全32編。昭和42年に雑誌「新婦人」連載の「湘南日記」、昭和46年に神奈川新聞に連載された「食べものの話」、同年「チェーンストア」連載の「東ケ谷日記」、昭和52年「東京新聞」連載の「東ケ谷山房たより」等の連載エッセイに加え、単行本未掲載エッセイ「ぬかみそ女房やーい」が全集初収録。加えて、立原のエッセイテーマに合わせ長男・潮氏が製作した料理の写真18点が彩を加える。また、音楽、自然、着物、交遊等と多岐にわたった雑感が96編。やはり単行本未掲載エッセイ「懐かしい柄<二月>亀甲」が全集初収録されている。

第10回 美食家の横顔 エッセイⅡ
『第10回 美食家の横顔 エッセイⅡ』の詳細はこちら

 

初出:P+D MAGAZINE(2016/09/16)

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