ヤマ王とドヤ王 東京山谷をつくった男たち 第三回 「昭和の歌姫」と山谷

大阪のあいりん地区、横浜の寿町と並んで、東京三大ドヤ街と呼ばれる東京・山谷。戦後日本の高度経済成長を支えた労働者たちが住み着いていたかつての山谷には、「ヤマ王」と「ドヤ王」と呼ばれた伝説の男たちがいた。
昭和の歌姫「美空ひばり」。その華やかなイメージから、山谷とは何のゆかりもないように思えるが、突撃取材を重ねて見えてきた「昭和の歌姫」と山谷の関係とは。

 

半世紀前の振り子時計

 

 天井から伸びた収納用はしごを、白髪のお婆さんが登っていく。納戸に入り、床に横倒しになっていた目当ての物を見つけると、お婆さんは懐かしそうに言った。
「ほら、こんなに大きいんですよ。ここにずっと寝かせてあったんです」
 四畳半ほどの納戸は、じっとりとした暑さに包まれていた。額に汗を光らせていたお婆さんが、ビニール袋を丁寧に取り外すと、中から古びた木製の振り子時計が出てきた。
「この振り子がいいでしょ? まだ動くと思うんですけどね」
 高さは腰ぐらいまであるだろうか。振り子の部分のガラス戸には、金色の楷書体でこう書かれていた。

〈贈 諏訪さん江 美空ひばり〉

 お婆さんは記憶を辿りながら言った。
「ひばりから時計をもらったのは今から50年ぐらい前だったかな」 

 

ヤマ王とドヤ王第3回文中画像1

半世紀を経た現在も美空ひばりの名前がくっきり残る
(撮影:水谷竹秀)

 

「平成の歌姫」こと安室奈美恵が9月16日、沖縄県宜野(ぎの)(わん)市で開かれた音楽祭への出演を最後に、歌手を引退した。その姿を惜しむファンたちの熱気がまださめやらぬ中、私は「昭和の歌姫」と呼ばれた美空ひばりの軌跡を辿っていた。
 美空ひばりについては、すでに多くの書籍が刊行されている。中でもひばり自身が綴った『ひばり自伝 わたしと影』(草思社1971年刊)には、次のような記述がある。

〈母は東京の山谷の石炭商の娘で、親戚の人の口ききで、昭和十年に父のところへとついで来たのでした。〉

 幼くして天才歌手ともてはやされたひばりは9歳の時、そんな母親の故郷、山谷の小学校で、ステージに立つことになる。その姿を今か今かと待ちわびる母の喜美枝は、色めき立っていた。

〈加藤喜美枝は、東京都荒川区(みなみ)千住(せんじゅ)三丁目にある第四瑞光(ずいこう)国民学校の校庭に集まってくる観客を見ながら、故郷に錦を飾った気持ちになっていた。
 日本が戦争に敗れた翌年の昭和二十一年の蒸し暑い夏の夜のことであった。
 隅田川を背にした第四瑞光国民学校の片隅には、板でにわかステージがつくられていた。

――中略――

 加藤喜美枝は、額に吹き出る汗を右手の甲で拭いながら、早く幕を開けたい気持ちにはやっていた。
《和枝の歌を聴いてびっくりするみんなの顔を、早く見たいわね……》
 加藤和枝というのが、美空ひばりの本名である。〉(『美空ひばり―時代を歌う』、大下英治著、新潮社1989年刊)

 美空ひばりの初舞台は、終戦直後の昭和20(1945)年12月、生まれ育った横浜市磯子区にある杉田劇場(アテネ劇場の前身)といわれている。第四瑞光国民学校での公演はその翌年夏のことだ。
 私の手元にはその当時を映し出すモノクロ写真がある。校舎の隣に設置された(やぐら)には紅白幕が張られ、10人以上いるバックバンドの中央で、ワンピース姿の、まだ体の小さい美空ひばりがマイクの前に立っている。そのステージを取り囲むように、校庭は大勢の聴衆で埋め尽くされている。

 

ヤマ王とドヤ王第3回文中画像2大勢の聴衆に囲まれて歌う美空ひばり
(金原實さん写真提供)

 

 同校に在学中、公演を観ていたという南千住の運送店社長、金原實さん(79)は、かすかな記憶を頼りに語った。
「僕はその時、小学校2年生ぐらいかな。ステージの近くではみんな、ござの上に座って観ていました。ひばりさんは小さかったんですが、すでに大人っぽい歌を歌っていましたねえ。きれいな顔もしていましたが、あんな大歌手になるとは思ってもみませんでした」
 学校は平成4(1992)年に廃校となり、その跡地は現在、隅田川沿いの土手になっている。
 もうお分かり頂けるだろうか。美空ひばりの母、加藤喜美枝は、南千住3丁目の出身である。3丁目は南千住駅の東側に位置し、山谷地域に属している。隅田川に近いことから当時は鉄道や水上交通の要衝とされ、福島県と茨城県にまたがって存在した常磐炭田などから貨物で運び込まれた石炭の集積地だった。周辺には石炭の卸商や小売商が軒を連ね、民家は石炭を燃料にし、軒先に七輪を出して石炭を焚いた。黒い煙がもくもくと立ち上がる情景にちなんで、家々は「汽車長屋」と呼ばれていた。
 そんな街に喜美枝は、7人きょうだいの長女として石炭小売商の家に生まれた。家業の手伝いをし、集金にも出歩くよく働く子供だった。20代前半の頃、横浜で魚屋を営む加藤増吉と結婚し、その2年後の昭和12(1937)年5月に和枝が生まれる。のちの美空ひばりである。
 喜美枝の生家の跡地周辺は、私が常宿にしている「エコノミーホテルほていや」から自転車で5分足らず。近くには、ひばりの親戚、諏訪志希里(しきり)さん(76)が今も住んでいる。
 冒頭の納戸での様子は、私がそこを訪れた時のことだ。「諏訪」は、ひばりの母の旧姓。志希里さんの父親が、喜美枝といとこの関係にあった。

 

◎編集者コラム◎ 『妻籠め』佐藤洋二郎
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