「頼子さんが戻るまで現場を守る」そう約束した七菜だったが、頼子の病状は悪化する一方で……。 【連載お仕事小説・第30回】ブラックどんまい! わたし仕事に本気です
燃えるお仕事スピリットが詰まった好評連載、第30回。主人公の七菜(なな)は、いつも仕事に全力投球! 100人前のカレーをロケ飯で出す方法を尊敬する上司・頼子に相談しに来た七菜だったが、癌の進行は思っていたより早いものだった。思うように体が動かない頼子は、大きく取り乱してしまい……!?
【前回までのあらすじ】
七菜の恋人・拓の務める「アタカ食品」から届いたのは、100人前はあるであろうレトルトカレーの差し入れ。撮影現場のロケ飯で使用する調理法に悩んだ七菜は尊敬する上司・頼子に会いに行くことに。3週間ぶりにあった頼子は松葉杖をつくまでに病状が悪化していた。
【今回のあらすじ】
頼子が戻るまで現場を守るとそう約束した七菜だったが、頼子のがんの進行は思っていたよりも早いものだった。頼子は、今まで誰にも見せたことがない姿を見せるほど取り乱してしまう。なんとか頼子をなだめた七菜は、恋人の拓から届いたレトルトカレーをロケ飯で出す方法を聞いてみるが……?
【登場人物】
・時崎七菜(ときざき なな):テレビドラマ制作会社「アッシュ」のAP(アシスタントプロデューサー)、31歳。広島県出身。24歳で上京してから無我夢中で走り続け、多忙な日々を送っている。
・板倉頼子(いたくら よりこ):七菜の勤める制作会社の上司。チーフプロデューサー。包容力があり、腕によりをかけたロケ飯が業界でも名物。
・小岩井あすか(こいわい あすか):撮影が進行中のテレビドラマの主演女優。
・橘一輝(たちばな いっき):撮影が進行中のテレビドラマの主演俳優。
・佐野李生(さの りお):七菜の後輩のAP。26歳で勤務3年目。
・平大基(たいら だいき):七菜の後輩のAP。今年4月入社予定の22歳の新人。
・野川愛理(のがわ あいり):メイクチーフ。撮影スタッフで一番七菜と親しい。
・佐々木拓(ささき たく):七菜の恋人。大手食品メーカーの総務部に勤めている。
・上条朱音(かみじょう あかね):ドラマ『半熟たまご』の原作者。数々のベストセラーを持つ小説界の重鎮。教育評論家としても名高い。
・岩見耕平(いわみ こうへい):チーフプロデューサー。七菜の上司。
【本編はこちらから!】
キッチンから、ぽたりぽたり、水滴の落ちる音が響いてくる。
さきに沈黙を破ったのは、頼子だった。
「……悔しいわ。残念でたまらない」
頼子がぽつりとことばの
「すみません、頼子さん」
「違うの。違うのよ七菜ちゃん」
強められた語気に、驚いて七菜は顔を上げる。
赤く染まった頬。切れ長の二重の瞳が苦しげに歪んでいる。目のふちが隈どられたように赤い。尖った顎がかすかに震える。
「……なんでわたしはいないんだろう」
ひび割れ、張りを失った声。
「え?」
「いまこそ責任者として現場にいるべきなのに、どうしてわたしはこんなところで、なにもできずに……!」
叫ぶや、頼子が両手でじぶんの太ももを激しく叩きだした。
「この足! このからだ! 現場に戻りたい! 戻って、少しでもいいからみんなのちからになりたい!」
松葉杖が派手な音を立てて倒れた。頼子の上半身がぐらりと
「頼子さん!」
悲鳴を上げ、七菜は頼子のもとへ駆け寄った。こんなふうに取り乱した頼子を見るのは初めてだった。なおも両足を叩きつづける頼子の手を、背後から必死で止める。
「落ち着いてください、仕方ないですよ。だって頼子さんは病気で」
「──なんでがんなんかになっちゃったんだろう」
ようやく手を止めた頼子が、平板な口調でつぶやく。
「よりによっていちばん大事なときに。なんで。どうして……」
頼子の瞳から涙が溢れだす。痩せた頬を伝い、涙が太ももに点々と丸いしみを作る。
泣いている。頼子が泣いている。
五年間そばにいて、それは初めて見る頼子の涙だった。
なんとかちからづけようと七菜はことばを紡ぐ。
「頼子さんのせいじゃない。頼子さんは悪くないですよ、なにも」
だが七菜のことばは頼子には届かなかったらしい。こぼれ落ちる涙を拭おうともせず、頼子がつづける。
「……働きたいのに。謝罪でも後始末でもなんでもいいから、みんなと同じように働きたいのに。なにもできない。わたしにはなにも」
「そんなことないですよ。だって美味しいロケ飯、届けてくれたじゃないですか、ちゃんと」
頼子が小刻みに顔を振る。
「……それも、もうできない」
両手のすき間から漏れ出てくる声は、耳を澄まさないと聞き取れぬほど細くて弱々しい。背を丸め、
いつだって凜と立っていた頼子。みなが混乱しているときも、常に落ち着き払い、必ず的確な解決策を提示してくれた頼子。その頼子が、まるで迷子になった子どものように怯え、
七菜は夢中で頼子を背後から抱きしめた。ごつごつとした背骨、折れてしまいそうな細い腕や肩が、すっぽりと七菜の両手のなかに収まる。
頼子さんいつの間にこんなに小さくなっちゃったんだろう。頼子を抱きしめたまま、七菜は
「……ごめんなさい、頼子さん。ほんとうにごめんなさい」
頼子は動かない。ただひたすら涙を流しつづけている。肌を通して頼子の戦慄きが痛いほど伝わってくる。七菜は抱きしめる手にさらにちからを込めた。
この五年間あたしはずっと頼子さんに励まされ、助けられてきた。今度はあたしの番だ。あたしが頼子さんのちからになる番だ。
七菜は頬を頼子の背中に擦りつけた。
とくんとくんとくん。
頼子の速くて浅い鼓動が耳から全身に広がってゆく。その音だけに意識を集中させる。
とくんとくんとくん。とくんとくんとくん。
鼓動に合わせるように、七菜は静かに呼吸を繰り返す。吸って吐いて、吸って吐いて。ただひたすらにひたすらに、それだけを。
頼子の鼓動がじょじょに落ち着いていく。嗚咽が止み、やがてそっと頼子が寄り添っていた七菜の腕をほどいた。床に手をついてゆっくりとからだを反転させ、七菜に向き合う。
「ごめんね、みっともないところを見せてしまって。だいじょうぶ、もうだいじょうぶだから」
口角を上げ、指で涙のすじを拭う。
「七菜ちゃんの話を聞くって言いながら、じぶんのことばっかり」
「いいんです、それは全然」
「話って、中止を伝えるために来てくれたの」
「あ、いえそれだけじゃなくてですね」
七菜はバッグに入れてきたレトルトカレーを出してみせた。
「これと同じものが百個くらい送られてきたんです、友だちから」
カレーを差し出しながら説明する。頼子が目を見開いた。
「百個? またずいぶんたくさん送ってくれたのね」
「差し入れだと思うんです、撮影の。でもこれをいちいち温めてたら大変じゃないですか。ご飯も用意しなきゃだし。かといってせっかくの好意を無駄にしたくはないし。どうしたらいいだろうかって悩んでて」
「それならいいレシピがあるわよ」
打てば響くように頼子がこたえ、テーブルの脚に縋って立ち上がる。七菜は急いで床に転がる杖を拾い上げ、頼子に渡した。
【次回予告】
頼子が口にした「こちらこそありがとう。わたしも嬉しいわ。最後に七菜ちゃんと料理ができて」。その“最後”の意味とは……? 七菜に芽生えた決意とは……? いよいよクライマックス! 次回、ウェブ連載最終回!
〈次回は8月14日頃に更新予定です。〉
プロフィール
中澤日菜子(なかざわ・ひなこ)
1969年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒。2013年『お父さんと伊藤さん』で小説家デビュー。同作品は2016年に映画化。他の著書に、ドラマ化された『PTAグランパ!』、『星球』『お願いおむらいす』などがある。
<中澤日菜子の「ブラックどんまい!」連載記事一覧はこちらから>
初出:P+D MAGAZINE(2020/08/07)