【いとうせいこう×中上紀トークショー】中上健次の文学と世界【前編】
芥川賞作家・中上健次の未完の大作『熱風』が、P+D BOOKSから刊行されました。そこで2015年12月18日、記念トークショーが行われ、作家のいとうせいこう氏、中上健次の長女でもある作家の中上紀氏が、人間・中上健次の素顔とその作品世界について語りました。
その対談イベントの模様をレポートします。
中上健次が生きていたら?―政治、SNS、携帯。
いとう:いとうです。よろしくお願いします。
中上:中上紀と申します。よろしくお願いします。
いとう:今日は皆さんから質問を受け付ける形式で進めます。
まず、タラレバの問題ですけれど、「中上さんは今の政治状況にどう言っていたと思いますか」という質問がありました。やっぱり中上さんは湾岸戦争の時も率先して発言していたし、社会的に思うことがあれば、僕らがハラハラするぐらいどっちの陣営ともいえないようなことを言ったんじゃないかな。
中上:そうですね、黙ってはいないと思います。何らかの形で発言し、行動したでしょうね。私は病気で亡くなって奇跡だと思っています。病気じゃなかったらアフガニスタンとか行って亡くなったのかなって、分かりませんけれど。
いとう: SNSとTwitterとか、中上さんは使っただろうかっていう質問もありましたが、娘さんとしてはどうですか?
中上:わりと新し物好きだから……。
いとう:そうか!おれね、ぜったいやらないとおもった!(笑)
中上:いや買うんです、小金はありましたから(笑)でも使いこなせない……。ツイートしといてとか言って(笑)
いとう:あっ、それは想像できる。若いやつを新宿かなんかでゲットして、俺の代りに書いとけ!みたいな……(笑)中上さんといえば、携帯電話ができちゃって物語が決定的に生みにくくなったっていう有名なエッセイがありますよね。
中上:アフガニスタンのアミンという子供が、働きに出たお父さんに電話をするために電話があるところまで毎日通って待つのが物語なんだっていうものですね。
いとう:それは全くそのとおりで。携帯があるとすぐ検索しちゃうし、解決するし、そうじゃないところにどれだけ物語があったのかっていうね……。小説でも、携帯があると、ここからここは主人公が知らない世界にしておくってことができないから、書きにくいんだよね。
中上:しかも、今は圏外のところも少なくなってしまって。もう熊野の山奥でもつながりますからね。
いとう:そういう意味で中上さんは良い時代に生きたとも言えるし、それになおかつ、そういうものがある世界にも我々は物語を書かなきゃいけないわけで、その後をどう書いたかっていうのは興味がありますね。
植物にみる、世界文学としての可能性
いとう:それから、中上さんと女性性みたいなものについても質問がありました。つまり、中上健次ってどうしても、一瞬さらっと読んだ人にはすごくマッチョなイメージを与えると思うんですね。でも、僕にはすごく女性的に見える。
『軽蔑』では、路地に咲いてるものとか線路の脇に咲いているものとか、植物を丹念に書いているんですよ。俳句の人にも、電話で今なにが咲いてるかとか詳しく聞いてたらしいんです。それって男性作家ではめずらしいんじゃないでしょうか。
中上:『熱風』でも、ブラジルで生まれ育ったタケオが夏芙蓉ってどんな花が咲くんだろうって想像するシーンがありますね。そこでは、ジャカランダの花を想像しています。紫色で、桜みたいに花だらけになる木で……、これは南の方にしか育たない植物らしいのですが、ノウゼンカズラに近いらしいんですね。
いとう:それだと、ウィリアム・フォークナーのスイカズラへの目配せもあったのかもしれないね。
中上:それに紫の花って、南方熊楠が亡くなる時に「紫の花が見える」って言って亡くなったらしいんですね。繋がっていないかも分かりませんけど、おなじ紀州出身で中上はすごく意識していた存在なので、それを思い浮かべました。ノウゼンカズラって新宮出身の佐藤春夫のすごく好きな花でもありますよね。
いとう:たしかにそういう風に、植物で他の作品とも繋がっていくっていうね。植物自体が根が地中で繋がっていたりして、違うところでぱっと咲いたりするものじゃないですか。文学ではそういうことがよく起こるのが面白いですね。カズラみたいなものがアメリカ南部のフォークナーの小説の中にあって、それがあるからきっと夏芙蓉を出してきたんだと思うんですね。それがまわりまわってジャカランダにいくっていう。
それから、『異族』でもそうだけど、海外に目を向けていくっていうのがあって……。
中上:どこかで分岐点があったという気がします。初期の濃縮したような文体から、どこからか『軽蔑』とか『異族』もそうですけれど、少しふっきれたような、もちろん濃いんだけど違う意味の濃さになってるところがありますよね。
いとう:それと同時に、舞台が沖縄になってみたり、ブラジルの人が来たりとか、違う形になっていくんだよね。「世界文学の中で中上さんはどういう位置づけなのか」という質問もありましたけれど、もちろん『岬』、『枯木灘』、『地の果て 至上の時』のようなローカルにこだわるからこそ世界文学に至るっていう密度もあるんだけど、中上さん自体はだんだんそういった密度ではない、英語にすぐ訳せるようなものに向かった不思議さがあるんですよね。
中上:『奇蹟』ぐらいが分岐ですかね。
いとう:『奇蹟』は両方があると思うんだよね。物語であり読みやすい部分もありつつっていう。それが80年代で、『奇蹟』以後かな、90年代は「ほんとうは俺、日本文学とか言ってたくないんだけど」みたいなものを焦りと共に感じる。だから、僕としては世界文学は世界文学ですが、中上さん自身がご存命だったら、『異族』や『熱風』みたいな作品をどういう風に位置付けるものを書いていったのかは未知数なので、面白いテーマだなと思いますね。
〔取材・編集〕亀有碧
▼「中上健次と音楽、二人が偏愛する作品」について語り尽くしたイベントレポート後編もあわせてお読みください!
https://shosetsu-maru.com/essay/ito-nakagami-2/
初出:P+D MAGAZINE(2015/12/28)