『江分利満氏の優雅で華麗な生活』刊行記念 山口正介×宮田昭宏トークイベント&サイン会
P+D BOOKSから山口瞳の代表作で、代名詞ともいえる『江分利満(えぶりまん)氏』シリーズをベストセレクションで再編した『江分利満氏の優雅で華麗な生活』の刊行を記念して、2017年3月17日、長男で本書の編者でもある山口正介氏と、文芸編集者・宮田昭宏氏のトークイベントが開催されました。長男・正介氏が初めて語る父の素顔に、会場となった東京堂書店神田神保町店東京堂ホールは大いに沸きました。
山口瞳の息子でよかったこと、困ったこと
宮田:正介さんは最近、僕が担当していた頃の山口瞳さんによく似てきていまして、とくに後頭部のあたりが生き写しなんです。思わず「山口先生!」って言いたくなる(笑)。また年をとってくると、顔も瞳さんに似てきたりしています。まず私からお伺いしたいのは、たまたま山口瞳さんの息子になった正介さんは、息子でよかったなあっていうことと、息子で困っているということがあったら、簡単に教えていただきたいと思います。
山口:昔、うちの親父について本を書いた時に、読者投書はがきが戻ってきて、そこに「たかだか息子だっていうことくらいで、山口瞳の何がわかるんだ」と書いてありまして、今でいうとインターネットの「炎上」に当たるんじゃないでしょうか?(笑)よかったことというと、これは贅沢な話なんですけど、いろんな有名な方にお目にかかれたかなと思うんです。それと山口家というのはおもしろい家で、「女性はいい芸者になれ、男はいい幇間になれ」という育て方をされていました。一般の方とはちょっと違うかもしれないんですが、そこがよかったところですかね。
宮田:逆に、困ったことはありますか?
山口:マイナス面っていうのは、初対面の方でも僕のことを何から何まで知っているっていうことですね。言うまでもなく、親父が子供の時からのことをずっと書いているからですが。成人してから初めてお目にかかった方が「小児喘息、もうよくなったんですか?」なんていうのね。そんなこと、僕も半分忘れているようなものなので、困りますよね(笑)。
宮田:僕もそばで、山口家の人々を見てきたんですけれど、やっぱり山口さんの小説の中でモデルとして使われた人生っていうのは、大変なんだろうなって思います。山口さんが大々的に流行作家となるきっかけになったのが、この『江分利満氏の優雅な生活』で、直木賞を受賞されています。この本にも、最初の作品に正介さんがモデルとして出てきますから、たぶん、今から思いますと、「息子のお前は、ずっと俺のモデルになるんだよ」という宣言かもしれませんね、第1作で(笑)。
山口:今、宮田さんがおっしゃったように、この『江分利満』の第1話の最初のシーンは私が貸本を借りに行くところで、皆さん、非常に印象に残っているらしいんです。ですが、「婦人画報」で連載っていうか、最初に始まったときは、3回目までは連載じゃなかった。
宮田:ほう……。
山口:当時編集長だった矢口純さんが、「新橋の『トントン』っていうバーで、いつもみんなに絡んでいる変な野郎がいる。おもしろいからそいつに小説書かせてみようか」ってことで、読み切りで1回書いたんです。それがなかなか良さそうだというので2回になり、3回になって、4回目からこれはいけるんじゃないかってことで、連載になるんです。これが先ほどの、僕が貸本屋に行く話。
宮田:なるほど。
山口:それが単行本になったときに、4回目の「しぶい結婚」が第1回として収録されて、(連載前の)最初の3回は最後に回されたんですね。それから、僕の名前は「正しい」に「紹介」の「介」なんですけど、作中は「庄屋」の「庄」に「助ける」になる。そのへんでうちの親父は「モデルであって本人じゃない」という意味があったみたいですね。母も本当は「治る子」と書いて「治子」ですが、「夏子」にしています。
宮田:ちょっと変えていますよ、と。
山口:ところで、この最初の貸本屋さんで私が借りているのが『火星人の逆襲』なんですが、実は当時、僕が借りていたのは、白土三平の『忍者武芸帖』。でも、それじゃちょっと小説になりにくい。『火星人の逆襲』(正しくは金星人の逆襲)という方がなんかおもしろいんじゃないかなというのが、うちの親父というか、山口瞳のセンスだったのかなと思います。
江分利満氏の勤務先・東西電機のルーツは、サントリー、ナショ研、東芝にあり?
宮田:山口瞳さんはサントリー、この頃はまだ寿屋ですけれど、そこに勤めておられた。この江分利満氏が勤めているのは東西電機という家電メーカーですよね。東西電機は大阪に本社がある。サントリーも本社が大阪にあって東京は支社。その大阪と東京という意味で東西にしたのではないかということを僕は考えているんです。
山口:これはたぶんその通りだと思いますね。あと、家電メーカーということで、東芝がちょっと頭にあったんじゃないかと僕は思っていたんです。なぜかと言うと、東芝は「東京芝浦電気」っていうんですね。その頃、港区の麻布に家があったもので、芝浦というのはつい目と鼻の先。山口正雄という僕のおじいさんが小さな町工場みたいなものをやっていて、親父がそのことを『家族』に書いています。まさに東京芝浦電気の隣か近所に工場があって、東芝の名前がそこに出てくる、だから東西電機っていうのがそのへんにあるんじゃないかな。
宮田:ああ。
山口:それからもうひとつ、うちの親父はサントリーの宣伝部にいたわけですけど、当時、博報堂、電通などとともに、ナショ研っていう名前をよく聞いていたんです。うちの親父たちの会話の中で。ナショナル宣伝研究所といって、ナショナル電器の宣伝部門から出た、宣伝企画・制作会社です。サントリーの宣伝部と並び称せられるような位置にあったんじゃないかなあと。『江分利満』を書くにあたって、もしかしたら電機会社の宣伝部のような設定の話にすれば、多少は書けるんじゃないかという、そういう魂胆があったんじゃないかなって最近は思っています。
宮田:『優雅な生活』に「ステレオがやってきた」という章があるんですが、僕の家でもこのぐらいの時におふくろがステレオを買ってきて、家の中にどんと据えられたのを覚えています。ですからステレオが家の中に入ってきてレコードを聴くっていうこと、その後、冷蔵庫、電気洗濯機といった家電がどんどん家庭に入ってきて、日本人の生活とか意識というのが変わってきて、そこに高度成長のようなのが結びついて……っていうところから、社会的な動きをすごく敏感に感じられる方だったんじゃないな、山口さんは。それで電器メーカーに勤めていることにしたのかなというふうなこともちょっと僕は考えたりするんですね。
山口:はい。
宮田:それでこれがこういう単行本の形になりまして、文藝春秋新社(現、文藝春秋)から出るんですけど、これにちょっとおもしろい秘密があるんですよね。
山口:(2冊の本を掲げて)皆さん遠いからおわかりになりにくいかもしれないですけど、この『江分利満氏の優雅な生活』、『江分利満氏の華麗な生活』の題字を見てください。実は、のちに映画監督になる伊丹十三さんによるものです。当時、一三(いちぞう)という名前で、明朝体をフリーハンドで書かせたら日本一といわれていたデザイナーだったんですよ。
宮田:伊丹一三さんですね。
山口:この明朝体っていうのは、元の大きさは同じなのに、画数の多い少ない、ひらがなカタカナの違いで、並べると錯視、一種の錯覚が起こって、大きく見えたり小さく見えたりするんです。そこで一字一字を微妙に大きさを変えて、全体が同じ大きさに見えるようにフリーハンドで書いたのがこれです。
宮田:それをやらせると伊丹さんは非常に優秀だと。
山口:いろんな方の単行本の題字を書いてましたね。伊丹さんの最初の奥さんだった川喜多和子さんが「本屋さんに入って背表紙しか見えなくても、伊丹の書いたのはすぐわかる」とおっしゃってました。この『華麗な生活』と『優雅な生活』でも、実は「の」の字と「な」の字が違うんですよ。見比べないとわからないんですけど。その都度、手書きで、デザインを変えているということで、非常に丁寧な仕事をなさっていたなぁと思います。
宮田:この本を文藝春秋で出す時、山口さんは編集部に出向いて、「デザインは伊丹さんに、挿絵は柳原(良平)さんに」と頼んでいるんです。編集の人は「最初の本についてそれだけ周到にデザインのことを考えられるっていうのはすごいですね」なんて、ずいぶんびっくりしたそうですが。彼らは山口さんの友達でもあったわけで、最初の本はその2人に携わってもらいたいという気持ちが彼の中に強くあったんですね。
山口:それからこの口絵写真は、私がまだ美少年だったころの貴重な写真(笑)で、のちに日本写真家協会の会長(現・常務)をなさった田沼武能さんが撮ったものです。親父がトリスを左手に持っていますが、これは小説を書くようになる前に、サントリーのトリスの宣伝写真として、撮影したんですね。親父と僕がモデルになって、田沼さんが撮って、新聞広告としてはボツになったものを、ここに使った。だから僕は「デビューはコマーシャルタレントだ」といっています(笑)。
宮田:「江分利満氏」というのがとてもいいネーミングで、山口さんが大流行作家になるひとつの大きな理由でもあったと思うんです。山口さんはこの後、プロ野球のキャンプやゲーム、日本シリーズを取材されるたびに、そのタイトルが「江分利満氏のキャンプめぐり」とか、「江分利満氏がどこそこに行く」とか。山口瞳っていうよりも必ず江分利満氏っていうのが個性みたいになって、活躍した。
山口:そうでしたね。
宮田:直木賞を受賞されたときには僕はまだ会社にも入っていませんし、編集者でもありませんでしたが、先輩から聞くと、あっという間に流行作家になったと。大変な渦の中に山口さんも巻き込まれたっていうようなことだったらしいです。編集者の方でも、山口さんの持っている新しい方法論、文体、それからサラリーマンっていうもののとらえ方、これをいろいろな自分たちの雑誌とか企画に使いたいと、ずいぶん山口さんを追いかけたり、山口さんもそれに応えたりっていう、山口さんの疾風怒濤の時代が来るんだと思います。
山口:はい。