◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第9回 後編

◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第9回 後編

小堀政方の罷免で江戸市中に広まる快哉の叫び。
幕府普請役配下の徳内は千島列島を目指し──

 

 三月十五日、ソウヤでは幕府普請役の庵原弥六が呼吸困難におちいり、苦悶した末に絶命した。庵原弥六は、前年(天明五)七月の初め、下役の引佐新兵衛と鈴木清七をともなって幕吏として初めてカラフトのシラヌシに渡り、西海岸はタラントマリまで二十五里(約百キロメートル)を北上した。さらにシラヌシから東のシレトコにいたるアニワ湾を探索検分し、その足跡を北方史に残した。昨年はソウヤ到着が遅れ、準備がおぼつかず糧米不足によってソウヤに引き返さざるをえなかった。当年は新春早々からカラフトに渡り、山丹交易の実態を調べ上げる意思でソウヤ越冬を決断し、現地にとどまった。その結果がこれだった。

 西蝦夷地検分隊を率いる庵原弥六の死は、同地に越冬した引佐ら下役はもとより松前藩派遣の者たちの気力を奪わずにはおかなかった。

 二十一日、工藤忠左衛門が死亡した。これでソウヤ越冬を試みた者のうち四名が死亡。さらに二十八日、松前藩士の柴田文蔵までもが、やはり寒気病の症状を示し息絶えた。彼は、去る二十一日に病死した工藤忠左衛門の上司として藩に遣わされ、西蝦夷地検分隊と行動をともにしていた。

 救援を依頼する使者を松前に送ったものの、救援隊が到着する前に全員が死に絶えるのではないかとの恐れがソウヤの運上小屋を支配した。

 

 三月七日、東蝦夷地アツケシの運上小屋に普請役の山口鉄五郎が下役の大塚小市郎をともなって到着した。先着した徳内は、とうに渡海の準備を調え、山口の到着を待っていた。千島列島の第一島に位置するクナシリ(国後)には、アツケシの惣乙名イトコイから板つづり舟を出してもらうことになった。イトコイも徳内と行動をともにし、千島列島を順次北へ渡るという。

 三月十日、徳内はイトコイが用意してくれた三艘の舟でアツケシ湾を出発し、北へ針路を取った。徳内の従者としてフリウエンという先住民の少年を雇い入れた。

 フリウエンは、アツケシの先住民集落でも目立って賢く、和語を解し、片言の和語も話せた。

 前年に青嶋俊蔵の下役としてアツケシに赴いた徳内をフリウエンは憶えていた。前年に突然現われた「江戸の衆」のなかで、徳内と大石逸平の二人は、米飯や味噌汁にこだわらず、先住民の常食する魚や獣肉と行者ニンニクなどの野草を煮こんだ濃厚な汁ものを好んで食べ、魚や獣肉のたたきも喜んで口にした。とくに徳内は、フリウエンの賢さを愛で、片仮名で「フリウエン」と名を書く術を教えてくれた。

 二十日、徳内を載せた板つづり舟は、運上小屋のあるクナシリ島南端のトマリに着いた。トマリからケラムイ岬を越え、東海岸を北上して、イショヤという鱒(ます)の漁場となっている海岸に上陸した。

 アツケシからの先住民たちは、森に入って手頃なトド松を伐りだし、目測で丸太を組み、手早く小屋を建てた。トド松の樹皮で屋根と周囲を覆い、床にはトド松の青い枝葉を敷き詰め、炉まで切ってあった。炉の上には渡し木を組み、切り妻の屋根に煙出しの穴を開けるのも忘れなかった。鱒を獲る季節には、このような野宿小屋を漁場に建て夏を過ごすのだという。小屋に入ると、床に敷いたトド松の葉や樹皮から爽やかな香が立ちのぼり、渡海で疲れた徳内の心身を癒した。

 その夜、東北風が激しく吹き、アツケシから来た先住民の水主(かこ)たちは「海が真っ白になった」と口々に言い、顔を青ざめさせて気味悪がった。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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