〈第19回〉加藤実秋「警視庁レッドリスト」
「……変だな。このアラビア数字が各方面に配置する赤文字リスト入りした職員の数だとして、千代田(ちよだ)区や港(みなと)区を擁する第一方面に百名、品川(しながわ)区や大田(おおた)区を擁する第二方面に三十名はわかる。だが、第六、第七方面に各五十名というのは? ここは荒川(あらかわ)区、足立(あだち)区、江東(こうとう)区、墨田(すみだ)区といったいわゆる下町エリアだぞ。加えて、昭島(あきしま)市、立川(たちかわ)市、東村山(ひがしむらやま)市など郊外エリアの第八方面に六十名。なぜだ?」
顔を上げ、再び問う。今度は中森は顔を前に向け、静かに答えた。
「知ったら後悔しますよ。ただし、質問の答えは既に阿久津さんの頭の中にあります」
「どういう意味だ? ちゃんと説明しろ」
「もう帰った方がいい。僕の話を持井さんに伝えて、返事を聞かせて下さい。さっきのスマホに、連絡先が登録してあります」
ノートパソコンを閉じて抱え、中森は立ち上がった。ドアに向かおうとする背中に、慎は問うた。
「なぜ自分で持井と交渉しない? 俺が何を考えてお前とデータを追って来たか、知っているんだろ」
中森が足を止めて振り返った。丸く大きな目で慎を見下ろし、答える。
「阿久津さんを尊敬しているからです。あなたは監察官として自分が学んだことの全てを、伝えようとしてくれました。でもそれは、明らかに僕のキャパシティを超えていた。ずっと情けなくて、申し訳なくも思っていたんです」
「中森。それは」
「後は、職場環境改善推進室に異動になってからの仕事ぶりを聞いたからというのもあります。阿久津係長、変わりましたね。今のあなたなら、自分の身を守りながら正しい選択をしてくれそうな気がします」
澄んで穏やかな目で、中森は告げた。その目を見て、慎は返した。
「元係長。今は室長だ」
中森はふっと笑い、「失礼しました」と頭を下げた。身を翻し、ドアに向かう。
「中森」
呼びかけた慎の目に、ドアを開けた中森と廊下に立つ数名の男が映った。廊下に出た中森を、キャップを目深にかぶった男たちが取り囲む。慎が立ち上がろうとした時、ドアはぱたんと閉じた。
念のために部屋を調べてから、ビジネスホテルを出た。ワンボックスカーは消えており、慎はタクシーを停めて乗り込んだ。運転手に寮への道を告げ、作業服のポケットからスマホを出してキャップを押し込んだ。電話帳を確認すると、中森が言った通り番号が一件だけ登録されていた。慎は電話帳を閉じ、別の番号に電話をかけた。
「はい」
男の声が応えた。見知らぬ番号からの着信に、警戒を露わにしている。
「佐原(さはら)か? 阿久津だ」
「今は無理だ。話なら――」
早口で返そうとした佐原皓介(こうすけ)を遮り、慎は告げた。
「用意して欲しいものがある」
「断る。お前には、もう協力しない」
声を潜め、どこかに移動する気配を感じさせながら佐原は言った。スマホを持ち直して脚を組み、慎は訊ねた。
「いいのか? お前の姉の」
「好きにしろ。引きこもりの甥の存在をばらされるより、今のお前と関わっていると上層部に知られる方が、はるかに危険だ。お前の懲戒処分は決定的だ。もう全部、お終(しま)いなんだよ。いい加減に諦めろ」
慎はスマホを下ろし、通話を打ち切った。協力を拒まれたことより、佐原の憐(あわ)れみを滲(にじ)ませた口調が不快だった。スマホをポケットに戻し、窓の外に目を向けた。午前十一時を過ぎ、傘を差した人たちが雨の街を行き来している。
中森と連絡手段ができたのは大きいが、このままではただの使い走りだ。持井との取引に食い込む材料を見つけなくては。
中森。お前の短所はキャパシティのなさではなく、半端な誇りと使命感だ。以前から気づいていたし、いずれ伝えてやろうと思っていたが、手遅れだな。
「えっ。何か言いました?」
ハンドルを握ったまま、運転手が振り返った。知らないうちに、頭に浮かんだことを声に出していたようだ。三雲(みくも)みひろのクセがうつったのか。また不快になり、慎は、
「いえ。何でもありません」
と返し、シートに体を預けようとして閃(ひらめ)いた。
そうか。三雲がいた。上手(うま)くコントロールすれば、あいつは使える。
身を乗り出して胸の前で腕を組み、慎はこれからの算段を始めた。
(つづく)