【SM小説】美咲凌介の連載掌編「どことなくSM劇場」第34話 不思議なサイトの事件――どえむ探偵秋月涼子のコギト・エルゴ・スム

人気SM作家・美咲凌介による、書き下ろし掌編小説・第34回目は「不思議なサイトの事件」。ある日「どえむ探偵涼子」が見つけたのは、自分とSのお姉さま・真琴さんとの関係が記された不思議なサイト。ストーカーや盗聴器の可能性を否定する涼子が出した“意外な答え”とは……?

前期試験も近づいてきた七月半ばのある夜、真琴さんのアパートの部屋でのこと。

「たしかに……」

真琴さんは、目の前にあるノートパソコンのモニターをにらみつけたまま言った。

「変な話だな、これ。いったいどうなってるんだ?」

涼子は右隣に立っている。

「それがわからないから、謎なんですわ。涼子、なんだかとても怖くて」

新宮真琴さんは、聖風学園文化大学の三年生、二十歳。隣で心配そうに眉をひそめているのは、一つ年下の二年生、秋月涼子、十九歳。真琴さんは国文科、涼子は英文科と科は異なるが、どちらも文学部の学生で、サークルも同じミステリー研究会に所属している。

二人は単なる先輩後輩の仲ではない。月に何度かは同じベッドの上で抱き合って眠る性的なパートナーでもあるのだ。いや、それだけではない。実は真琴さんには、可愛い子を優しく虐めてやりたいというS的傾向があるのだが、「お姉さま、お姉さま」と呼んで慕ってくれる涼子は、その真琴さんの傾向に十分以上に応えてくれる自称M奴隷なのである。

「涼子、昨日このサイトを見つけたとき、本当にびっくりしてしまいました。それで、すぐにお姉さまにお電話をさしあげようかとも思ったんです。でも、もう二時をすぎていましたし……お姉さまの睡眠を邪魔してはいけないと思ったんですの」

「それが正解だったよ。私は、睡眠を邪魔されるのがすごく嫌いだから」

真琴さんはたっぷりと睡眠時間をとらなければ、すぐに調子を崩す性なのである。いわゆるロングスリーパーという奴なのだろう。その点、涼子は対照的に宵っ張りの早起きで、四・五時間しか眠らない日が続いても平気らしい。

「それに、寝ぼけた頭でこんな話を聞かされても、なんのことかわからなかっただろうしね」

「あのさあ……」

と、今度は左側から低い男の声がした。やはり聖風学園文化大学に通う春日大地くん。真琴さんと同じく文学部国文科の三年生で、入学以来親しくしている――といっても、特別な関係というわけではなく、もちろん今夜だって部屋に呼ぶつもりはなかった。涼子と大学の中央掲示板の前で待ち合わせたとき、たまたま側にいただけなのだが、「証人になってください」と言って、涼子が無理に連れてきてしまったのだ。

「ぼくをからかってるんじゃないのか。これ、君たちが作ったサイトだったりして」

「この時期に、そんな暇なことするわけないだろう」と真琴さん。

「もうすぐ試験なんだよ。今この時間だって、勉強に使いたいくらいだ」

真琴さんは、学費全額免除という特待生の資格で、この大学に在学している。その資格を守るためには、常に上位の成績を維持しておかなければならない。本当は今夜、涼子と会う予定だってなかったのだ。なんだかひどく慌てた様子で涼子が連絡してきたから、急遽会うことにしたのである。

「君たちの悪戯じゃないとすると……」

春日くんは、もごもごと口の中でつぶやいた。

「いったいどういうことなんだ?」

三人が見つめているパソコンのモニターには、「どえむ探偵秋月涼子の発見」という小説のタイトルが映っている。画面を下へ下へとスクロールさせて一通り読み終えたあと、今はまた、一番上まで戻ってきたところ。その小説には、ミステリー研究会の部員仲間が隠した一枚のイラストを、真琴さんと涼子が探し出すという話が綴られていた。(美咲凌介の連載掌編「どことなくSM劇場」第9話「どえむ探偵秋月涼子の発見」をご参照ください。)

涼子に言われた通り、「どえむ探偵秋月涼子」でネット検索をかけたら、このページが出てきたのである。「どえむ探偵」?――そうなのだ。涼子は大学を卒業したら、私立探偵になると宣言している。しかも、SM行為をすると途端に推理力が跳ね上がるドM探偵として、大活躍する予定だというのだが……バカなのか? バカなのだろう。だが、涼子の実家はこの地方では一、二を争う資産家。たとえ客が一人も来なかったとしても、小さな探偵事務所の一つくらいは十分に維持できるのかもしれない。

「これは、去年の話だね」と、真琴さん。

「ええ。しかも、だいたい本当のことが書いてありますわ。部室で二人きりだったときのことまで。それにしても、お姉さま? 涼子が探偵になりたいっていう話ですけど……」

「ん?」

「この小説では、お姉さまがそんな涼子のことを、バカなのかって思ったと書いてありますわ。お姉さま、本当にそんなことを思われましたの?」

「いや、まあ、それに近いことは……ああ、でも、涼子」

しばらく口ごもったあと、真琴さんは少し声を大きくした。

「それは、私の親しみの表現なんだよ。だって、ほら……つきあいの浅い人には、そんなこと思わないし、言わないし。だから、気にしなくていいんだよ」

「実は、涼子、そんなときには、口に出して言っていただきたいんですの」

「そうなのか?」

「ええ。お姉さまにバカだなって言われて、そして……同時に頭を撫でていただいたりしたら、涼子、とっても幸福を感じると思うんです」

「じゃあ、これからはそうするよ、おぼえていたら」

「ありがとうございます、お姉さま。きっとですよ」

「ん……」と、うなずきながらちらりと視線を走らせると、春日くんがあきれたような顔をして、こちらを眺めていた。真琴さんは声を励まして――

「それより、涼子。このサイトだけど……P+D MAGAZINEっていうみたいだな。文芸関連のサイトなのか。ほかにどんな記事が……」

そう言いながらマウスを動かそうとしたら、涼子の手がすっと伸びてそれを止めた。

「お姉さま、待ってください」

「どうした?」

「ほかのページを見る前に、この小説を印刷してください。一度、ほかのページに飛んだら、ここには戻ってこられなくなるんです。昨夜もそうだったんですの」

「そんなこと、あり得るのか。変じゃないか」

「でも、そうだったんですわ。それに、変だって言ったら、この小説の存在自体がそもそも変じゃありませんか」

「たしかにそうだけど」

真琴さんは、今開いている「どえむ探偵秋月涼子の発見」という小説を印刷した。そのあと、他のページに飛び、さて戻ってこようとすると、なるほど涼子の言った通り、戻ることができない。「404 Not Found」という表示が出るだけだ。

「ね? お姉さま。不思議でしょう」

「本当に、どうなってるんだろう」

「涼子、昨日の夜は印刷していなかったものですから、もう二度と読めないのかも……って、そう思いましたの。でも、スマホで検索してみたら、もう一度読むことができたんです。でも、そのスマホでも、ほかのページに行って戻って来ようとしたら、やっぱりダメでしたわ。たぶん、お姉さまのスマホや、春日先輩のスマホでも、同じだと思います」

真琴さんが自分のスマホを引っ張り出してやってみると、たしかに涼子の言った通りだった。春日くんも試してみたが、同様の結果。検索すると一回は辿り着けるものの、二度目は例の「404」が表示されてしまうのだ。

真琴さんは、印刷した紙をめくりながら――

「たしか最後に、作者の紹介が載ってたはず。ああ、あった。美咲凌介って……いかにもペンネームって感じ。派手だなあ。恥ずかしくないのかな」

「一九六一年生まれってことは、今が二〇一九年ですから、五十八歳のおじさまですわ」

「五十八のオヤジが、こんな話を書いてるのか。なんと言えばいいのか。文体も少し幼稚だぞ」

「いや、それは……」と、春日くんが口を挟む。

「あんまり、真面目に受け取らないほうがいいよ。本当かどうかわからないし。美咲凌介って……たとえば、なんとか美咲っていう女の人と、なんとかリョースケっていう男の人の共作かもしれない。出身大学だって……あれ? さっき画面で見たときは、大学名が出てなかった?」

「出てたぞ。この紙にも……ん? 消えてる。さっき印刷されたのを、たしかに見たと思ったけど、変だな。そもそも、どうして私たちのことが書かれてるんだ?」

「不思議なことばかりですわ。謎のサイトに、謎の小説……」

「謎解きなら、涼子の出番じゃないか」

「ええ、このドM探偵秋月涼子、どんな謎にも果敢に挑戦いたします。というより……」

涼子は、そこで口ごもった。いつもに似ず、なんだかひどく不安そうな顔をしている。

「どうした?」

「実は涼子、謎は解けているような気がしますの」

「じゃあ、聞かせてくれないか」

謎が解けているというのなら、どうしてこんなに心配そうなのだろう。

「それが……もし涼子の思った通りだとしたら、とっても怖いことになりそうで……」

「そうなのか? まあ、自分たちの私生活が小説になってるなんて、たしかに気味が悪いけど」

「ですから、先にお姉さまや春日先輩のお考えを、聞かせていただけないでしょうか。そして、それが涼子の考えと違っていて、しかもこの謎を解明できる答えだったとしたら、涼子、とっても安心できると思うんです」

先に口を開いたのは、春日くんだった。

「まあ、ぼくの答えも、怖いと言えば怖いんだけど……」

「聞かせてください。涼子、勇気を出してお聞きしますわ」

「君たち、ストーカーみたいな奴に、心当たりはないかな。つまりさ、こういうことだよ。誰かが……それは一人かもしれないし、複数かもしれないんだけど……とにかく誰かが、君たち二人のことをいつも見張ってるわけ。そして、何かおもしろい事件があったら、それをこの美咲凌介という作家……この作家だって、さっき言った通り、一人だとは断定できないけどね。とにかくそれはわからないけど……その作家に報告する。で、その作家が、報告をもとにこの小説を書き上げたってわけ」

「それは、考えにくいな」と、真琴さん。

「どうして? いや、もちろん、部室で二人きりになった、この場面。これはいわば密室での出来事だから、誰にも見られていないはずだって、そう思いたいのはわかる。でも、言いにくいんだが、盗聴器が一つあれば、問題はなにもなくなるよ。この小説によれば、君たちは大きな声でしゃべりながら、スパンキングをしたっていうんだから」(繰り返しますが、「どえむ探偵秋月涼子の発見」 をご参照ください。)

「バカ。よく読んでくれ」

真琴さんは、少し頬を上気させて言った。たしかに恥ずかしくないこともないシーンが書かれていたのだ。

「スパンキングなんて、やってないだろ? その寸前でやめたんだ。それに……この小説は少し大げさに書いてある。いや、かなり不正確だ」

「あら、そんなことありませんわ、お姉さま。たしかあのとき……」

「涼子、黙りなさい」

「はい」

涼子は、開きかけていた口をぴたりと閉じた。最近、だいぶ躾が身について、表向きだけは従順になってきたのである。

「じゃあ言い直すよ。君たちは大きな声でしゃべりながら、スパンキングをする寸前まで行ったわけだ。それでだね、問題はスパンキングのほうじゃなくて、大きな声で会話していたってこと。その会話さえ記録できていれば、あとは簡単だよ。ほんの少し想像力を働かせるだけで、このシーンは再現できる」

「でも、残念ながら、その説は成り立たない」

「どうして?」

「盗聴器がないってことは、確認済みだったからさ。そもそもあの部室に閂を据え付けたのは、学園祭でコスプレをするとき、邪魔が入ったり覗かれたりしないようにするためだから、そのときに、用心のため盗聴器についても調べたんだ。盗聴器発見器っていうのを使ってさ」

「いや、それなら、まさにそのとき盗聴器を仕掛けたのかもしれないよ。つまり、その盗聴器探しをやった奴自身が、ストーカーってわけさ。盗聴器を探すふりをして、反対に盗聴器を仕掛けたんだ」

「残念ながら、それもあり得ないな」

「どうして?」と、春日くんが再び問いかける。

「だって、盗聴器探しをやったのは、私と涼子だもの」

「そうなんです。だって、ほら……涼子、大学卒業後は名探偵になる予定ですし」

涼子はほんの少しもじもじした様子で、上目遣いに春日くんを見あげている。可愛い。

「現代の名探偵は、盗聴器にも詳しくなければって思って、少し勉強いたしましたの。その発見器も、とっても高性能なものですのよ」

「この私の部屋も、定期的に調べてるんだ。異状なし。だから、ストーカー説は却下だな」

「そうか」

春日くんは軽くうなずくと――

「まあ、ストーカーがいないのなら、それが何よりだ」と、分別くさい顔をして言った。

「お姉さまは、なにかお考えがあります?」

「私の考えは少し突飛だけど、あんまり怖くはないんだ。簡単に言えば、パラレルワールド説だな。涼子……パラレルワールドは、知ってるよね」

「異世界のことでしょう? ラノベなんかの……」

「少しちがうかも。私の言ってるのは、昔のSF小説なんかによく出ていたやつで、つまりこの世界の隣に、少しだけ違った世界があって、そのまた隣には、また少しだけ違った世界があって……っていう具合に、無数の世界が広がっているという話。この小説は……」

真琴さんは手に持っていた紙の束を、涼子の目の前で何度か振り回した。

「そのパラレルワールドで書かれたんだ。その世界にも私と涼子がいる。そして、このイラスト探しの事件が、その世界でも起きたんだ。それから、その世界の私と涼子には、美咲凌介っていう小説家の知り合いがいる。その作家が、パラレルワールドの私たちから事件の話を聞いて小説を書いた。そして、さっきのサイトに発表したんだ」

「でも、どうしてそのパラレルワールドの小説が、この世界の私たちのところに出現したんです?」

「この世界とパラレルワールドは、なにかの拍子につながっちゃうことがあるんだよ。ひょっとすると今は、時空が不安定になっているのかもしれない。それでインターネットを介して、あっちの世界とこっちの世界がつながっちゃったんだ。だって、そんなことがないと……SF小説にならないじゃないか」

「でも、お姉さま? 現実とSF小説は、やっぱり違うんじゃありません?」

「まあ、そうかもしれない」

涼子のもっともな反論を受け、真琴さんは言葉に詰まった。そもそも、パラレルワールドがあるなんて、自分でも本気で考えていたわけではなかったのだ。

「それに、お姉さま? そのパラレルワールド説だと、この作者さんの出身大学の名前が消えた理由が説明できませんわ。たしかに印刷されていたのに、さっき見たら消えていたでしょう? 単にこの小説が、あちらの世界からこちらの世界に迷い込んできただけだとしたら、こちらの世界に来たあとに、そんな不思議な現象が起きる理由を説明できません」

「じゃあ、涼子の考えだと、その理由も説明できるのか?」

「そうなんです」

涼子は二つの大きな目で、真琴さんを上目遣いで見あげながら、こくんと一つうなずいた。

「春日先輩とお姉さま、お二人のご意見をお聞きしましたけど、やっぱり涼子の考えが一番正しいような気がします」

「じゃあ、それを聞かせてくれ」

「ああっ。でも、恐ろしいですわ。昨日の夜、このことに気づいたとき、涼子、背筋にぞっと寒気が走って……」

「金田一耕助みたいなこと言ってないで、さっさと発表しなさい!」

真琴さんは、涼子を軽くにらみつけてやった。いくらなんでも、もったいぶりすぎると思ったのだ。

「ストーカーがいるわけでもないのに、あたしとお姉さましか知らないはずのことが、小説に書かれている。そんな不思議なことが、どうして起きるのか。でも……ある一つの仮定に立てば、それが不思議でもなんでもないっていうことに、涼子、気づいてしまったんです」

「ある一つの仮定って、どんな仮定?」

「お姉さまも、春日先輩も、驚かずに落ち着いて聞いてくださいね」

真琴さんと春日くんは、そろってうなずいた。涼子があまり真剣な表情になっているので、つられてしまった感じだ。

「つまり、私たちは、小説の中の登場人物なんです。そう考えれば、すべての謎が解けますわ。涼子とお姉さましか知らないはずのことが、小説になっている。一見、不思議なことに思えます。でも、それは、あたしたちがこの美咲凌介というおじさまの考えた小説の登場人物にすぎないとしたら、ごく当然のことじゃありませんか」

「涼子はバカだなあ」

真琴さんは、声を出して短く笑った。

「そんなこと、あるはずないだろ? 私のパラレルワールド説よりバカげてる」

「あの……お姉さま?」

そのとき涼子は真琴さんと並んでベッドに腰かけていたのだが(春日くんは、一つしかない椅子を占領している)、すっとこちらに身を寄せてきた。

「涼子のこと、バカっておっしゃるときには、ほら……頭を撫でていただきたいですわ」

「うん」

真琴さんは、片手のてのひらで髪を撫でてやりながら――

「どうしてそんなバカなこと、考えついたんだ?」

「だって、これが一番合理的な考えだからですわ。ほら、さっき……印刷されていたはずの大学名が消えたことだって、そう考えれば説明がつきますもの。あれはたぶん、なにかの事情で、作者のおじさまが話題にしたくなかったんだと思います。だから、消えてしまったんですわ。作者なら簡単なことじゃありませんか。ただ消えてしまったって書くか……もしパソコンで執筆しているのなら、そう入力すればいいだけですもの」

「話題にしたくないって、どうして?」

「それはいろいろ想像できますけど、たとえば、大学名が話題になったら、それについて、またなにか書かなくちゃいけないでしょう? でも、急に面倒くさくなったとか」

「もしそうだとしたら、いい加減な作者だなあ……いや、とにかく、そんなことはあり得ないよ」

「もちろん涼子だって、間違いであってほしいと願っています。でも、お姉さま。涼子のこの作中人物説を否定なさることができますか」

「簡単さ」

真琴さんはもう一度、涼子の髪を撫でてやった。

「今、こうして私たちが会話をしている。そのこと自体が、反証になるじゃないか。今のこの会話は、小説には書かれていなかっただろう? つまり私たちは、この小説とは無関係に、自分たちの意志で話をしているんだ」

「あら。お姉さまほどのお方が、それでは少し短絡的すぎますわ」

「生意気なこと言って。どうしてだ?」

「だって、今まさに小説が書かれつつあるのかもしれないじゃありませんか。今こうして涼子がお話をしているのだって、作者のおじさまがパソコンに打ち込んでいる文字ではないって、どうやって証明したらいいんでしょう」

「それは……いや……」

真琴さんは、なにか返事をしてやろうとしたが、うまく言葉が続かなかった。

「なんだか面倒くさいことになってきたな。ええっと……」

「ああ、その議論はね」

――と、今まで黙っていた春日くんが、いきなり口を挟んできた。

「新宮さんのほうが不利だな」

「どうして?」

「哲学的に見ると……」

「出た、哲学的! 久しぶりだな」

春日くんは、本当は大学では哲学を専攻したかったらしい。ただ、哲学科のある国立大学には合格できなかったのである。そして、この聖風学園の文学部には、哲学を学ぶコースはない。だから仕方なく国文科に入ったのだという。もっとも、春日くんは自分でも小説なんかを書く人で、いちばん好きなのはやはり文学なのだそうだ。ただ、その一番好きなことを大学の専攻にしてしまうことには、抵抗があったとのこと 。その気持ちは、真琴さんにも少しわかるような気がする。どんなに好きな作家の作品でも、それが教科書に載っていると少しだけつまらなく感じてしまう――そんなことと関係があるのかもしれない。

ともかく春日くんは、高校時代に既にかなりの数の哲学書を読んでいて、一年生のころ真琴さんと話をするときには、「哲学的に……」というのが口癖だったのだ。

「茶化すなよ……とにかく哲学的に考えると、自分の存在が仮想世界のものなのか――つまり小説の登場人物でも、AIの仮想現実内の人物でも、まあ、どれでも同じことなんだけれどね――そうした仮想世界の存在なのか、それとも現実の存在なのか、いったいどっちなんだろう、その違いはどこにあるんだろうって、考えていくとだね、自分は仮想世界の住人ではなく現実の存在なんだって立証するのは、すごく難しいことなんだよ」

「現実の存在。それですわ!」

涼子が突然、大きな声をあげた。

「それって?」と、真琴さん。

「涼子が恐ろしいって思っているのは、まさにそのことなんです。自分が単なる架空の存在で、現実の存在ではなかったとしたら……これって、とっても恐ろしいことですわ。つまり、この涼子が本当は存在しないのだとしたら……」

「ああ、それはね」と、再び春日くん。

「そんなに心配することはないのかも。たとえぼくたちが仮想世界の住人だとしても、それでぼくたちが本当は存在していないってことにはならないんだ」

「そうなんですの?」

涼子は、さっきよりもまた少し、真琴さんのほうにすり寄ってきた。

「だとしたら、涼子、とっても安心できるんですけれど。春日先輩、その理由を、教えていただけます?」

「秋月さんは、コギト・エルゴ・スムって、知ってる?」

「聞いたことがないような気がします。英語ではありませんわねえ」

「ラテン語だよ。日本語に訳すと、我思う、故に我あり」

「あっ。デカルトですね。それとも、カントでしたかしら。涼子、デカルトとカントが、いつもごっちゃになってしまって……」

「デカルトだよ。じゃあ、その意味は知ってる?」

「人間だったら、考えなくっちゃいけないっていうことじゃありません? 思考するからこそ、人間として価値があるっていうような……」

真琴さんはさっきからニヤニヤしながら聞いていたのだが、ここで思わず「ハハ……」と短い笑い声をあげてしまった。

「あら、お姉さま。涼子、またなにかバカなこと言ってしまったんでしょうか」

「ううん。涼子が私と同じように引っかかったから、おかしかっただけ。ねえ、涼子。気にしなくていいんだよ。春日くんは、この話が好きなんだから。みんなに、知ってるかって聞いて回って、みんなが知ったかぶりをするのを笑うのがね」

「涼子、お姉さまと同じ間違いをしたんだったら、間違いでもちっともかまいませんわ」

今度は、春日くんが短い笑い声をあげた。

「我思う、故に我あり。すごく有名な言葉だけど、その意味をちゃんと説明できる人って、けっこう少ないんだ。もちろん今の秋月さんの答えも、全然的外れっていうわけでしゃないんだが」

「それで、どういう意味なんですの?」

「まあ、うろ覚えで話をするから、少し不正確かもしれない……デカルトはね、あるときこう考えたんだ。本当に確実な知識っていうものがあるだろうか、私は確実な知識を持っていると言えるだろうかってね。それで、かなり極端な考え方をしたんだな。つまり、自分はいろいろなことを知っていると思っているけれど、それは悪魔がそんなふうに自分をだましているだけかもしれない。あるいは、自分は夢を見ていて、夢の中で自分には知識があると思い込んでいるだけかもしれない……そんなふうに考えていくと、これは確実に正しいと言えるものがほとんどないっていうことに気づいたわけ。たとえばさ、ここに机があるのはたしかだって思ったとしても、それは悪魔が幻を見せているだけかもしれない、あるいは夢の中でそう思い込んでいるだけかもしれないっていう具合にね。疑ってみると、確実な知識といえるものはほとんどなにもない。こんなふうに、確実な知識を求めて疑うことを、方法的懐疑といって……」

「哲学者って、ずいぶん変なことを考えますのねえ」

「でも、ほら……さっき秋月さんが言っていた、ぼくらが小説の登場人物かもしれない、架空の存在かもしれないって話。それに似てると思わないか」

「言われてみたらそうですわ。それで、どうなったんです?」

「そうやって、疑って疑って、疑いぬいて、それでも確実に正しいといえることが一つだけ残っている。そのことにデカルトは気づいたわけ」

「それは?」

「それはね……私は確実な知識を持っているだろうかと疑っている以上、その疑っている私が存在している、このことだけは疑いようがないってこと。つまり、この私が存在しているということだけは、絶対的に正しいってことになる。これが、我思う、故に我ありっていう言葉の、本来の意味なんだ」

「たしかにそうですわ!」

涼子は、うんうんと何度もうなずいた。

「ということはさ、秋月さんが、私は小説の中の架空の登場人物じゃないかって疑っているとして、その疑っている限りにおいて、秋月さんが存在していることは、なによりも確実だ、いかなる現実――と思われることよりも――確実だっていうことになる」

「なんだか少しだけ、安心いたしましたわ」

「それはよかった。ただし哲学っていうのは、どんな説でもこれは間違いなく正しいってことはなくてね、このデカルトの説にも反論があって……」

「ああっ、春日先輩! そこでおやめになって」

涼子は胸の前で、小さな両手を組んで見せた。この涼子のお願いポーズに抵抗できる者は、ほとんどいない。春日くんも苦笑して口を閉じた。

「反論なんてうかがったら、涼子、また心配になってしまいます」

「君たちも、少しは哲学の本を読むといいよ」

そんな偉そうな一言を残して、春日くんが帰っていったあとのこと。

真琴さんと涼子は、やっぱりベッドの上に並んで腰かけている。

「お姉さま? 涼子、今夜、このお部屋にお泊りしてもかまいませんか?」

「いいけど……例の電話、大丈夫なのか」

大資産家の箱入り娘だけあって、大学生になっても涼子は原則として外泊が禁じられている。大学の近くのマンションで一人暮らしをしているのだが、毎晩十二時にその部屋に家の人(家族ではなく使用人)から、在宅していることを確認するための電話がかかってくるのだ。

「実は、今夜は女性の先輩のお部屋に泊まるかもしれないって、実家にはあらかじめ連絡しておきましたの。あとでもう一度電話を入れれば、大丈夫ですわ。でも、お姉さまのお勉強の邪魔になるようでしたら……」

「そうだなあ。なんだか今夜は、やる気がなくなっちゃった。一日くらい休んでも、なんとかなると思う。だから、泊まっていってもいいよ」

「ありがとうございます。ところで、お姉さま?」

「ん?」

「お姉さま、今、なにか考えていらっしゃいます?」

「バカにするな。私の頭は、いつもちゃんと機能しているぞ」

「だとしたら、安心です。実を言うと涼子、自分の存在よりも、お姉さまの存在のことが心配だったんです。お姉さまの存在が架空のものだなんて、そんなことあってはいけないことですもの。でも、コギト・エルゴ・スム。我思う、故に我あり。お姉さまがちゃんと存在しているってこと、今は涼子にも確信が持てますわ。春日先輩、とってもいいことを教えてくださいましたわ」

それは少し違うのではないか、たとえコギト・エルゴ・スムが正しいとしたところで、真琴さんの存在が確信できるのは真琴さん自身にとってだけであり、涼子の存在が確信できるのは涼子自身だけなのではないか。

そんなことを思ったが、黙っていることにした。

「涼子。私がなにを考えているのか、わかる?」

「なんですの?」

真琴さんは片手を伸ばし、人差し指で涼子の頬を軽くつついてやった。

「涼子のほっぺたは、どうしてこんなにプニプニしているのかな。どうしてこんなに白くて、やわらかいのかな。どうしてこんなに可愛いのかな」

「お姉さま?」

真琴さんは、涼子の頬にキスをしてやった。それから、少しばかり荒々しく涼子の身体を抱きすくめた。

「デカルトなんか持ち出さなくても、こうしたほうが……ね?」

涼子も、自分からぴたりと身体を寄せてきた。

だが、真琴さんは不安だった。なんだか世界の輪郭がぼやけてきている。そんな気がした。実際のところ、例の小説の謎は少しも解けていないではないか。もっとも、それは問題の本質ではない。単なるきっかけ。

世界は、思っている以上に華奢にできているのかもしれない。存在は確実ではない。存在は危うい。

存在ってなんだ?

真琴さんは、涼子の頬にもう一度キスをした。

◆おまけ 一言後書き◆
今回はなんだか変な話になってしまって、すみません。次回以降は、さて、どうしましょうか。思案中です。

2021年7月18日

美咲凌介(みさきりょうすけ)

1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。

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初出:P+D MAGAZINE(2021/07/22)

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