【SM小説】美咲凌介の連載掌編「どことなくSM劇場」第35話 青いUSBメモリの事件――どえむ探偵秋月涼子の予行演習

人気SM作家・美咲凌介による、書き下ろし掌編小説・第35回目は「青いUSBメモリの事件」。今回は「どえむ探偵涼子」とSのお姉さま・真琴さんが知り合ったばかりのころのお話。同じ国文科の仲間と二泊三日の旅行に来ていた真琴さんだったが、尾行されていることに気がつき……?

◆一言前書き◆
今回は時をかなり遡って、真琴さんと涼子が知り合ったばかりのころのお話にしました。この時期の涼子は、まだあまりSM、SMと連呼してはいません。

「はい、できたよ」

真琴さんが声をかけると、立花さんは「ありがとう」と、あまりありがたそうでもない様子で、そう答えた。

「このUSBメモリに保存すればいいんだね」

「ええ。あなたのパソコンには保存しないでおいてね」

「どうして」

「だって、自分のレポートが他人のパソコンの中にあるなんて、気持ち悪いじゃないの」

「勝手なことを言うなあ。でも、まあ、ご希望ならそうしてあげる。ほら、自分で確認してよ。ところで、中身は読まないでいいの?」

「大丈夫。信頼してるから」

立花さんは、立ち上がった真琴さんの代わりに椅子に腰かけると、ノートパソコンのドキュメントを確認し、次いでUSBメモリを取り外そうとした。

「ちょっと待って。私にも読ませてくれない? 参考にしたいから。メモとってもいいかな」

そう言って、立花さんを押しのけるように椅子に腰かけたのは、鬼塚さん。さっきからベッドの上で色とりどりの付箋の付いた文庫本をパラパラとめくっていたのだが、ここにきて急に興味を覚えたらしい。

新宮真琴さんは、聖風文化大学文学部の二年生。同じ国文科の仲間たちと、海水浴を兼ねた二泊三日の小旅行としゃれこんでいるところである。本日は、その二日目。時刻は午前十一時を回ったあたり。出かける前に、立花さんと鬼塚さんの泊まっているツインルームにやってきて、立花さんのレポートの文章を添削してあげたところ。

旅行にやってきたのは、真琴さんに立花さん、鬼塚さんの女子三人、そして春日くん、鳥飼くんの男子二人の計五人。この五人組を国文科の仲間と称するのは間違いではないが、やや説明不足かもしれない。正しくは国文科のよそ者五人組――「国文科よそ者連合」とでも言うべきか。

真琴さんたちの通う聖風文化大学は、私立の小さな大学で、付属の中高一貫校からエスカレーター式に大学まで上がってきた学生が多い。中には幼稚園時代からずっと聖風学園に通ってきたという生粋の「聖風っ子」までいる。それに対して、高校までは別のところにいて大学からこの学園に入ってきた学生は、陰で「よそ者」と呼ばれているらしい。今、このホテルに滞在しているのは、国文科の「よそ者」五人組なのである。

「聖風っ子」と呼ばれる学生たちは、概して言葉遣いが丁寧である。幼いころからそうしつけられているのだ。女子学生などは、「ですのね、ですのよ」などといった言い方を平気でする。それに比べると、真琴さんたち「よそ者」の言葉遣いは荒い。というより、むしろ意図的に乱暴な口調を使うようになった節もある。そうすることが一種の防衛手段になったのである。

ただし、そうしたことはかなり以前までのことで、今では「いつもこの五人で固まっている」というわけではない。一年生の最初のうちこそ一緒に行動することが多かったが、そのうちそれぞれ「聖風っ子」の友人もでき、二年生になってからは以前ほどの親密さは見られなくなった。五人それぞれ「よそ者連合」とは別に自分の居場所を見出した、というところか。真琴さんの場合は、ミステリー研究会というサークルに腰を落ち着けて、最近ではそちらでの交友関係のほうが濃密になってきている。

だからこの小旅行は、五人が大学の外で一堂に会するものとしては、けっこう久しぶりの機会だったのである。

さて、そんな小旅行中に、どうして真琴さんが立花さんのレポートを添削してあげるはめになったか。それには、次のような事情がある。

このホテルを予約するとき、シングルルームを五つとる予定だった。ところがホテルがなかなかの盛況で空きがなく、ツインルーム二つとシングルルーム一つしかとれなかったのである。春日くん、鳥飼くんの男子二人組がツインルームを使うことはすぐに決まったものの、女子のほうでは、少し悶着が起きた。真琴さんと立花さんがどちらもシングルルームを希望して、なかなか折り合いがつかなかったのだ。鬼塚さんは最初から、どちらでもいいというスタンスだった。

かなり長時間の話し合いの結果、レポートの添削をしてあげるという条件で、真琴さんがシングルルームに泊まることになった。学費全額免除の特待生だけあって、真琴さんの優秀さは、その美貌と共に周囲の認めるところ――であると、真琴さん本人は、勝手にそう思っている。それに、こんなふうに勉強関係で他人に頼りにされることを、真琴さん自身が好んでいるという面もある。そんなわけで、真琴さんは今朝、朝食をとるとすぐに自分のノートパソコンを持ってこのツインルームに現れ、レポート添削に励んでいたのだった。

レポートというのは、哲学――国文科の学生でも、哲学は教養課程の必須科目となっている――の夏休みの課題で、「前期の講義で取り扱った哲学者のうち一人を選び、その哲学史上の意義を論ぜよ」というものだった。教授の話では、このレポートの出来は前・後期の試験結果とともに、年間通じての成績に大きく影響するのだという。

聖風学園文化大学はちょっと変わった大学で、「夏休みの間も遊ばせはしないぞ」とでもいうような、なんだか「進学に力を入れている中堅私立高校」のようなところがある。いろんな科目で「夏休みの課題」が出されるのだ。大学自体がごく小規模で、それだけに面倒見がよいということかもしれないが、どこか過干渉な母親じみたところがある。

それにしても、立花さんのレポートはひどかった。調べたこと、考えたことがばらばらと脈絡もなく並んでいるだけで、同じような文――どうやらそれが結論として言いたいことのようだが――が、何度も繰り返し出てくる。おまけに、全体が常体(だ・である調)で書いてあるのに、ところどころ唐突に敬体(です・ます調)の段落が混じったりもする。ひょっとすると、ネット上のあちこちのサイトからコピペした文が混じっているのかもしれない。だから、それなりに読める文章にまで直すのには、真琴さんもなかなか苦労したのである。

なんだか手持ち無沙汰になったので、真琴さんは部屋の中にいる友人たちの顔を観察した。人の顔を見るのが好きなのだ。たいていの顔には、どこかよいところを見つけてやることができる。

鬼塚さんは、部屋の奥にある小さな机に取りついて、立花さんのレポートを読んでいる。怖そうな苗字とは裏腹に、おかしみのある顔だ。度の強い丸メガネが、その印象をさらに強めている。美人とは言い難い。なんだか顔の縦よりも横のほうが長いような――もちろんそんなことはあり得ないが――印象を受けるが、妙な魅力がある。笑うとクシャっとする感じが愛嬌たっぷり。けっこう辛辣な口を利くこともあるのだが、それでいてあまり憎まれないのは、そのせいにちがいない。

くるりと振り向くと――真琴さんは奥のベッドに腰かけている――手前のベッドには、二人の男子と立花さんが並んで腰かけて、話をしている。

立花さんは、鬼塚さんよりはずいぶん整った顔立ちだ。まあ、私ほどではないにしろ――と、自己の美貌にかなり強い自負心を抱く真琴さんは思うのだが――なかなかの美人と言えるだろう。わずかに吊り上がった両目と薄い唇が、繊細な感じでとてもよい。人柄にも、つまらないことを変に気にする繊細すぎるところがある。もっとも人の性格というのは一口に括れないもので、そんな繊細さがありながら、あのひどい文章を他人に見せて平然としていられるという、恐ろしい図太さも兼ね備えているのが、不思議といえば不思議なところ。

春日くんは、色の浅黒い気の強そうな顔をしている。目が大きく、唇は分厚い。その分厚い唇がだらしなく弛んでいると、きっと嫌な感じがするのだろうが、たいていの場合はぎゅっと引き絞られているので、あまり気にはならない。この四人の中で、真琴さんといちばん仲がよいのは、この春日くんである。小説なんぞを書いていて、なかなか見どころがあると思うのだ。というより、国文科の学生らしい話ができるのは、この春日くんくらいのものである。真琴さんの目から見ると、聖風学園文化大学文学部のレベルは決して高いとは言えない。

鳥飼くんの顔は、四角い。ただただ四角い。両目は細く、笑うと両の目尻に深い横皺が寄るのだが、その横皺が優しくて好ましい。実際、鳥飼くんは鋭さというものは皆目持ち合わせていないが、おっとりとした優しさはふんだんに持っているようである。

――と、そんな勝手なことを思っているうちに、真琴さんの脳裏にぽっかりと可愛らしい顔が一つ、鮮明に浮かんできた。ミステリー研究会(ミス研)の後輩、秋月涼子の顔である。同時に、昨日から気にかかっていることも――

確かめなければ。でも、どうやったら確かめられるのだろう。

「新宮さんが修正したところは、赤字になっているわけね。文章の構成にかかわる変更には、いちいちコメントが付けてある。親切だね。ねえ、立花さん?」

鬼塚さんはパソコンから目を離すと、くるりと首を回してこちらを見た。

「これ、新宮さんに、もっとちゃんとお礼をしたほうがいいんじゃない? ここまでしてくれる人、なかなかいないよ」

「だから、シングルルームを譲ってあげたじゃない」

「それだけじゃ足りないと思うけど」

「そう? ずうずうしいと思われるのもいやだから、じゃあ、ちゃんとお礼をしたっていいわ。どうしたらいいの? やっぱりお金?」

「いや、けっこう」

真琴さんは、即座にそう答えた。「お金?」と言った立花さんの声の響きが、なんだか気にくわなかったのだ。

「よそ者五人組」という括りで言えば、真琴さんはこの四人の同類だ。しかし、別の視点から見ると、真琴さんだけが他の四人組からはじき出されてしまうのかもしれない。実家の経済的レベルが異なるのである。ありていに言うと、他の四人はお金持ちの子だが、真琴さんだけはそうではないのだ。聖風学園の学費は高い。特待生にならなければ、真琴さんは決してこの大学には通えなかっただろう。だから、「お金?」などという言葉を聞くと、敏感に反応してしまうのである。もっとも、それは真琴さんが気にしすぎているだけなのかもしれないが。

「じゃあ、お礼に、なにかしてほしいことある?」

「そうだなあ」

真琴さんは少し考えこんで――

「二度と私の格好にケチをつけないでほしいな」

「ああ、あれね」

昨日、待ち合わせ場所に集まったとき、ちょっとした服装談議が持ち上がった。真琴さんは白いTシャツにブルージーンズ、片手に大きな(しかも汚い)布バッグという格好で出かけてきたのだが、その姿を見た立花さんがぽつりと「なんだか一緒に歩くのが恥ずかしい」とのたまったのである。見ると、立花さんはなんだか袖のふわふわした、妙に透けたブラウスを着ているし、鬼塚さんはヒラヒラしたワンピースをお召しになっている。二人とも手に提げているのはブランドもののバッグらしい。男子二人も、なかなかこじゃれた服を着ている。たしかに真琴さんだけが、妙にラフな格好ではあったのだ。特に布バックが顰蹙を買っているようだった。立花さんに言わせると、「あまりにみっともない」のだそうである。

立花さんは、少しのあいだ気まずそうな顔をしていたが、やがて妙にきっぱりした口調で言った。

「そのご希望には沿いかねるわね。レポートの件については感謝してるけど、言いたいことも言えなくなるなんて、納得いかない」

「じゃあ、けっこう。別に私も、無理に人の口を封じたいわけじゃないしね」

「まあまあ」

鳥飼くんが、曖昧な笑顔を浮かべ――だから両目の目尻に例の皺を寄せて――仲裁に入った。

「喧嘩はやめてさ、そろそろ出かけようよ」

といっても、別にそれほど険悪になっていたわけでもないのだ。一年生のころから、真琴さんと立花さんとのあいだでは、何度か繰り返されたファッション論争なのである。

「鬼塚さん。パソコンとって」と、真琴さん。

「USBメモリは外してね。それは立花さんのだから」

自分のレポートを添削してもらうというのに、立花さんはUSBメモリ一つ持ってきただけ。テーブルの上のパソコンは、真琴さんの持参したものだった。(そのためにも、大きな布バッグが必要だったのだ。)

「はい」と真琴さんにパソコンを手渡すと、鬼塚さんは今度は立花さんに声をかけた。片手に青いUSBメモリを持って、ひらひらと振って見せている。

「USBメモリ、ここに置くよ。このテーブルの上」

立花さんはそこにちらりと視線を走らせると、「うん」と答えた。

「ちゃんと見た? あっ、そうだ。私のメガネも、ここに置いておこうっと。どうせ泳ぐんだし。新宮さんは、本当に泳がないの?」

「昨日泳いだから、今日はもういいや。それより、あの古本屋を見てみたいから」

「新宮さんは、本当に本が好きだよね。さすが国文科」

そう言いながら鬼塚さんはメガネを外し、テーブルの上、青いUSBメモリの隣にそれを置いた。そして、例の付箋だらけの本をバッグに押し込んだ。

「鬼塚さんだって、その本、さっきからずっと読んでたじゃない」

「これ? 課題だから読んでるだけ。レポート、参考になったよ。ありがとう」

ぞろぞろと四人が部屋から出て行く。真琴さんは、バッグにうまくノートパソコンを押し込むのに手間取って、少し遅れてしまった。鬼塚さんが、ドアのところに立って、真琴さんに声をかけた。

「あっ。そうだ、新宮さん。エアコン、タイマーにしてくれない?」

「みんなは、何時ごろ帰ってくる予定?」

「そうねえ……。立花さん、どう?」

「浜で少し泳いで、お昼ご飯もそこで食べて……それからまた泳いで……できたらスイカ割りもしたいな。ねえ、たしかスイカ売ってたよね、スイカ……」

立花さんは、男子二人に相談しているらしい。

「で、何時?」

「たぶん、四時くらい? かな?」と立花さん。

「今は十一時二十分か」

真琴さんは時計を見て――

「じゃあ、四時間後にまたスイッチが入るようにしておくよ」

操作を終えたリモコンをベッドの枕元に置くと、真琴さんもようやく立ち上がった。例の汚い布バッグを勢いよく肩にかける。

「私は、いったん部屋に戻ってパソコンを置いてくるから。それから、古本屋を見てくるよ。それに、あの神社も見てみたいな。じゃ、また、あとでね」

県道に出るまで、海水浴場から歩いて五分ほど。バス停に立つと、海側から見て右手に寺と花屋があり、左手にかなり大きな古本屋、その先にはファミレスらしきものがあった。国道を挟んだ向こう側には、赤い鳥居が並ぶ参道が真っ直ぐに伸びている。その先に見える小高い丘のようなところに神社があるらしい。

昨日、春日くんのクルマに乗ってホテルまで来るときに見つけたこうした風景が、真琴さんの心に不思議と強い印象を残したのである。特に古本屋は、最近よく見かけるチェーン店ではなく、もう何十年とそこで商売を続けてきたように見える古めかしい建物だったので、いよいよ心惹かれるものがあった。

真琴さんは暑さに強く、あまり汗をかかない。暑い盛りに外を出歩くことに、それほど抵抗は感じない。

海水浴は、昨日だけでもうたくさん。それよりも見知らぬ町を一人であちこち歩いてみることのほうが、真琴さんにとって魅力的に感じられたのだ。

もっとも、みんなとの海水浴を断って一人で国道沿いまで出てきたのには、もう一つ理由がある。昨日から尾行されているような気がするのだ。海水浴場だと人が多くてはっきりしなかった。しかし、こうして人通りの少ない鄙びた町中にまで出てくれば、うまくいくと確かめられるかもしれない。

危険ではないか――いや、危険ではない。たぶん――というのも、尾行されているとして、その尾行している本人はわかっているのである。どうも昨日から真琴さんの周囲をうろちょろしているのは、ミス研の後輩、秋月涼子という美少女らしいのだ。

昨日、海水浴場では、五度ほど涼子の姿を見かけた。もともと人の顔を観察するのが好きなうえに、美少女には敏感なので、自然と目がそちらに吸い寄せられてしまったのだ。はじめは他人の空似かな? と思っていた。しかし、秋月涼子ほど真琴さん好みの美少女は、そうはいない。色の白い丸顔。大きな二つの目。目尻がほんの少しだけ落ちているところが、表情に濃い甘さをもたらしている。高くはないが、すっきりと形のよい鼻。ふんわりとした柔らかそうな唇。その唇の感触を、真琴さんは既に一度、味わっている。

そうなのだ。涼子とはつい二週間ほど前、裸で抱き合って楽しいことをしながら一夜を共にした仲なのである。もともと真琴さんは、自分がバイセクシャルだという自覚があったので、そんなことになってもあまり驚かなかった。だが、涼子のほうはもっと徹底しているようだった。二人が出会ったのは運命にちがいない――と、そんな突拍子もないことを言いだしたのである。それだけではない。

「ね? 先輩? 涼子、これから新宮先輩のこと、お姉さまってお呼びしますわ」

「お姉さまって、ミス研の女王って呼ばれていらっしゃるんでしょう? お姉さまにぴったりの呼び名ですわ。涼子、見ての通りのドMなんです。だから、美しいSのお姉さまを、ずっと探していたんですの」

そんな涼子の言葉には、すっかり驚かされた真琴さんだが、二、三日するうちにもっと驚かされることになってしまった。秋月涼子の家がこの地方きっての大資産家であることを知らされたからである。もともとミス研には、聖風学園を経営している一族の娘である加賀美蘭子さんという先輩がいた。秋月家はその加賀美家に匹敵する大金持ちで、この両家は県下の二大富豪としてしのぎを削っているというのだった。

古本屋に入るかどうか迷ったふりをしながら、そっと左右を見回してみた。やはり来ている。

二十メートルほど離れたところに、大きな赤い外車が停まっている。その後部座席から小柄な少女が一人降り立った。涼子だった。昨日は水着で現れたり、ブラウスにズボンといった姿を見せたりしていたが、今日はグリーン系のワンピースに白い日傘をさしている。続いて、スーツ姿の背の高い女性が降りてきた。付き添いだろうか。他に運転役もいるはずだから、少なくとも三人がかりで追ってきたことになる。

どういうこと?

目的がわからない。真琴さんがこの小旅行に出かけることは、涼子にちゃんと話してある。別になにも秘密にしているわけではないし、涼子との約束を振り切って出かけてきたというわけでもない。旅行から帰ったら、ちゃんと二人で会う約束もしているのだ。いったいなにを狙って真琴さんをつけて回るのか、意味がわからない。

「涼子、大学を卒業したら探偵になりたいんです。ミス研に入ったのは、その修業の一環ですわ」

たしか、そんなことを言っていたのを思い出す。バカなのか? バカなのだろう。だが、そんなところが、とても可愛い。

ひょっとすると、涼子は真琴さんを相手に、尾行の練習でもしているつもりなのかもしれない。だとしたら、もう少し気づいていないふりをしていたほうがいいのだろうか。

だが、すぐに別の考えも浮かんでくる。涼子は真琴さんに見つけられるのを、待っているのではないか。このまま知らないふりをしていたら、「どうして気づいてくださらなかったんです?」となじられることになるのかも。

少し迷った末、真琴さんは一つの実験をしてみることにした。こちらが気づいた様子を見せて、相手がどう反応するか、その結果を確かめてみようと思ったのだ。しっかりと涼子のほうを見つめ、二、三歩クルマのほうに歩き出してみる。すると、涼子は日傘で自分の姿を隠すようにしながら、クルマの中にするりと滑り入ってしまった。

ということは、どうやらまだ見つかりたくはないらしい。

古本屋では、いい本を見つけた。中村光夫という人の書いた『風俗小説論』である。日本の近代文学に関する評論を読んでいるとしばしば目にする書名で、いつか読んでみようと思いながら、これまで手に取る機会がなかった。昔々は、あちこちの文庫から出ていたが、今ではほとんどが絶版になっているようだ。その新潮文庫版が二百円で売られていたので、迷わず買い求めたというわけである。

次に県道を渡って、いくつかの鳥居をくぐりながら、小高い丘を登って神社の境内に入った。形ばかりの参拝を済ませ、ベンチに腰掛けて休んでいると、三十歳ほどの女性が一人、境内に入ってきた。場違いなスーツ姿だ。ということは、さっき涼子の側にいた、あの女性だろう。真琴さんはベンチから立ち上がり、階段を見下ろせる柵の近くまで行ってみた。登り口にある鳥居の側に、涼子らしい少女が、もう一人別の女性と並んで立っていた。

その後、ファミレスで食事をしたときにも、駐車場に例の赤い外車が停まっていた。

さて、いつ、どんなタイミングで「見つけたぞ!」と言ってやれば、涼子を喜ばせることができるのか――あるいはがっかりさせずに済むのか、これは真琴さんにとって、なかなかの難題になってきた。

春日くんから電話がかかってきたのは、午後四時二十分くらいのことだった。真琴さんはそのとき自分の部屋に戻って、買ってきたばかりの『風俗小説論』を読んでいた。

「ちょっと困ったことになってね。立花さんたちの部屋まで、来てくれないか」

「どうした?」

「来てくれたらわかるよ」

行ってみると、真琴さん以外の四人、つまり立花さん、鬼塚さん、春日くん、鳥飼くんが勢ぞろいしていた。「どうしたの?」ときくと、例のUSBメモリがなくなったのだという。

「でも、部屋を出るとき、机の上にあるのを確認してただろ?」

「たしかに、私が確認したわ」と、立花さんが答える。

「なくなったって気づいたのは、いつ?」

「私と鬼塚さんの二人で、この部屋に戻ってきて、すぐよ。鬼塚さんからメガネをとるように頼まれて……ほら、おぼえてるでしょう? 鬼塚さんがあの机の上にメガネを置いて出たでしょう? そのメガネをとってあげたとき、隣にあるはずのUSBメモリが、なくなってることに気づいたの」

「そのとき、私も見てたわ。言われてみたら、たしかにこの部屋に入ってきたとき、もうUSBメモリは、机の上にはなかった」

そう断言したのは鬼塚さんである。

「そのあたりに落ちてない? 椅子の下とか」

「探したわ。なかった」

「掃除をする人が、間違えて持って行ったんじゃないかな? ほら、私たちが出ているあいだ、ホテルの人が掃除をしに入るだろう? 私が二時半くらいに部屋に戻ったとき、ちょうど掃除をしてる人がいたよ。だから、何分か待たされたんだ」

すると春日くんが――

「それはもうフロントに聞いてみた。この机の上のものは、全部元に戻したって」

「そのときUSBメモリがあったかどうかは?」

「それは記憶にないってさ。でも、紙クズなんかは別にして、とにかく机の上にあるものを持って出たり捨てたりすることは、絶対にないってさ」

「なるほど」

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「それでね、言いにくいんだけど」

立花さんが、なんだか妙にこわばった顔つきで言った。

「新宮さんがなにか知ってるんじゃないかと思って、来てもらったの」

「知ってるって、なにを?」

「だから、あのUSBメモリの行方よ」

「まったく知らない。そもそも、なんで私が知ってるって思うんだ?」

「だって、ほら……新宮さん、あのとき私がちゃんとお礼を言わないって、少し怒ってたじゃない? だから意地悪して隠したんじゃないかって……でも、私は別に感謝してないわけじゃなかったのよ。もしお金でお礼がほしかったのなら、妥当な金額だったらちゃんと払うつもりだったし」

立花さんは、そこでいったん口を閉じた。しかし、それはほんの一瞬のことで、すぐにさっきよりも早口で話し始めた。

「それに、ひょっとしたら私が新宮さんの格好……あの汚い袋ね……あれについてなにか言ったのが気にくわないのかもしれないけど、あれだって別に悪意があってのことじゃないのよ。一緒に歩きたくないっていうのは、私の正直な気持ちで、正直に意見を言い合うのは、私、ちっとも悪いことだとは思わない。だいたい新宮さんは美人なんだから、それに見合った格好をしたほうがいいのよ。とにかく、私のことが気に入らないからって、USBメモリを隠したりしなくてもいいじゃないの」

「ちょっと待て」

真琴さんは片手を上げて、立花さんの口から出る言葉の奔流を押しとどめた。

「今の発言には、ものすごくたくさんの問題があるぞ。まず第一に、立花さんにお礼をちゃんと言えって主張したのは、私じゃなくて鬼塚さんだ。それから、私はお金は要らないって、はっきり言った。その言葉を信じてくれなくちゃ困るよ。その次。私は別に、一緒に歩きたくないって言われても気にしていない。立花さんが嫌だって言っても、どうせ明日も一緒に歩くんだし、そんな言い合いは去年から何度もやってる恒例行事じゃないか」

「じゃあ、どうしてあれを隠したりするの?」

立花さんは泣き出しそうな声をあげた。どうやらかなり興奮しているらしい。

「最大の問題は、それだ」

真琴さんはそう言うと、立花さん以外の三人の顔をぐるっと見回した。どうして立花さんがこんなになるまで放っておいたのかがわからない。それとも、誰かが煽ったのか。

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鳥飼くんは、いかにも「困った」という顔をしている。今にも「まあまあ」と言い出しそうだ。丸メガネの向こうの鬼塚さんの目は、少し笑っているようにも見える。ちょっと怪しい。春日くんは分厚い唇を例のごとくギュッと引き締めて、苦虫を嚙み潰したような表情だ。

「そもそも、どうして私が隠したという話になったんだ? だいたいあれに入ってたのは、私が添削してあげたレポートだろ? なくなったら、私の労力が無駄になるだけじゃないか。つまり動機がない」

「でも、アリバイがないのは、新宮さんだけだもの」

「アリバイ? どういうこと?」

「ああ、それはね」と、春日くんが引き締めていた唇を開いた。

「ぼくたち四人は、ずっと一緒にいたからさ。海水浴に、昼飯、また海岸に戻ってスイカ割り。そのあいだずっと一緒にいたから、誰もこの部屋に戻ることはできなかった。でも、そのあいだ、君は一人だっただろう? だから、もしこの部屋まで戻ってきてUSBメモリを隠すことができるとしたら、君しかいないって……まあ、それはぼくが言い出したことなんだけどね。冗談のつもりだったんだ」

「悪趣味な冗談だな。でも、鍵がかかっていたんだろう? それもカードキーで……そのカードは、誰が持ってたの?」

「私のバッグの中に入ってたわ」

今度は、鬼塚さんが返事をした。

「私、ほとんど泳がなかったから、ずっと荷物番をしてたようなものよ。だから、鍵はずっと私のバッグの中にあったと思うの。ただ、確信は持てないなあ。少しは泳いだし……スイカ割りのときは、みんなそっちを見ていて、荷物にはあまり注意してなかったでしょう? だから、もしも新宮さんがこっそり私たちを見張っていて、こっそり鍵を盗み出そうとすれば、不可能じゃなかったかもって……まあ、私も冗談のつもりで言っただけだけど」

やっぱり春日くんと鬼塚さんが煽ったらしい。そうする意図はなかったとしても、結果として煽ることになったというのは事実だ。

「また、そんな無責任なこと言って。とにかく私は、そんなことはしていない」

「でも、それは新宮さん本人がそう言っているだけでしょ? それに……」

立花さんは、まだ疑わしそうな視線でこちらを見ている。

「それに……なに?」

「それに鍵がなくても、新宮さんならドアを開けることができたかも……だって、鳥飼くんが言ったんだけど、新宮さん、ミス研だからトリックとかいっぱい知ってるでしょ?」

鳥飼くん、お前もか! 真琴さんはぐっと鳥飼くんの顔をにらみつけると、再び立花さんのほうに向きなおって――

「バカなこと言わないでくれる? ミス研っていうのは、あくまでミステリーを研究するだけで、実際の犯罪とは関係ないんだから……」

「バカ? 私、前から知ってたわ! 新宮さんが私のこと、バカだと思ってるって、ちゃんと知ってたんだから!」

「ああ、もう、手がつけられないなあ」と、真琴さんは大きなため息をついた。

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しばらくのあいだ、誰も口を利かなかった。部屋の中はしんと静まり返って、聞こえるのはエアコンの送風口から吹き出る空気の音だけだ。そう言えば、少し部屋が冷えすぎているようだ、と真琴さんは思った。暑さに強い分、真琴さんはエアコンの風には弱い。さっき歩いていた炎天下の熱気が、むしろ懐かしく思い出された。そして涼子の姿――と、ふいに口から「あっ」と声が出た。

「どうしたの?」と、立花さん。

「つまり、私が疑われているのは、アリバイがないからっていうのが、決定的な理由だよね。もし、みんなで一緒にこの部屋を出てから今まで、私がいつどこでなにをしていたか、全部証言してくれる人がいたら、立花さんの疑念もすっかり晴れるわけだよね」

「まあ、それはそうだけど」

「ひょっとしたら、証言してくれる人がいるかもしれない」

「誰が?」

「実は私、昨日からずっと尾行されてるみたいなんだ。その尾行している人に聞けば、私がこの部屋に一歩も入らなかったことを証言してくれるかも」

「尾行って、ストーカーかなにか?」

立花さんは、ますます疑わし気な表情になった。

「そんな人のこと、信用できるはずないじゃない」

「いや、良家のお嬢様だよ」と言いながら、真琴さんは例の布バッグの中からスマホを取り出した。

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「秋月さん? 実は頼みごとがあるんだけど……」

「そんな、お姉さま。ね、お姉さまって呼んで、よろしいですわね。そして、秋月さんなんて、そんな他人行儀な呼び方なさらないで。涼子って、呼び捨てにしてくださいます? それも、あの夜みたいに、冷たいさげすんだ口調で……そうしたら、涼子、とっても幸せを感じますわ。ますますお姉さまの魅力の虜になってしまいます」

「そんな口調で呼んだことはないと思うけど……でも、まあ、いいや。じゃあ、涼子。ちょっとした頼みごとがあるんだけど、聞いてくれるかな」

「涼子、お姉さまのご命令なら、どんなことでもいたします」

「その前に一つだけ聞きたいんだけど、涼子は今、私のすぐ近くにいるよね」

「あっ」という声にならない声のあと、涼子の口調が少し変わった。

「お姉さま、やっぱりお気づきでいらしたのねえ。さすがですわ。さっき、古本屋のところで?」

「いや、昨日から気づいてたけど」

「ああっ。涼子、まだまだ修業が足りませんわ。探偵修業が……ね、お姉さま、だらしない涼子を厳しく叱ってくださいませんこと?」

「それはまたいつかということにしよう。じゃあ、涼子は、私が今どこにいるかも知ってるね」

「このホテルの607号室でしょう?」

「その通り。すぐに来てほしいんだ」

「わかりました。すぐですね」

本当にすぐだった。三十秒もしないうちに、ドアをノックする音が聞こえた。どうやら部屋のすぐ近く、廊下の端にでもいて見張っていたらしい。

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涼子の声は音程が高いが、響きがやわらかくて、耳にとても快い。

「初めまして。秋月涼子です。皆さん、お姉さまのお友達でいらっしゃるんですね。あっ、お姉さまって言っても、実の姉妹ではないんですのよ。姉妹のように仲よくさせていただいているってことですわ。でも、涼子、本当に皆さんがうらやましくてなりませんの。だって、皆さんはこの素敵なお姉さまと、去年からお知り合いだったんでしょう? 大学に入学したばかりのときから……ああ、なんだか嫉妬してしまいます。涼子、入学したばかりのお姉さまがどんなだったか、知りたくてたまりません。ね、今度、一人一人に、そのころのお姉さまの様子をくわしくうかがいたいですわ」

「あの……こちらの人は?」

真琴さんは、涼子の背後にいる、例のスーツ姿の女性のほうをちらりと見た。三十歳くらい。精悍な表情をして、じっと黙っている。

「こちらは竹下さん。私の監視役の人ですの。あの……竹下さん? お部屋もあまり広くないことですし、たいへん申し訳ないんですけど、廊下でお待ちになっていただけません? ここで私が危険な目にあうなんてこと、けっしてありませんから」

竹下さんと呼ばれた人は軽く一礼すると、黙ったまま部屋を出て行った。

「父がやかましくて、ちょっと遠くに出るときは、監視役の人がついてくることになってますの。それで、お姉さま? いったいどうなさいましたの? なにか涼子の手助けが必要だっていうお話でしたけれど……」

「あの……その前にちょっと……」

鬼塚さんが、遠慮がちに口を挟む。

「秋月涼子さんって、N市の秋月建築のところの秋月さん?」

「ええ、秋月建設も父の会社の一つですわ」

「ああ、そうなんだ……あの……秋月なんとかって会社がいっぱいあるみたいだけど、どこが大元なんです?」

涼子は、「さあ」と首をかしげる。

「実は涼子、うちの会社のこと、あまりくわしくは知りませんの。親戚もいっぱいいますし、どこが大元かって聞かれても……」

「へえ、そんなにたくさん会社があるんだ」

真琴さんがそう言うと、鬼塚さんは――

「それはもう、ものすごいよ。私もN市だからよく知ってるけど、秋月建設に秋月不動産、秋月総合病院にスーパー秋月、秋月駐車場に秋月公務員専門学校、秋月ボウルに……」

「なんだ? 秋月ボウルって」

「ボウリング場。高校時代、よく行ったなあ。隣にカラオケ屋もあって……」

「あの……それが全部、私のところの会社というわけじゃないんですの」

涼子は、少しもじもじした。

「さっきも申し上げましたように、親戚もいっぱいありますし、うちがほんの少しだけ株を持っているだけのところも多いということですし……それに、うちと全然関係がなくても、とにかく秋月という名前を付けておけっていう理由で、秋月を名乗っているお店もあるみたいなんです……それよりも、お姉さまのことですわ。お姉さま、いったいどうなさったんです? 頼みごとって、どういうことですの?」

「実は、私が泥棒したんじゃないかって、疑われてるんだ」

15

「まあ!」

涼子は、急に目つきを変えて、真琴さん以外の四人の顔をにらみつけた。

「お姉さまが、そんなことなさるはずないじゃありませんか」

「ん? いや……」と、真琴さんは涼子の肩に手を置いた。

「私だって、ひょっとしたら泥棒くらいするかもしれないよ。世の中、なにがどうなるかわからないからね。でも、今回は完全な誤解なんだ。とにかく事情を聞いてくれ」

真琴さんは、これまでのいきさつをくわしく説明してやった。それを聞いた涼子は、持っていた小さなバッグから、これまた小さな手帳を取り出した。立花さんの視線がそのバッグに吸い寄せられたところを見ると、真琴さんにはよくはわからないが、なかなかのブランド物であるらしい。

「それでしたら、お姉さまには、完璧なアリバイがありますわ。皆さんと一緒にこのお部屋を出られたのが、午前十一時二十分。いったん自分のお部屋にお戻りになって、それからすぐにまた外出なさいました。そのときホテルを出たのが、十一時二十八分。県道沿いの古本屋に入られたのが……」

涼子は、真琴さんが再び自室に戻り、それからこの立花さんたちのツインルームに呼び出されるまでの行動を、逐一読み上げていった。真琴さんの行動を、真琴さん自身よりも正確に把握しているようだ。

「ということで、お姉さまにはこの部屋に戻ってUSBメモリを盗みだすことは、絶対に不可能でした。いかがでしょう? 皆さん、おわかりいただけたでしょうか」

真琴さんを除く四人は、曖昧な顔をしてうなずいた。厳密に言えば、涼子の言うことが絶対に正しいとは断言できない。というのも、真琴さんと涼子が口裏を合わせているという可能性があるわけで、当然四人もそれに気づいてはいたはずだが、そんなことをわざわざ言い出す気力が、もうなくなってしまったのだろう。

ただ、真琴さん一人だけがニヤニヤしていた。

16

「ありがとう、涼子。これで私の濡れ衣も晴れたみたい。それにしても、ね……どうして涼子は、昨日からずっと私をつけ回してたの? 私は、その理由を知りたいな」

「それはもちろん、お姉さまの安全を考えてのことですわ」

「私の、安全?」

「そうですわ。海水浴場といえば、誘惑でいっぱいの、とっても危険な場所。きっと悪い男たちが、お姉さまを狙っていっぱい押し寄せてくるにちがいありません」

ふふん……と笑ったのは、鬼塚さんか。春日くんは、「別に誰も押し寄せてこなかったようだがなあ」と、小声で呟いた。

「それはもちろん、皆さんのような心強いお友達がいたからですわ。でも、お姉さまお一人だったら、どんなに危険だったことか。だから涼子、今日は本当にドキドキいたしましたわ。だって、お姉さまったら、たったお一人でどこやらにお出かけになる様子だったんですもの。もう心配で心配で……ですから尾行がバレる危険を冒してでも、少し大胆な行動に出なくてはなりませんでしたの」

「でも、私を見守るだけなら、そんな細かい記録までつけなくてもよかったんじゃない? ほかに理由があったんじゃないかなあ」

「それは、だって……」

涼子は、またもじもじし始めて――

「涼子、将来は探偵になるつもりですし、尾行の練習も兼ねていたんですの」

「やっぱりそうだったんだ」

「探偵?」と、不思議そうな声を出したのは鳥飼くんである。

「本気で言ってるんですか」

敬語なのはどうしてだろう。そう言えば、さっき鬼塚さんも、涼子に敬語を使っていたような。初対面だからだろうか。それとも涼子の家が大金持ちであることに関係があるのだろうか。

そんなことを思っていると、真琴さんは少しだけ苛ついた気分になってきた。また貧乏コンプレックスが出てきたのかもしれない。よくない傾向だ。

「よし。とにかくこれで、私の疑いは晴れたわけだし、一件落着だね。じゃあ、私は自分の部屋に戻るよ。涼子、よかったら私の部屋に遊びに来ない?」

「あら?」

「ん? どうした?」

「あらあらあら?」

「だから、どうした?」

「お姉さま、一件落着だなんて、お姉さまともあろうおかたが、それではいけませんわ」

「どうして?」

「だって、その青いUSBメモリ、まだ見つかっていないじゃありませんか。それが見つかってこそ、本当の一件落着です。このまま終わりにするなんて、いけませんわ」

立花さんが、気の抜けたような声で言った。

「私は、なんだかもう、どうでもよくなってきたんですけど」

「いけません、いけません」

涼子は繰り返した。

「皆さん、ご安心ください。将来の名探偵、この秋月涼子が、きっとそのUSBメモリを見つけてさしあげます。この事件、涼子の探偵業の予行演習として、まさにぴったりの事件ですわ!」

17

ずいぶんと妙なことになった。

鳥飼くん、春日くん、立花さん、鬼塚さん、そして真琴さんの順番で、涼子の質問――というより尋問?――を受けることになってしまったのである。

なんだかよくわからないうちに、気がついたら、五人が五人とも涼子のわがままを受け入れてしまっている。まあ、それも無理はない――と、真琴さんは思わないでもない。出会ったときから気づいていたが、そうした妙な魅力を、あの美少女は備えているのだ。

涼子は、このホテルの最上階にある広い部屋を借りているとのこと。真琴さんたちはそろってこのツインルームに待機し、一人ずつその涼子の部屋まで上がっては、個別に面談をするという段取りだ。そして、真琴さんとの面談まで全てが無事終了した暁には、涼子がUSBメモリの在りかを発表する、というわけ。

おもしろいのは、涼子に会って戻ったときの感想が、一人一人微妙に食い違っているように感じられたことである。

最初に戻ってきた鳥飼くんは、「あの人、とってもほがらかだねえ」と言った。

次の春日くんは、「かなり常軌を逸してるな」。

立花さんは「深窓の令嬢なのに、すごく親しみやすかった」。

四人目の鬼塚さんはというと、「あの子、バカじゃないよ」。

そして、いよいよ真琴さんの番が来た。

18

部屋に入ると、涼子がドアのすぐ側に立っていた。竹下さんとかいった、例の監視役の女性の姿は見えない。聞いてみると、隣が続き部屋になっていて、そこに待機しているそうである。

「さ、お姉さま。こちらにどうぞ」

そう言うと、涼子は真琴さんをベッドに腰かけさせた。そして、自分はその足元にひざまずいた。

「えっ? ほかの人にも、これで話をしたの?」

「まさか。お姉さまったら、冗談ばっかり」

涼子は、声をひそめて――

「お姉さま以外のかたに、こんなことするはずないじゃありませんか。涼子がひざまずくのは、お姉さまの前だけですわ。でも、隣で竹下さんが耳を澄ましているかもしれませんから、こっそりお話ししましょう。本当は、今すぐ裸になって、お姉さまに優しく叱られたいって思っていますの。でも、この部屋では、それは危険すぎますわ」

「その通りだね。涼子にちゃんと分別があることがわかって、私もうれしい」

「ところで、ほら、お姉さま。これをご覧になって」

涼子が右手のてのひらを広げると、そこに青いUSBメモリがのっていた。

「見つけたのか。いや、この部屋にあるはずがないから、隠していた人から取り戻したってことか」

「その通りです」

「誰が隠してたんだ?」

「実は、それは内緒にするお約束で、返してもらいましたの。ですから、お姉さまにも申し上げることができません。もちろん涼子、お姉さまのお叱りは、存分にお受けいたしますわ。今度またお姉さまのお部屋にうかがったときにでも……」

「私は別に、言いたくないことを無理に言ってもらわなくてもかまわないけど」

「それだけではないんです。実は涼子、お姉さまにお願いがありますの。ああっ、涼子ったら、お姉さまに叱られることばかりです。勝手に尾行までして……」

「前もって尾行するって言ったら、尾行にならないけどね」

「それはそうですけれど。お姉さま、いつお気づきになりました?」

「昨日、泳ぎ始めたときにはもう気づいてたよ」

「じゃあ、ほとんど最初からお気づきになっていたんですのね。涼子、まだまだです」

「だって、ほら……涼子は可愛すぎるもの。私は、可愛い子が側にいると、自然に目が吸い寄せられていくからね」

それは真琴さんの本心だった。自分の美貌に自負心を持っている真琴さんだが、その自負は限定的なものでしかない。まあ、かなり整っているほうかな、くらいのものである。それに表情に可愛げというものがない。だから涼子の特別な可憐さにはとうていかなわない、と思っている。

「お姉さまって、本当にお口がお上手です。そうやって涼子がいい気になったところで、厳しく叱ってやろうっていうお姉さまの魂胆、涼子、すっかりわかってます。でも、そうおっしゃっていただくと、とっても幸せですわ」

「全然ちがうけど、まあいいや。それで、涼子のお願いっていうのは?」

「このUSBメモリ、立花先輩にお返ししようと思うんです」

「もちろんそうするのがいいね」

「そのとき、犯人の名前は伏せなければいけません。それで、お姉さまに少しだけ失礼なこと言わなくてはいけないと思うんです」

「失礼なことって?」

「それは……」と、涼子はひざまずいていた身体を伸ばし、真琴さんの耳元にそのふっくらとした唇を近づけた。

19

午後六時。真琴さんたち五人は、例のツインルーム――立花さんと鬼塚さんの部屋――に集合していた。ほどなくして、涼子がやってきた。

「皆さんのお話をうかがって、この秋月涼子、USBメモリの在りかがわかったと思います」

ほう――と、一同からため息のような声が漏れる。そのあとを追うように、涼子の声が続く。

「皆さんがこのお部屋を出るときの状況を、整理してみましょう。まず、お姉さまが立花先輩のレポートの添削を終えます。次に立花先輩が、文書の保存先を確認。そのあと、鬼塚先輩がそのレポートを読みます。読み終わった鬼塚先輩は、パソコンからUSBメモリを外し、パソコンはお姉さまに渡して、USBメモリのほうはテーブルの上にメガネと共に置きます。そのとき鬼塚先輩は、立花先輩に、USBメモリはここに置いたからちゃんと見てと、確認を求めます。たしかに立花先輩は、確認しましたね」

「確認したわ」

「けっこうです。そのあと、皆さんは部屋を出るためにドアへと向かいますが、お姉さまだけがまだベッドに腰かけていました。ノートパソコンをバッグの中に入れていたんですね。そして、最後にお姉さまは、エアコンのタイマー調節をして、ベッドから立ち上がりました」

「その通り」

「その時点で、ほかの四人のかたは、部屋を出るか、あるいは既にドアのところまで来ていました。どうしたってUSBメモリに触れることはできません。その時点でUSBメモリをどうにかできるのは、お姉さましかいらっしゃいませんでした」

「でも、私はあの机のほうには……」

真琴さんは、部屋の一番奥にある机を指さした。

「いっさい近づかなかったぞ。私は、あのときもこのベッドに腰かけていたんだから」

二つ並んでいるベッドのうち、奥のほうにあるベッドである。机に近いとはいっても、かなり距離がある。

「そして、立ち上がったらすぐに、ドアのほうに行った。もう一度言うけど、あの机のほうには、一歩も近づいてない」

「もちろんそうです。涼子、お姉さまがUSBメモリに手を触れたとは申しておりません」

20

涼子はそこでいったん言葉を区切ると、今度は少し改まった調子で――

「ただ、間接的に触れてしまったんですわ。それも無意識のうちに」

「どういうこと?」

「お姉さまって、身体の動かし方が、なんと申し上げたらいいのか……そう、とっても大胆なときがありますでしょう?」

「がさつとも言うけどね」と、春日くん。

「黙れ」と、真琴さん。

涼子はかまわずに、話を続けていく。

「ですから立ち上がって、その大きなバッグ……そのバッグを持ち上げるとき、少しだけ振り回してしまったら……」

「こうか?」

真琴さんは、持ってきたバッグを少々大げさに振り回した。それは机の上をかするようにして宙を舞った。

「そうです。そのときUSBメモリがはじき飛ばされたとしたら……」

「でも、机の上には鬼塚さんのメガネもあったんだよ」

珍しく鳥飼くんが、異議を申し立てた。

「そう都合よく、USBメモリだけが飛んでいくかな」

「都合と言うなら、もしメガネもいっしょにはじき飛んでいたら、むしろそのほうが好都合だったんですわ。だって、そうしたらいくらなんでも気づいたはずですもの。そして、その場ですぐに探し出せたはずです。でも、ちょっとした偶然のせいで、メガネは無事で軽いUSBメモリだけが飛んでいってしまった。だからお姉さまも、皆さんも、お気づきにならなかったんです」

「でも、どこに飛んでいったっていうの? 私たち、ちゃんと探したよ」と、立花さん。

「お姉さま? もう一度、バッグを持っていただけます?」

「こうか?」

真琴さんは再び、少々大げさにバッグを振り回した。

「今の角度と同じだったとしたら……」

涼子は、机と向かい合っている部屋に備えつけの小さな冷蔵庫に近寄った。バッグからスマホを取り出して右手に持ち、その明かりでその下の隙間を覗いている。

「この辺りが怪しいですわ」

今度は左手も差し入れた。

「もしかしたら……これ……あっ。見つけましたわ!」

涼子は、埃だらけになった左手を高く差し上げた。その指先に、青いUSBメモリがあった。

「ありがとう」

立花さんが駆け寄る。

「秋月さんって、とっても親切ね」

真琴さんはベッドに腰かけたまま、憮然とした表情で言った。

「要するに、私ががさつだったのがいけなかったってわけか」

「がさつではありませんわ。お姉さまの大胆な身体の動き、とっても素敵です」

「私も大騒ぎして悪かったわ。ごめんなさいね」

すっかり機嫌が直ったようで、立花さんはにこにこしていた。

21

その夜。真琴さんは、ホテル最上階の涼子の部屋にいた。ベッドの上にパジャマ姿で、二人並んで腰かけている。

――と、ノックの音がした。続き部屋からすいと監視役の竹下さんが出てきて、ドアを開ける。そこに立っていたのは、鬼塚さんだった。一瞬だけクシャッとした例の笑顔を見せると、ふいと真顔になった。竹下さんは、すぐに隣の部屋に引っ込んだ。

「謝りにきたよ」と、鬼塚さんはぽつりと言った。

「やっぱり鬼塚さんだったのか」

真琴さんがそう言うと、涼子は――

「お姉さま、お気づきでしたの?」

「どうやったかはわからないけど、チャンスがあるとしたら、鬼塚さんしかいないとは思ってた。ただ、動機がわからない。どうやってやったのか、それもわからない」

「立花さんが、あんまり無神経だったからね。少し懲らしめてあげようと思って。それに、新宮さんの対応も気に食わなかったんだ。立花さんになにを言われても、柳に風で受け流してさ……」

鬼塚さんは、二人の前に立ったまま、ぽつりぽつりと言葉を継いでいく。「お座りになったら?」という涼子の言葉にも、首を小さく横に振った。

「なんだか妙にイラつくっていうのか……それに、たいして悪気はなかったことは認めてほしい。さっき秋月さんがやったように、タイミングを見計らって出して見せるつもりだったの」

「まあ、そんな気分になることもあるのかもね」

「そういうところだよ、新宮さん。そういうところが、妙に私の勘に触ったのね。なんて言うんだろう……こう……私はものにこだわらないんですよっていう感じ?」

「じゃあ、これからはなるべく我慢してくれ。私は直すつもりはないから」

「直す必要はないよ。心が広いのは、いいことなんだから。たぶん私が、ひがんでるだけだと思う。私のほうが、改めなくっちゃ」

「別にそのままでもいいんじゃない? 私に害がなければ、どっちでもいいな」

「ありがとう」

「とにかく、なんにも気にしないのが一番だよ。明日は旅行最終日だけど、引きずらないでいてほしい」

「そうする」

鬼塚さんは、もう一度「ありがとう」と繰り返した。それからくるりと振り返って、部屋を出ようとした。真琴さんは、少し慌てて呼び止めた。

「ちょっと待って」

「なに?」

「いったい、どうやったんだ? あのときたしかに、鬼塚さんは机の上にUSBメモリ置いたよね。そしてドアのほうに向かって歩き出した。一度も机には近寄らなかった。いったいどうやって隠したの?」

鬼塚さんは、またクシャッと笑って見せた。

「新宮さんにもわからないことがあるっていうのは、ちょっとうれしいかな。でも、そこの秋月さんには、ちゃんとわかってたよ。その子に聞いたら?」

「いや、涼子に聞くのは、なんかムカつく。鬼塚さんから直接聞きたい」

「お姉さまったら、意地悪なことばかりおっしゃって」

涼子が頬をふくらませる。鬼塚さんは、その涼子に視線をちらりと走らせた。

「私が言っていいの?」

涼子がうなずくのを見て――

「付箋」とだけ、鬼塚さんは言った。

22

鬼塚さんが去ったあと、真琴さんと涼子はこんな話をした。

「なるほど。鬼塚さんって、頭いいな。青の付箋を机の上に置いて、USBメモリに見せかけたわけか。でも、その時点で立花さんが気づいたら、どうするつもりだったのかな」

「冗談で済みますわ」

「たしかに。でも、その付箋はどこに行ったんだろう。掃除の人が捨てたのか」

「たぶんそうだと思います。フロントに電話をして聞いたとき、紙クズなんかは別にして、机の上のものには触っていないっていうお返事があったんでしょう? ということは、紙クズは捨てたってことになりますわ。それで涼子、初めは、もしUSBメモリが紙クズに見えたとしたらって、考えましたの。でも、そんなはずはありませんわね。その次に、今度は紙クズがUSBメモリに見えたとしたらって、考えてみましたの。途端に、鬼塚先輩が付箋だらけの本を読んでいたっていう、お姉さまのお話を思い出しました。それで、すっかりわかりましたわ」

「なるほど。鬼塚さんも頭いいけど、涼子もすごいな」

「そんな……お姉さまにそんなに誉められたら、涼子、恥ずかしいです……鬼塚先輩と二人きりでお話をしたとき、その付箋の付いた本を見せていただいたんですの。そして、この中の一枚を使ったんでしょう? ってお尋ねしたら、そうよっておっしゃって。鬼塚先輩って、とっても潔いかたでいらっしゃいますわ。涼子、感心してしまいました」

「でも、掃除の人が付箋を持って行かなかったら? そうしたらバレちゃうんじゃないか。だって部屋に戻ったら、USBメモリの代わりに、付箋が机の上にのっているんだから」

「そのために、お姉さまにエアコンのタイマーを入れさせたんですわ。ほら、エアコンって、動き始めはゴーッて、すごい勢いじゃないですか。その風を利用して吹き飛ばす予定だったんです。ひょっとしたら、実際にその通りのことが起きたのかもしれません。それに、だいたいが、もしうまくいかなくたって、いつでも冗談で済む話だったんです。それが大げさなことになってしまったのは、なぜかお姉さまが立花先輩に疑われてしまったせい。それに私まで登場してしまったせいなんです」

「涼子、はりきってたからなあ」

「いい予行演習になりましたわ。それにしても、鬼塚先輩もおっしゃってましたけど、お姉さまって、本当に心の広いかた。涼子、なんだか自慢したくなります」

真琴さんは、少しのあいだ考えてみた。そして言った。

「いや、私は別に心が広いわけじゃないと思うよ」

「でも、バッグのことをけなされても平気だし、鬼塚先輩のこと怒ったりもなさらないし。それはやっぱり心が広いからじゃありません?」

「ただ無関心なだけだと思う。おしゃれにも、あんまり興味がないし、他人からイラつくって思われても、自分に直接の害がなければどうでもいいし。私は関心の範囲がすごく狭いんだと思う。本当に、ごく少しのことにしか関心が向かないんだ。ある意味でエゴイスティックなんだよ」

「じゃあ、お姉さまが今、一番関心のあることって……やっぱりお勉強ですか、文学の?」

「いや、それは二番目」

「じゃあ一番目は?」

「もちろん涼子のことだよ。だから、涼子の尾行にも、すぐに気づいたんじゃないか」

「お姉さまって、お姉さまって……」

涼子が、急にむしゃぶりついてきた。

「やっぱりお口がお上手すぎます!」

◆おまけ 一言後書き◆
次回は、涼子が謎の失踪を遂げ、真琴さんが探し回るという話にしようかな、と思っております。あくまで予定です。

2021年8月18日

美咲凌介(みさきりょうすけ)

1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。

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初出:P+D MAGAZINE(2021/08/26)

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