連載対談 中島京子の「扉をあけたら」 ゲスト:猿田佐世(新外交イニシアティブ事務局長・弁護士)
直木賞作家・中島京子さんが、さまざまな分野の「未来案内人」と、「扉の先の未来」を語り合います。第一回は、日本の一般市民の声を、アメリカの中枢ワシントンに届ける活動をしている弁護士の猿田佐世さんに、これまで語られることのなかった「アメリカと日本の関係」について聞きました。
第一回
ワシントンから日本を見ると
ゲスト 猿田佐世
(新外交イニシアティブ事務局長・弁護士)
Photograph:Hisaaki Mihara
猿田佐世(左)、中島京子(右)
中島 記念すべき対談連載の第一回目に来ていただき、ありがとうございます。
猿田 こちらこそ光栄です。どうして私のことをご存じだったんですか?
中島 沖縄・辺野古の現状を訴えるために、名護市長の稲嶺進さんが訪米されましたね(二〇一四年五月)。それを企画したのが、日本人の若い女性弁護士と聞いて、ほんとにびっくりしたのが最初です。アメリカって、私たち一般人にとっては、日本の政治家や官僚が束になっても動かせない威張った巨人みたいなイメージでしょう? それを、動かそうって、すごい人だなと思ったんです。猿田さんは「市民が外交政策に関わる社会をつくりたい」とおっしゃっていた。それもびっくりしました。「あら、市民って私のこと?」「私も巨人を動かせるの?」と、急に身近に感じられたんです。
猿田 そうですよ。本当にそうです!
中島 だとしたら、それこそ「未来の扉」を開くことになるんじゃないか。これはもう第一回にお呼びしなければと。今日は基本的なところから、猿田さんの活動や、何をなさろうとしているのかをうかがえればと思います。
日米の歪んだ関係
中島 先日、猿田さんが事務局長を務めている〈新外交イニシアティブ〉の講演会「外交の仕組みを紐解く 安保・原発・TPP・沖縄基地と日米関係の実像」にうかがいました。ノンストップの弾丸トークで、充実の二時間でした。どれも今の日本にとって重要なテーマです。
猿田 弾丸トークとしか言いようがないですよね(笑)。
中島 講演の中で、「アメリカがクシャミをすると日本が肺炎になる」という表現を紹介なさっていましたが、猿田さんは私たちが「日米関係とはこういうものだ」と思い込まされてきたものの、別な見方や可能性を探して、その歪んだ日米関係を変えようとなさっている方なのかな、と思ったんです。まずは、猿田さんが作られた〈新外交イニシアティブ〉について、教えていただけますか?
猿田 シンプルに申し上げると、国境を超えて政策の提言をすること、そして、アメリカに限らず、海外に散らばっている声、日本の主要メディアには届いていない声を日本に運ぶこと。あるいは日本の中にある声で同じように海外に届いていない声を国境を超えて運ぶことをモットーとしています。より具体的に言うなら、まさに「伝えるべき声」をお持ちの沖縄や福島の方が訪米する際のお手伝いをしたり、彼らが行けない場合は自分が代わりに行って、伝えるべき相手に会うこともあります。
中島 今まで誰もやらなかったことなんですよね。
猿田 そうですね。対象とする国や規模が違えば、いろいろな活動があると思いますが、ワシントンという非常に特殊で、そこにいる日本人は官僚や大企業の駐在員、大手マスコミの記者に限られるという政治の街で、私たちのような取り組みをする団体はなかったと思います。少なくとも私は会ったことがない(笑)。
政権交代のとき、ワシントンでは
中島 猿田さんが「新外交イニシアティブ」を始めるきっかけはどういうものだったんでしょう。
猿田 留学して、たまたま行くことになったワシントンが、世界の権力の頂点と言ってよい街だった──という偶然が、大きいと思います。
ワシントンにいると、シンクタンク(政策の立案・提案をおこなう研究機関)や「知日派」と言われる少数の人々などが、とても簡単に日本に強い影響を与えているのが見えてくる。一部の日本人が政治装置としてのワシントンを利用しているのもわかってきて、そんなシステムはおかしいだろうと思うのと同時に、システムとしての面白さも感じました。よくできているというか(笑)。
驚きながらもシステムそのものを解明していきたいという好奇心と、もともと自分が持っていた「沖縄や福島を何とかしたい」という価値観が合わさって今の動きになっていったのだと思います。私がワシントンの大学院で専攻していたのは「紛争をどうやって解決するか」という、国際関係学の中の紛争解決学でした。紛争を解決したいという方向性と実際のワシントンでの体験が直接繋がって生まれた取り組みとも言えるだろうと思います。
中島 そして、ワシントンに留学されたのが、二〇〇九年。アメリカではオバマ大統領が就任し、日本では、民主党が選挙で単独過半数を取って政権交代を果たした、画期的な年でした。
猿田 はい。何十年に一度の激変のタイミングでした。「普天間基地を県外に」と言う鳩山由紀夫さんが総理大臣になり、ずっと与党・自民党と六十年以上働いてきた官僚の方々が「いきなり上が替わっちゃった」と大騒動になった。そんなことを自分の目で直接見聞きすることになりました。
中島 たまたまワシントンへ行ったときに、政権が替わるという偶然が重なった。それも凄いですねえ。
猿田 本当です。その二つの偶然がなかったら、今の活動もしていなかったと思います。ワシントンは世界の権力が集中した街です。日々、目の前で繰り広げられているダイナミズムの中に、先ほど言った日本の「声」や自分なりの正義を織り込めば、問題の解決に少しは役立つかもしれない、と思ったというか。もともと私は、日本で起きている「間違っているんじゃないか」と思う出来事を何とかしたい──という気持ちを抱えたまま、留学していましたから。
中島 民主党政権に替わったことを、ワシントンでは、どんなふうに受け止めていたんですか。
猿田 「普天間基地を県外に出すなんてどういうことだ」と、アメリカが怒って、恫喝してきて、鳩山さんが九カ月で退陣することになった──というのが日本で広まっている「鳩山退陣ストーリー」だと思うのですが、政権交代直後、ワシントンでそんな話は聞きませんでした。もちろん、そういう考えの人がゼロだったとは思わないけれど、むしろそんな総理大臣になってしまって困ったな、と思っていたのはワシントンにいる日本人の方であったと思います。
政権交代後のワシントンでは「今後、日米関係はどうなるのか」といったシンポジウムが立て続けに開かれていました。そういう会にはオープンなものも多いので、私も出られるものは全部出た。政府の役人がスピーカーとなって「国務省の◯◯です」と意見を言ったり、あるいは仕事として日本を相手にしている外交官が、「自分はこう考えている」という見解を話してくれます。そういったところで名刺を交換し、個人的に親しくなった人と食事に行ったりもしました。
最初のうちは、民主党がどんな団体で、どういう人と話をすれば、今後、日米関係をうまくやっていけるかがわからないので、「そういう意味ではちょっと心配」とは言われていました。でも「普天間を県外に出す総理大臣だからとんでもない」などと言っている人は本当にわずかだった。「今までだったら、自民党の◯◯さんと話をすれば、ツーカーだったけど、そういうパイプがないので、どうしたらいいのかな」といった懸念です。ところが、そうした発言が日本の新聞に載ると──。
中島 同じ懸念でも「パイプがないこと」に対してではなくて、「民主党政権そのもの」に対して「アメリカが懸念を表明」みたいな書き方になるんですね。なるほどねえ。私、猿田さんと鳩山元首相、ジャーナリストの高野孟さんの鼎談をYou Tubeで拝見したんですよ。
猿田 まあ、ありがとうございます。
中島 その中で猿田さんが、「民主党は政権を獲る前から、準備をして、ワシントンに出張所を出しておくべきだった」とおっしゃっていて、眼から鱗が落ちる思いでした。
猿田 絶対にそうですよ。今からでもやっておくべきだと思います。ドイツの主要政党は総てワシントンに事務所を持っています。
中島 「きちんとワシントンで民主党の意見を話せる人がいたら、もっと状況は変わっただろう」とおっしゃっていた。つまり、当時の民主党は、やれることをやらず、批判以前に、理解されなかったという。
猿田 日本に「アメリカ発」として届くニュースにはワシントンの知日派を日本メディアが取材して書いていることも多い。日本からその発信者であるアメリカの知日派の人たちにどのような情報を届けるか、発言するアメリカの人たちにわからないことがあった時に誰に聞くか、そんなことが「アメリカ発」のニュースの元になっています。
新しくできた民進党も他の党も、ワシントンに代表者を置いて、「私が党の顔ですよ」とプレゼンスを示し人間関係を築いておかないと、再び政権交代があっても同じことが起こると思います。
中島 自民党は自分たちの事務所を置いてるんですか?
猿田 この六十年間はずっと、大使館が自民党の窓口ですから。政権交代しないので仕方ないのですが。
『ワシントン拡声器』って何?
中島 結局、米国には何年いらしたんですか?
猿田 はい、日本で弁護士として五年間働いてから、五年間、留学しました。一般的な留学よりだいぶ長くなってしまった(笑)。
中島 長くなった理由はあるんですか?
猿田 留学中徐々に英語が話せるようになったのですが、ワシントンでは英語が話せれば、学生でも国会議員と話すチャンスだってあるから、どんどん面白くなってしまって。
中島 実際に会ってみて、驚かれたそうですね。下院のアジア太平洋小委員会の委員長に「沖縄の人口は二千人か?」と聞かれたと。百四十万人という数字を知らなくても、二千人はあまりにひどい。そんな、何も知らない人に、沖縄について決められてしまってはたまりませんね。ほかにも、驚くような疑問はたくさんでてきたとか。
猿田 一例をあげれば、ワシントンのシンポジウムで私自身が聞いた発言が、何らかの日本人の手が間に入って、日本で報道されるのを目のあたりにしたことですね。つまりワシントンでのアメリカ側の発言が、日本人の手によって「演出」されていることがあるのです。
中島 「アメリカはこう言っている」「ワシントンでは、こんなふうに考えている」という報道で、日本の世論がコントロールされてしまうところがありますね。それを上手に使っている人たちがいると。
猿田 たとえば、民主党政権になってから、民主党の国会議員が以前よりたくさんワシントンに来るようになりました。講演会や小さなスタディグループで話をするようなことも増えていました。東日本大震災直後、そんな民主党の議員の小さな会に私が学生として参加していたとき、「福島の事故のあと、原発をどうするんだ」という話になりました。「当面は再稼働できない」とその議員は答え、その会に出席していた国務省の人は「それは困る」と返す、まあ三十秒くらいの軽いやりとりがあった。そうしたら翌日、ある日本メディアは、その国務省の人がその民主党の議員を真っ赤な顔で怒鳴りつけた──みたいな記事になっているわけですよ。
日本人はワシントンで何が起こっているか知らないし、逆に、日本の本来の姿があの街では語られていないという、両方の面があると思います。
中島 ワシントンに住んでいる日本人は、日本の姿を伝えようとしてはいないんですか?
猿田 ワシントンには官僚や大企業の駐在員しかいなくて、彼らは「沖縄の人たちの気持ちを少しは聞こうよ」とは言わない。本当は人間の生活ってもっと豊かで、人々の意見も少しずつ違っているはずなのに、日本の内側にある多様な意見やニュアンスがないことにされてしまう。そうすると、「日本政府の声だけが日本の声」みたいになってしまう。
中島 沖縄には辺野古の海を守りたいって思ってる人もたくさんいて、あんなに凄い反対運動もしていることを、まったく知らないんですか?
猿田 反対運動が沖縄で起こっていること自体は、「知日派」の人々は知識レベルでは知っています。彼らはジャパンタイムズなどの英字メディアを読んだり、また日本の各紙を翻訳させて毎日読んでいる人もいるので、そういった情報は見て知ってはいるけれど、人間味のある部分は伝わっていないです。
彼らの周りの日本人は「そうはいっても沖縄の人口は日本のたった一%ですから」といった立場の人々なので、感覚としては遠いんですよ。
中島 今おっしゃった、知日派というのは、政策提言報告書「アーミテージ・ナイレポート」で知られるアーミテージ(元国務副長官)さんや、ジョセフ・ナイ(元国防次官補)さんなどの方々ですね。
猿田 トップの五人に入っています。そういった「知日派」と言われる人々五人から三十人の意見で日本に関するアメリカの政策が決められている、というのが、私のインタビュー調査結果です。そもそも前提として、アメリカの多くの人は日本に関心を持っていないので(笑)、政府の中の人も詳しい「知日派」に話を聞きに行くんです。
中島 先日の講演会で、原発、TPP、安保法制など、ここ二、三年で進められた重要政策のほとんどが、二〇一二年に出された「アーミテージ・ナイレポート」に書いてあると指摘されていましたね。国会で、山本太郎さんも「完コピ」って言ってたけど。知日派ってどういう人たちなんですか?
猿田 知日派というのは、日本に詳しい人々のことを言いますが、単なる大学の研究者を指すというよりは、今、あるいは、過去にアメリカの政府の中に入って実際に国務省やホワイトハウスの役人として対日関係を取り扱ったことのある方、あるいは、そうでなくてもアメリカの政府に近い方を指すことが多いです。大統領選で政権交代すれば、政権の外にいた知日派の人が中に入ってくる。ブッシュ政権で政府にいた知日派は、今はオバマさんが大統領だから外で待っている。今度の選挙で、共和党の大統領に替われば、回転ドアのように彼らが中に入ってくる。ですので、いわゆる「知日派」とは、アメリカの対日政策を実際に決める人たちであり、それに準ずる人たちなんです。
「外で待っている」知日派のいる場所がシンクタンクですが、そこへ日本政府や日本の大企業がたくさん資金を提供しています。また、日本のメディアがアメリカの声として、意見を聞きに行くのはその人たちなので、「安保法制が成立しました」と聞くと、「素晴らしい」とか、「もっと早くできてもよかった」みたいな意見が、たくさん報道される。けれど、それは街の人に聞いた意見じゃないし、ごく少数の人にしか聞かないので、当然、他の意見は出てこない。そういう例は山ほど見てきました。
中島 言ってほしい「アメリカの意見」をワシントンに拾いに行き、拡大して報道する。そうしたシステムを「ワシントン拡声器」と呼んでいらっしゃる。なんだか創られたアメリカ像に翻弄されているみたいです。
猿田 そのことを全く知らなかったことに、自分でびっくりしますよね。もっとも、アメリカにない意見が作り上げられて嘘が報道されていると言っているわけではありません。肝心なのは、限られた数の日本人が、アメリカに日本の情報を与え、アメリカから出てくる情報を選択し、日本に向けて「拡声」している、ということです。
中島 なるほどね。知日派の人たちが、やや保守的で偏った意見だということもあるけれど、日本からすごい勢いで「ワシントン拡声器」機能を使って世論を誘導しようと働きかけている人たちがいて、両者が一緒になって、「日本で報道されているアメリカ」ができているんですね。
猿田 コントロールしたい人たちにとっては、とても便利なシステムだから、隠しておきたいですよね。例えば、TPPについて「アメリカが批准しろと言っているから、しなくちゃ」というのが日本の報道の風潮でしたが、アメリカ議会のTPP議員連盟は日本政府のロビーイング活動でできたわけですから(笑)。
中島 よく映画の宣伝で「全米が泣いた」というけれど、「それはどんなアメリカなのか」考えないといけませんね(笑)。
猿田 逆に言えばその方法から学んで、効率よく働きかけることもできるはずなんです。百頑張っていた日本政府が百一頑張るよりも、私たちが〇から一やるほうが「おお、こんな新しいものがあった」という影響力もある。
中島 今までは「日本の声」と言えば百%「日本政府の声」だった。そこへ、猿田さんたちが〇%だった「沖縄の声」や「福島の声」を届けていく、ということですね。
猿田 政府や企業の潤沢な資金にはかなわないんですが、今は団体(新外交イニシアティブ)にして、いろいろな方と一緒にやれているので、同じ努力ならワシントンでやったほうが、影響力は大きいのかな、と思っています。
中島 お話を聞いていて、なんだか元気が出てきました。それからね、今日、お会いしてほんとによかったなと思うのは、凄いことをやっている猿田さんがほんとにのびのびしていらして。
猿田 楽しそうだとよく言われます(笑)。
中島 眉間にしわを寄せて、という感じではないですね。
猿田 こちらが主体的に動けば、動かせるものもあると、日々学んでいるので、やりがいがあるんですよ。
中島 お話ししているとパワーをもらえる気がします(笑)。少しだけ、プライベートのこともうかがわせてください。お子さんがいる、お母様でもあるんですよね。
猿田 はい、三歳の子どもがいます。子育てこそ大変ですよ。世の中のお母さんは、どんなふうに暮らしているんだろうって思います。仕事のほうがずっと楽です(笑)。
中島 お子さんが生まれて、何か、変わったことなどはありますか? 精神面とか、仕事の面でも。
猿田 そうですねえ。弱者への共感が増すというか、涙もろくなりましたね。子どもが巻き込まれる犯罪の報道なんか見ると、つらくてつらくて。
中島 そこは、猿田さんが携わっている、「外交」を市民の手で、というお仕事の基本かもしれない。共感する力というのは、私たちに絶対に必要な力ですよね。
猿田 まずは「外交」を遠いものと思わず、自分に関係があるものとして考えてみてください。そして私たちのようなNPOなどを支援してくださると、有り難いです。
中島 そうそう。私たち一般人にできることは、頑張って動いてくれる優秀な方々を応援することですね。本日はどうも、お忙しいところありがとうございました。
構成・矢内裕子
プロフィール
中島京子(なかじま・きょうこ)
1964年東京都生まれ。1986年東京女子大学文理学部史学科卒業後、出版社勤務を経て独立、1996年にインターシッププログラムで渡米、翌年帰国し、フリーライターに。2003年に『FUTON』でデビュー。2010年『小さいおうち』で第143回直木賞受賞。2014年『妻が椎茸だったころ』で第42回泉鏡花文学賞受賞。2015年『かたづの!』で第3回河合隼雄物語賞、第4回歴史時代作家クラブ作品賞、第28回柴田錬三郎賞を受賞。『長いお別れ』で第10回中央公論文芸賞を受賞。
猿田佐世(さるた・さよ)
1977年愛知県出身。1999年早稲田大学法学部卒業後、タンザニア難民キャンプでのNGO活動などを経て、2002年日本にて弁護士登録、国際人権問題等の弁護士業務を行う。2008年コロンビア大学ロースクールにて法学修士号取得。2009年米国ニューヨーク州弁護士登録。2012年アメリカン大学国際関係学部にて国際政治・国際紛争解決学修士号取得。2013年よりシンクタンク「新外交イニシアティブ(ND)」の事務局長を務める。
豪華執筆陣による小説、詩、エッセイなどの読み物連載に加え、読書案内、小学館の新刊情報も満載。小さな雑誌で驚くほど充実した内容。あなたの好奇心を存分に刺激すること間違いなし。
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初出:P+D MAGAZINE(2016/05/20)