連載対談 中島京子の「扉をあけたら」 ゲスト:山極寿一(京都大学総長・理学博士)
子育てをめぐる問題や、戦争を引き起こしてしまう人間の攻撃性は、ゴリラの生態を見れば自ずと見えてくると語る山極寿一さん。ゴリラ研究の第一人者で、京都大学総長の山極さんに、人間はゴリラに何を学ぶべきかを聞きました。
第二回
ゴリラは何でも教えてくれる
ゲスト 山極寿一
(京都大学総長・理学博士)
Photograph:Hisaaki Mihara
山極寿一(左)、中島京子(右)
山極 去年の河合隼雄物語賞の授賞式に続いて、お会いするのは二回目ですね。受賞作となった『かたづの!』は奇想天外な物語で驚きました。それから認知症老人と家族を描いた『長いお別れ』も良かったな。
中島 読んでいただいて、ありがとうございます。
山極 『かたづの!』は江戸時代を舞台に、夫と息子を殺され、女大名となった女性が主人公。彼女を見守る大事な役回りで、偶蹄類である羚羊が登場して、そのセックスシーンまで書かれているので驚きました(笑)。オスのエクスタシーが、ちゃんと書かれていて。
中島 売れる本を書くにはセックスシーンも入れなきゃ、と思って(笑)。オスの羚羊の気持ちになって書きました。
山極 主人公を女性にすることが多いんですか?
中島 女の人の言葉で語られる物語がまだまだ少ない、と感じているせいかもしれません。特に『かたづの!』は、女大名という存在がほとんど知られていなかったので、彼女の声が生かせるようにしたいな、と。
ゴリラは人間の鏡だ
山極 先回りすると、連載タイトルの「扉をあけたら」、その先にいて、人間をより良い未来へとガイドしてくれるのはゴリラだと思っているんです。なぜならゴリラは人間との共通祖先から分かれて、独自の進化の道を歩んできたから。ということは、ゴリラと人間が共通で持っているものは、おそらく共通祖先の持っていたもので、違いがあるとしたら過去七百万年から九百万年のあいだに起こった進化でしょう。ならば、これから先の人類も同じくらいの間に変わることを見通せるわけですよね。だからゴリラは人間の過去を映し出す鏡だというわけです。もしも人間が過去を誤解していたら、未来へ続く判断も見誤る可能性が高くなります。
中島 山極さんの本を拝読していると、「現在、人間が直面している問題について、ゴリラがいろいろなヒントを持っている」と書かれていて、今日はそのあたりのお話を伺いたいと思っています。早速ですが、山極さんが霊長類のなかでもサルやチンパンジーではなく、ゴリラに特別惹きつけられた理由って、どんなところにあるのでしょう?
山極 ゴリラ研究をしていて思うのは、人間よりもゴリラのほうが余裕があって、人間を受け入れてくれる、ということです。最初はニホンザルの研究をしていて、ずいぶん努力もしたつもりなんですが、結局、「ああ、自分はサルにはなれないんだ」と思いました。サルは人間に心を開いてくれない。近寄りがたい壁があって、ついぞサルと心が通じ合う経験はできませんでした。
その後、アフリカでゴリラ研究に携わるのですが、ジャングルでゴリラの近くに身を置いていると、彼らは私たちにゴリラ社会のルールを教えてくれるんです。
中島 実際、山極さんは、ゴリラの仲間になって生活されたんですよね?
山極 ゴリラを観察するときは、人間の存在を受け入れてもらえるよう、彼らが食事をすれば同じものを食べ、一緒に移動し、と、行動を共にします。ゴリラになったつもりで近づく私を、ゴリラはちゃんと見ている。すると変なやり方をしたときに「違う、そうじゃない」という目で見てきます。時には「コホッ」と咳払いのような声で叱ってくる。たとえばゴリラが立ち上がったので、その場所に座ると咳払いをしてくることがある。「そこはオレの場所だから座っちゃダメ」というわけです(笑)。
中島 まるで畳に土足であがろうとした外国人に、「靴をぬぐんですよ」と教えているみたい?
山極 サルだと無視するか攻撃してくるけれど、ゴリラは人間に「そうじゃない」と教えてくれる。注意されたら「すみませんでした」と謝って、教えられたように行動すると、どんどん仲良くなっていける。こういう関係性ができるのは、霊長類のなかでもゴリラだけです。
ゴリラの子育てと「負けない」という方法
中島 山極さんは、ゴリラの父親は子育てが上手だと、ご本に書かれていたでしょう? 日本ではあいかわらず、子育ては母親がすべきという風潮が変わりません。ゴリラを見習ってほしいです(笑)。
山極 ゴリラの群れは成熟して背中の毛が白銀になったオス、「シルバーバック」をリーダーとして、その妻である数頭のメスや子どもたちで構成されています。リーダー(夫)を選ぶ権利はメスにあって、信頼できないとなると別のオスのところに行ってしまう(笑)。ゴリラのお母さんは子離れも上手なんですよ。リーダーであるお父さんにポイッと預けちゃう。
群れによって、複数の大人のオス=シルバーバックがいることもありますが、それらはリーダーの弟か息子なんです。リーダー=父親は頼もしくて、魅力的です。子どもがいくらぶつかっても揺るがないくらい巨体だし、壁にもなっている。「自分が乗り越えられない存在」が身近にいるから、安心して母親から離れることができる。そこには年上の子どもたちもいて、一緒に遊ぶんだけれど、父親が一緒なので、体格のハンディも乗り越えて対等に付き合える。しかも、お父さんの接し方が非常にうまい。えこ贔屓をしないんです。
中島 それはすごいですね。なかなか人間には真似できません。えこ贔屓という文化が、ゴリラにはないんですか?
山極 ゴリラは一夫多妻制で、父親をリーダーにした家族で生活するでしょ。だから、群れの子どもたちは、リーダーにとっては、みんな自分の子どもなんですね。だから、贔屓がない。ただ、母親は贔屓しますよ。自分の子どもが可愛いですから。でもニホンザルと違って、子どもが喧嘩しているときに、ゴリラのお母さんは自分の子を勝たせることはしない。
中島 ニホンザルは加勢しちゃうんですか?
山極 はい。ただしニホンザルは階層社会なので、お母さん同士の序列がそのまま、子どもにも影響します。だから、子どもの喧嘩相手のお母さんが自分より上のときは、手を出しません。ニホンザルにはいじめがありますが、ゴリラは独立性が高いので淡々としています。ゴリラは相手からいじめられたら、反抗します。しかし相手を屈服させるほど勝とうとはしない。
中島 そこが面白いですよね。勝負をつけるのではなくて必ず引き分けるってことですか。
山極 ゴリラはプライドも高いですし、嫌なことがあったら戦います。大人のオス同士がぶつかり合って、頭をガンガンぶつけあったりする。でも決定的な勝負がつく前に、子どものゴリラが仲裁に入って、やめさせるんです。オスが怪我をしたら、自分たちを守る存在がいなくなりますからね。仲裁者が小さいというのも大事で、「こいつらの顔をたてて、やめておくか」という感じになりやすい(笑)。これは国同士の関係でも一緒じゃないでしょうか。力の強い国が調停すると「渋々我慢した」と遺恨が残る。パレスチナやイラクの混迷を見ていても、力ずくでの介入じゃない方法があると思いますね。
中島 それは真理ですね。仲裁はすごく重要だし、徹底的に勝たないのと同時に、負けないってすごいことですね。手前味噌になりますが、『かたづの!』はとても弱い立場の女大名・祢々が、自分の小さな領土を守る話ですが、彼女は結局、勝ったのかといえば、勝ってはいないんです。では負けたのかというと、いろいろなところで絶対に譲らなかったことがあって、負けてもいない。
『かたづの!』を書きながら、勝負を決めようとするのではなく、「負けない」という方法があって、それをやることで勝ちはしなくても守れるものがあることを、私はその四百年前の祢々に教えてもらいました。だから「ゴリラは負けない」と、山極さんの本で読んだとき、ああそうか、負けないという文化は自然の中にも存在するんだな、と強く思って。
山極 勝つかどうかはパワーゲームだから、勝てば勝つほど不安になるんですよね。台頭してくる勢力をつねに押さえつけておかないと、自分の地位を守れないわけだから。勝ちにこだわることほど、貧しい精神世界はないですよ。でも「負けない」という姿勢なら、相手をやっつける必要がない。対等であればいいんだから、不安にもならない。相手との了解事項を作ることが負けない工作なんです。
攻撃性は本能なのか?
中島 ところで政治家はよく「必要な戦争がある」という言い方をしますが、攻撃性は人間が本能として持っているものなんでしょうか。
山極 違うと思います。オバマ大統領がノーベル平和賞の受賞演説をオスロでやったときにも「人類は古い時代から戦争と共にあり、戦争は平和をもたらすうえで有効な手段となりうる」といった発言をしましたが、それは間違いです。何故かというと、人類が武器を持って同種を殺した歴史はたかだか一万年しかない。
オバマの言う「古い時代」がいつなのかわかりませんが、おそらく彼が参照しているのは『2001年宇宙の旅』でしょう。この映画はレイモンド・ダートという学者が言い出した説をもとにして、人間は狩猟生活に移行するときに、戦い合うようになったとしているんですが、この説そのものがすでに学術的には否定されています。多くの化石・人類学者が反証を出している。にもかかわらず、いまだにいろいろな人が依拠している。「戦争が平和をもたらす手段」なんて、「原子力の平和利用」みたいな言い方です。
中島 言葉のマジックですね。言葉だけが一人歩きして、説得力ありそうに思わせてしまう。山極さんは、人間が言葉を持ったことはトラブルの元だというようなことを、あちこちでおっしゃっています。
山極 言葉を持ったってことは、本当に劇的に世界を変えたんだと思いますね。でも、こういうこと、作家を前に言っちゃ失礼なんだけど、人間の歴史の中では、言葉は比較的新しいものだからね。安っぽいんですよ。嘘もつけるし、誤解も生む。
中島 そうすると山極さんは、言葉が生まれたよりもっと昔に立ち戻れば、人間の暴力性みたいなものは決して最初からあったものではないと考えていらっしゃる?
山極 と、僕は思ってますよ。人間はその本性からして暴力的な動物なのか、あるいは穏やかで温和で平和を愛する動物だったのに、どこかで暴力的な行為を始めたのか。自分たちに都合よく「必要な戦争だ」という政治家に対して、科学者は証拠をあげて、それが正しい判断なのかどうか、答えなくてはいけないと思います。
文化装置としての「家族」
中島 山極さんは「家族が大事だ」ということを、いろいろなところでおっしゃっています。私も「そうだな」と思う一方、最近は明治時代の家族観のようなものを押し付けてくる風潮に、息苦しさも感じるんです。
山極 「家族の幻想を押し付ける」と、よく批判されるんですが、僕は家族を狭く考えてはいないんです。父親と母親と子どもがいれば、それで家族になるわけじゃなく、家族とはもっと意識的に、いわばバーチャルにつくられるものだと思います。男同士でも、女同士でも、子ども同士でもいい。自分の時間を分け与え、対価を期待せずに、共に長い時間を過ごす相手。それが家族だと僕は考えるんです。「あなたに自分の時間を使ってもらうことそのものが幸福だ」なんて、これほど割にあわない話はない。けれど人間は高い共感力を、家族に対してなら発揮できる。家族を核として、それが複数集まった共同体があるのが、人間社会の最低条件です。これは人間に固有のもので、チンパンジーやゴリラにもない。ゴリラは家族的な集団はあるけれど、それだけ。チンパジーは共同体はあるけれど、家族がない。どちらかしかないんですよ。
中島 自分だけの時間を少し犠牲にしても、この人と過ごそう、二人の子どもを育てようと思える集団=家族と、もう一段大きな、いろんな家族の集まる共同体を持つという二重構造を、人間がつくることにしたのはどうしてなんでしょう。
山極 その原因は子育てにあると思います。人間の子どもはゴリラの子どもに比べて大きい。大人のゴリラは二百キロを超えるし、メスでも百キロはあります。でも子どもは一・八キロしかない。人間の子どもは三キロ以上あるうえにひ弱で、目も見えず、母親に掴まることもできず、成長速度が遅い。それなのに人間は多産で、年子でも生まれる。ゴリラの出産は四、五年に一度です。
中島 成長も遅いとなると、母親ひとりで子育ては無理ですよね。父親と共同でも足りず、ほかの家族と協力するようになったんですか?
山極 人間は約二百万年前に脳を大きくし始めました。でも、二足歩行が完成して、骨盤の形が変わり、狭い産道で大きな頭の子どもを産めなくなったので、生まれたあとに脳を増長させる必要が出てきた。そうなると、脳はエネルギーを食う器官だから、身体の成長が遅くなる。家族が集まって、共同で子育てをする必要があり、その結果できたのが人間の社会です。だから共同の子育ては、人間の社会と深い関わりがあるんです。
中島 社会で子どもを育てるのは、二足歩行以来の伝統なんだ! そこは強調して言っておきたいですね。
山極 人間の赤ちゃんが泣くのも、共同体で子育てをするように生まれついた証です。ゴリラもチンパンジーも、赤ちゃんは泣きません。すごくおとなしいんですよ。
中島 人間の赤ちゃんは、「世話して」って泣いているわけですね。
山極 そう。なぜなら赤ちゃんはお母さんを離れて、誰かの手に渡るから。つまり共同体で子育てをするという意味なんです。赤ちゃんを泣きやませるために、人間は音楽的な声を出した。それが音楽の起源じゃないか、と私は思っています。いろいろな人が優しい声を出し、赤ちゃんはその声によって、お母さんに抱かれているような安心感を得たんじゃないでしょうか。
中島 お母さんがずっと赤ちゃんと一緒だったなら、赤ちゃんは泣かなくていいんですもんね。子守唄は人間が共同体で生活するという知恵を獲得した証だとも言えそうですね。
山極 言葉の前に歌があり音楽があった、とつねづね言っているんですが、音楽は感情を伝えます。その点で、中島さんが『長いお別れ』で書いていた、認知症老人のコミュニケーションの話は面白かったですね。言葉が破壊されても、認知症老人の気持ちや雰囲気は家族に伝わっている。
中島 認知症の場合、言葉を忘れても、感情はずっと残るんですよね。意味をなさない言葉を並べて話しかけてくれて、「慰めようとしてくれているのかな」と思うようなことがあったりする。それは認知症の父の介護をしていて印象的な経験でした。
山極 妻の母親が亡くなる前、認知症で娘の顔もわからなくなったら、昔の記憶や死んだ人も話に出てきたんですよ。人間にとって視覚は非常に重要なので、見えるものだけが現実世界を構成しているように思いがちです。でも本当は、記憶など、見えない存在も受け入れながら、人は実在感のある世界を形作っているはず。認知症の老人は、現実からちょっとずれた、見えない世界へ行ってるんじゃないか。だから、彼らの意味をなさない言葉も、あるいは、予言となったり、なにか人を力づけたり、サジェスチョンを与えることがあるんでしょう。
中島 考えてみたら、サルやゴリラの世界には、人間のような長寿はいませんよね。老人というのは、人類の歴史ではいつごろ出現するんですか?
山極 介護は人類の進化の中で非常に新しい出来事です。老齢者の骨が遺跡に増えるのは三万年前で、言葉が登場してから。
中島 え、じゃあ、言葉の出現といっしょなんですか!
山極 おそらく言葉が生まれたことで、人間は世代を超えて経験を共有し、老人が教訓や知恵を言葉として伝えられるようになった。
中島 後進に教訓や知恵を残そうと思ったら、言葉や文字は有益なものですものね。人間が言葉を持ったのも、まんざら捨てたものではないのかもしれません(笑)。
山極 たとえばもう語れないとしても、老人の存在そのものが「この人は大災害を生き延びて、ここにいるんだ」と、勇気づけてくれる。その意味は大きいでしょう。
中島 お話を伺っていると、老人の存在と、ゴリラの存在は似てる気がしてきます。私たちの過去につながっていて、言葉はなくても、とても重要なことを教えてくれるっていう意味で。
山極 大事件や事故があると「想定外」って言うでしょう? だけど、未来に起こることはみんな「想定外」なんだよね。
中島 扉をあけたら「想定外」!
山極 そういうときに、大事なのは、ベストを選択することじゃない。間違わないことです。振り返って、ベストではなかったかもしれないが、少なくとも間違った方法は選んでない、そういう選択をするために僕らができる備えは、過去を知ることなんです。
中島 過去を知らないと未来がわからない。ゴリラを知らないと、私たちの未来が読めない。いいお話を伺いました!
構成・矢内裕子
プロフィール
中島京子(なかじま・きょうこ)
1964年東京都生まれ。1986年東京女子大学文理学部史学科卒業後、出版社勤務を経て独立、1996年にインターシッププログラムで渡米、翌年帰国し、フリーライターに。2003年に『FUTON』でデビュー。2010年『小さいおうち』で第143回直木賞受賞。2014年『妻が椎茸だったころ』で第42回泉鏡花文学賞受賞。2015年『かたづの!』で第3回河合隼雄物語賞、第4回歴史時代作家クラブ作品賞、第28回柴田錬三郎賞を受賞。『長いお別れ』で第10回中央公論文芸賞を受賞。
山極寿一(やまぎわ・じゅいち)
1952年東京都生まれ。1975年京都大学理学部卒、80年同大学院理学研究科博士後期課程研究指導認定退学。理学博士。カリソケ研究センター客員研究員、財団法人日本モンキーセンター・リサーチフェロー、京都大学霊長類研究所助手、同大学大学院理学研究科教授を経て、2014年10月同大学総長に就任。専門は、人類学・霊長類学。著書に『ゴリラ 森に輝く白銀の背』『暴力はどこからきたか 人間性の起源を探る』『家族進化論』『「サル化」する人間社会』など。
豪華執筆陣による小説、詩、エッセイなどの読み物連載に加え、読書案内、小学館の新刊情報も満載。小さな雑誌で驚くほど充実した内容。あなたの好奇心を存分に刺激すること間違いなし。
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初出:P+D MAGAZINE(2016/06/20)