連載第8回 「映像と小説のあいだ」 春日太一

 小説を原作にした映画やテレビドラマが成功した場合、「原作/原作者の力」として語られることが多い。
 もちろん、原作がゼロから作品世界を生み出したのだから、その力が大きいことには違いない。
 ただ一方で、映画やテレビドラマを先に観てから原作を読んだ際に気づくことがある。劇中で大きなインパクトを与えたセリフ、物語展開、登場人物が原作には描かれていない――!
 それらは実は、原作から脚色する際に脚本家たちが創作したものだった。
 本連載では、そうした見落とされがちな「脚色における創作」に着目しながら、作品の魅力を掘り下げていく。


『椿三十郎』
(一九六二年/原作:山本周五郎/脚色:黒澤明、菊島隆三、小國英雄/監督:黒澤明/製作:東宝)

映像と小説のあいだ 第8回 写真1

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「おい、おめえたちも大人しく鞘に入っていろよ!」

 ある藩では、次席家老の黒藤(志村喬)が藩政を専横し、汚職まみれの悪政により庶民を苦しめていた。それに対し、城代家老(伊藤雄之助)の甥・井坂(加山雄三)ら若い藩士たちが決起する。だが、黒藤は大目付を使って城代を拉致、自らの罪を城代に転嫁しようと画策していた。ひょんなことから謎の浪人(三船敏郎)が若者たちに協力、その巧みな献策により城代を救出し、黒藤らを打倒していく――。

 以上が、映画『椿三十郎』の大まかな流れだ。ここに関しては、山本周五郎の原作『日日平安』もほとんど変わらない。

 ただ、全く異なるのは主人公である浪人の設定である。

 原作では菅田すげた平野ひらのという名前で、掴み所なく飄々とした人物像として描かれている。それに対して映画の役名はタイトルと同じ「椿三十郎」だ。これは前年に黒澤明が撮った映画『用心棒』の続編として作られたためで、三十郎のキャラクターは前作に続いて豪傑無頼に変えられている。

 また、主人公が若侍たちに協力することになる理由も、それに合わせて脚色されている。

 原作の菅田は二十九歳とまだ若い。そのため、野心がある。井坂を煽って騒動を大きくし、手柄を立てて仕官する狙いなのだ。一方、映画の三十郎は「てめえらのやることは、危なっかしくて見ちゃいられねえや!」と、あくまで純粋に若侍たちを助けるためであり、仕官する気など全くない。

 それをよく表わしているのが自身の名前を名乗る場面だ。原作では、自身をアピールするためにあえて大きめな声で本名を名乗る。だが、三十郎は、なかなか名乗ろうとしない。そして、上映時間の三分の一が過ぎてからようやく名前を明かすのだが、この時、隣家に見える椿を眺めながら「椿三十郎」と名乗っている。ちなみに前作では桑畑を見て「桑畑三十郎」を名乗っており、さらに本作でも「もうすぐ四十郎だがな」と付け加えていた。つまりその場の思いついた偽名を名乗っているのであり、自身を売り込んで仕官する気など全くないのだ。

 また、二十九歳の菅田が「もうすぐ四十」の三十郎へと年齢設定が変わったことで、若侍たちとの関係も異なるものになった。どちらも軍師的に策をさずける立場なのだが、原作ではほぼ同年代のため、対等もしくは少し下手気味の姿勢で若侍たちに話しかけている。それに対して映画では、百戦錬磨の三十郎が未熟な若者たちを導く――という関係性で貫かれていた。

 作戦に際しての方針も異なる。菅田が「人を斬らずに成就する」(といっても人道的理由ではなく保身のため)を掲げているのに対し、三十郎はピンチになればいくらでも相手を斬りまくる。

 つまり、映画は困ったら最強のヒーローである三十郎が刀で解決するのである。ただ、観客がそのことを強く認識してしまうと、危機感が薄れて物語が盛り上がりにくくなりかねない。

 そうならないよう、二つの大きな脚色が施してある。

 まず一つは、悪党側にも助っ人を新たに創作していることだ。それが大目付の腹心・室戸半兵衛(仲代達矢)。原作では主人公の策にやられっ放しだった悪党側だが、そこに三十郎に負けず劣らずの知勇に優れた半兵衛を加えたことで、原作では簡単に成功した策略が次々と見破られていくのである。また半兵衛の策謀により、三十郎や若侍たちは何度も危機に陥ることもあった。この強敵の登場により、「半兵衛の目をいかにかいくぐるか」という緊迫感が生まれ、物語は大いに盛り上がることになったのだ。

 そして、最強の三十郎でも負けるかもしれない――という危機感を生み出したもう一つの脚色は、若侍像だ。

 主人公の前には半兵衛という強敵が現われた一方で、味方であるはずの若侍たちはさらに頼りなく描かれているのだ。

 原作の若侍たちは、物わかりよく菅田に従う。出番は少ないが、それぞれに剣の腕前などの能力にも長け、味方として頼りになる。

 ところが、映画では徹底して未熟だ。いつも青臭く、直情的で思慮が足りない。そのくせ、必ずしも三十郎を信頼しきってはいない。そのため、悪党側にいいように騙されたり、勝手なスタンドプレーに出たりして、何度もドジを踏んでしまう。その度に三十郎が尻拭いをするしかなく、時には三十郎が危機に落ちることもあった。

 強敵の存在と頼りない若侍。この二つの脚色は、物語の緊迫感を盛り上げるだけでなく、ラストに大きなドラマを生むことになる。

 全てが解決した後、主人公は人知れず去る。この展開は、原作も映画も同じだ。ただ、原作の菅田は良心と欲との間で葛藤し続け、最後は井坂に引き留められたことで再び藩へと戻っていく。それに対して映画は三十郎が「あばよ!」と言って悠然と去る画で終わる。

 では、なぜ三十郎は去ったのか。実は、本作で「未熟」なのは若侍たちだけではなった。三十郎もそうなのだ。人を斬ってばかりいる三十郎は物語中盤、城代の奥方(入江たか子)に、こう諭される。

「すぐ人を斬るのは悪い癖ですよ」


「あなたはなんだかギラギラし過ぎてますね」


「あなたは鞘のない刀みたいな人。よく斬れます。でも、本当にいい刀は鞘に入ってるもんですよ」

 それに対して、三十郎な苦々しい顔をするだけで、何も言い返すことができない。

 では、三十郎はそう諭されて「いい刀」になるために改心するかというと、それはできない。一度「抜き身」として刀身を血で汚した刀は、もう元の鞘に戻ることなどできないのだ。今さら鞘に収まった人生など、送ることはできない。抜き身のまま斬りまくり、やがて使い捨てられる末路があるのみだ。

 そんな運命を予感させるのが、ラストシーンだ。全てが解決したにもかかわらず、怒りが収まらなかった半兵衛は三十郎に決闘を申し込む。

 半兵衛ほどの才覚があれば、他藩に改めて仕官することもできるはずだ。だが、それができない。彼もまた「抜き身」でしか生きられないのだ。腕が立つからこその、皮肉な運命がそこにはある。

 斬りたくない相手を、戦う理由もなくなったのに、三十郎は斬らなければならない。そして抜き身でいる限り、その運命からは逃れることはできない――。決闘に敗れ、血溜まりに横たわる半兵衛を見つめる三十郎苦い表情からは、そこに倒れているのは自身だったかもしれない、いずれは自分もそうなるかもしれない――そんな、抜き身でしか生きられない者の哀しさが伝わってくる。

 半兵衛の遺骸を見つめながら、三十郎は若侍たちにこう諭す。

「こいつは、オレにそっくりだ。抜き身だ。こいつもオレも鞘に入ってない刀だ。でもな、あの奥方の言った通り、本当にいい刀は鞘に入っている」

 そして、続けて発せられたのが、冒頭のセリフである。

 これまで三十郎は頼りない若者を助け、導いてきた。が、最後の最後に「絶対に自分みたいになるな」と伝えているのだ。

 ヒーローとしての活躍をみせ、悠然と去っていくように見えながら、その背中にはどこか切ない哀愁が漂っていた。

【執筆者プロフィール】

春日太一(かすが・たいち)
1977年東京都生まれ。時代劇・映画史研究家。日本大学大学院博士後期課程修了。著書に『天才 勝進太郎』(文春新書)、『時代劇は死なず! 完全版 京都太秦の「職人」たち』(河出文庫)、『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』(文春文庫)、『役者は一日にしてならず』『すべての道は役者に通ず』(小学館)、『時代劇入門』(角川新書)、『日本の戦争映画』(文春新書)、『時代劇聖地巡礼 関西ディープ編』(ミシマ社)ほか。

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