吉川トリコ「じぶんごととする」 3. ピザはすし

吉川トリコ じぶんごととする 3 ピザはすし


美味しんぼ

『美味しんぼ』1〜76
作/雁屋 哲 画/花咲アキラ
小学館文庫

 雁屋哲・原作、花咲アキラ・作画による『美味しんぼ』は、一九八三年に「ビッグコミックスピリッツ」で連載を開始している。世を席巻する軽薄なグルメブームへの批判のつもりではじめたと雁屋哲は語っているようだが、『美味しんぼ』で得たうんちくを鵜呑うのみにし、物知り顔で語ってきかせる軽薄なグルメ気取りを結果的に増産してしまったというのはなんたる皮肉だろう。

 一九七七年生まれの私は、『美味しんぼ』の影響をどっぷり浴びて育った世代である。近所のお好み焼き屋や中華屋にいくと、必ずと言っていいほど表紙が油でべとついた『美味しんぼ』が全巻ずらり揃えられていた。テレビアニメは五年にわたって放送されていたし、実写化も三度されている。佐藤浩市が山岡を、三國連太郎が雄山を演じる実の親子共演(しかも双方に確執があり、山岡と雄山そのままの関係性)ということで当時かなりの話題になった映画版はもちろん、単発ドラマシリーズの唐沢寿明版も見たが、あいにく松岡昌宏版だけ見のがしている。

 我が家には『美味しんぼ』の単行本が何冊もあった。「『美味しんぼ』を読みながら飯を食うと、二割増しぐらいうまくなる」という謎のライフハックを妹が実践していたからである。その効力を私は実感したことがないのだが、あれだけあちこちの飲食店に置かれているぐらいだから、同じことを感じている人は妹のほかにもたくさんいるのかもしれない。

 今回改めて何冊か読み返して驚いたのは、『美味しんぼ』に描かれている料理があんまりおいしそうではないことだった。子どものころは登場人物の説明台詞でねじ伏せられていた感があったのと、出てくる料理のほとんどが食べたこともなければ見たことも聞いたこともないような殿上人の食べ物ばかりで、味の想像がほとんどつかなかったというのもあるのだろう。とにかく大人がこんなにわあわあ騒いでいるんだから、さぞおいしい食べ物なんだろうと思いながら読んでいたようなところがある。

 それから、まさかこんなにも農薬の危険性を高らかにうたいあげているとは思いもしなかった。子どものころは読み飛ばしていたのか、それとも知らず知らずのうちに情報として呑み込んで、農薬に対する危機感をあおられていたのかもしれない。現在、多くの人がなんとなくのイメージで無農薬を善なるものと思い込んでいるのは、『美味しんぼ』の影響なのではないだろうか。なんとなくおしゃれなかんじのする「オーガニック」の土壌をたがやしたのが『美味しんぼ』だなんて……!(ちなみにだけれど、『美味しんぼ』に描かれている農薬の知識はほとんど眉唾であること、無農薬の野菜が必ずしも体にいいとはかぎらないことは忘れずに書きくわえておきたい)

 いまではすっかりインターネット・ミームと化してしまった感はあるが、『美味しんぼ』から受けた影響は数えきれない。長らく私は生ガキに白ワインを合わせる人間を俗物だと思っていたし(いまではすすんで白ワインを合わせます)、エビスだけがほんもののビールだと思い込んでいた(いまはアサヒのスーパードライがいちばん好きです)。いまでも干物の骨についた薄い膜は必ずはがして食べるようにしているし、揚げ物は音が変わった瞬間に油から引き上げるべきだと思っている。「米の飯をグイグイ飲み込む快感」という既知の感覚に言葉をあたえてくれたのも『美味しんぼ』であった。

 あと、これは食に関することではないけれど、黒いスーツに細い黒ネクタイを合わせていれば、たとえそれがエディ・スリマンのデザインしたものでも頭に思い浮かぶのは山岡である。ディオールだろうとサンローランだろうとセリーヌだろうとすべて山岡に変換される。刷り込みというのはおそろしいものである。

 モラハラという言葉がまだ存在しなかった時分に、海原雄山というモラハラそのもののような存在を知ることができたのも『美味しんぼ』のおかげかもしれない。うちの養父は母の作った料理に点数をつけるようなくそモラハラ野郎であった。母の作ったおかずに箸をつけ、「うん、今日は七十点だね」「今日の肉じゃがはよくできてる、八十五点」などと平然と言ってのける養父の姿を見るたびに私は愕然とし、「モラハラ」という言葉こそ知らなかったが「なんだこの海原雄山気取り」と思ったものである。

 そう考えると、料理にジャッジを下すというのは、長らく家長にだけ許された特権だったのかもしれない。その特権性を白日のもとにさらし、戯画化するために生まれたのが海原雄山であり、山岡士郎なのである——というのはさすがにうがちすぎだろうか。


吉川トリコ(よしかわ・とりこ)

1977年生まれ。2004年「ねむりひめ」で女による女のためのR-18文学賞大賞・読者賞受賞。2021年「流産あるあるすごく言いたい」(エッセイ集『おんなのじかん』所収)で第1回PEPジャーナリズム大賞オピニオン部門受賞。22年『余命一年、男をかう』で第28回島清恋愛文学賞を受賞。著書に『しゃぼん』『グッモーエビアン!』『戦場のガールズライフ』『少女病』『ミドリのミ』『光の庭』『マリー・アントワネットの日記』シリーズ『夢で逢えたら』『流れる星をつかまえに』『あわのまにまに』など多数。
Twitter @bonbontrico


 

作家を作った言葉〔第20回〕上村裕香
◎編集者コラム◎ 『サルデーニャの蜜蜂』内田洋子