【先取りベストセラーランキング】野生動物学者の処女作に注目! ブックレビューfromNY<第40回>

アフリカの野生動物研究者

今月は、ロング・セラー24週目入った“Where the Crawdads Sing”を取り上げたいと思う。著者デリア・オーウェンズ[3]はジョージア州南部で生まれた。アウトドア好きの母親から、自然の中で動植物と親しみ、危険からは身を守ることを教えられて育ったデリアにとって、自然は友人であり真の仲間だった。子供の頃から書くことも好きだったが、ジョージア大学では、文学ではなく科学を勉強した。そしてカリフォルニア大学デービス校で動物行動学の博士号を取得している。

1974年からデリアと夫マーク・オーウェンズはボツワナのカラハリに滞在した。キャンプを設置し、ふたりは野生動物(特にライオン、ハイエナ、ジャッカル)の研究を行った。ここでの野生動物研究者としての生活をテーマにデリアは夫と共著でノンフィクション“Cry of the Kalahari”を1984年に出版、この本は世界的なベストセラーとなり、翌年ジョン・バロウズ賞(メダル)を授けられた。

1985年から1997年まで、オーウェンズ夫妻はザンビアに滞在して、野生動物、特に象の研究を行った。そして、通算23年間行ってきたアフリカにおける絶滅危惧種の研究成果を折々に「ネイチャー」などの科学雑誌に投稿してきた。

現在デリア・オーウェンズはアイダホ州で自然に囲まれた生活を送っている。“Where the Crawdads Sing”は彼女の小説家としてのデビュー作品となる。

湿地帯の娘

ノースカロライナ州の海岸沿いには広大な湿地帯(marsh)が広がっている。marshもswampも日本語に翻訳すると「湿地」であり「沼地」になってしまうが、この小説によれば、marshは草が生えていて、周期的に冠水し、わずかであっても水が流れている。marshのところどころにswampが点在する。swampは常に冠水していて水に動きがないため、草が生えず水面が黒ずんで見える。このコラムでは、marshを「湿地帯」と訳し、swampを「沼地」と区別する。

1969年10月30日、ノースカロライナ州の湿地帯の中にある町バークレイコーブの近くに建っている古い火の見櫓の真下で、この町に住んでいるチェース・アンドリュースの死体が発見された。どうやら火の見櫓からの墜落死のようだったが、指紋や足跡などの手掛かりは一切なく、簡単に自殺か他殺か事故死かの特定ができなかった。しかし、次第に町の人々の間では湿地帯にひとりで住んでいる「湿地帯の娘」と呼ばれていた若い女性が犯人ではないかとささやかれるようになっていた。

この小説では、1969年10月30日のチェースの死体発見から事件の捜査状況の進展のストーリーと、犯人ではないかと疑われ、「湿地帯の娘」と呼ばれていたカイア(Kya)の1952年8月からストーリーが交互に語られる。

1952年8月のある日、当時6歳のカイアは、よそ行きの服を着てハイヒールを履いた母親が旅行鞄を持って去っていく後ろ姿を目にし、それが母を見た最後だった。その後、父の暴力といら立ちの矛先は子供たちに向けられ、母が去って数週間のうちに上の子供3人(2人の姉と1人の兄)が次々と家を出て行った。残された7歳年上の兄ジョディとカイアはしばらくの間、父と3人で暮らしていた。しかしある日、父からひどく痛めつけられたジョディも、ついに耐えきれないと家を出て行った。飲んだくれの父親とふたりきりになったカイアは、6歳ながら母の真似をして父とふたり分の食事を用意せざるを得なかった。さすがに父親は6歳の娘に暴力をふるうことはあまりなく、朝食を食べると外出し、カイアが寝てしまった夜遅く酔っぱらって帰ってくるという日々が続いた。数日間家に戻らないこともしばしばあった。カイアは毎週月曜日に父親から渡される1ドルのコインで、1週間分の食料を賄うよう言われていて、バークレイコーブの町まで歩いていき、1週間分の食料を調達した。そうこうするうちに秋になり、カイアは7歳になった。

父親ジェイクはノースカロライナ州アッシュビルの裕福なプランテーション経営者の家に生まれたが、大恐慌(1929-1939)の時、一家は財産をすべて失った。大学へ進んで弁護士になる夢を持っていたジェイクだったが、学校をやめて黒人たちと一緒にたばこ農園で労働者として働かざるを得なかった。まだ一家が裕福だった時、ジェイクはアッシュビルにたまたま遊びに来ていたニューオーリンズの裕福な靴工場主の娘マリアと親しくなっていた。たばこ農園で働いていたジェイクはある日、自分の家に少しだけ残っていた高価な品(曾祖父の金時計とか、曾祖母のダイアの指輪とか)を持ち出し、ニューオーリンズへ行ってマリアにプロポーズし、ふたりはマリアの父親の反対を押し切って結婚をした。家から持ち出した宝石類を売ったお金はすぐになくなり、ジェイクはマリアの父親の工場で働き始めた。しかし、ジェイクの期待とは裏腹に、マリアの父親は娘婿に高い地位を与えず、ほかの従業員と同じ扱いをした。次第にジェイクは仕事に身が入らなくなり、夜学に行って高校卒業をするという約束も果たさないまま、アルコールにおぼれていった。しかしその間、1934年から1940年までの間にジェイクとマリアの間には4人の子供が生まれた。そして第2次世界大戦に招集されたジェイクは、爆弾で左脚を負傷し、名誉の除隊となった。ニューオーリンズに一旦戻ったジェイクだったが、マリアの父親の靴工場で再び働く気はさらさらなく、すぐにマリアと子供たちを連れてノースカロライナに戻り、友人の亡くなった父親が魚釣りをする時に使っていた古ぼけた小屋に住むと宣言し、以後ずっとその小屋に家族で住み続けた。軍からの障害者年金が唯一の収入源のジェイクは定職を持たず、高校も卒業せず、毎日アルコールが切れることはなかった。

1956年の冬、カイアが10歳の時、父親のジェイクは出かけたまま戻ってこなかった。そして湿地帯の小屋でのカイアのひとり暮らしが始まった。カイアは、父の残したエンジン付きボートに乗って湿地帯を自由に動き回るようになった。少ないとはいえ毎週父からもらっていた食費1ドルがなくなったので、ムール貝を拾い、父がボートのエンジン用ガソリンを買っていたジャンピンの店にそのムール貝を売った。そしてその店でボートのガソリンを補充し、食料品やその他の最低限の必需品を調達した。カイアは次第に町まで行かなくなり、ボートで直接行けるジャンピンの店で、すべてを済ますようになっていた。黒人のジャンピンと妻のマベルはひとりぼっちになったカイアをかわいそうに思い、教会で集めた古着を折に触れてカイアに与え、面倒を見た。そうしてカイアはひとりで湿地帯の自然の中で暮らし続けた。彼女にとって湿地帯の自然そのものが家族のようなものだった。

カイアをめぐるふたりの若者

1960年、カイアは14歳になっていた。学校に行っていないカイアは、いまだに読み書きや計算ができなかったが、湿地帯の自然の中で暮らす限り何の支障もなかった。父親がいなくなった前後から、カイアはボートで湿地帯を動き回っている時、魚釣りをしている野球帽をかぶった金髪の少年に気付いていた。名前はテート、幼い時、兄のジョディとよく遊んでいた少年だった。14歳になったカイアと4歳年上のテートはふたりとも湿地帯の自然が大好きで次第に親しくなっていった。そしてある時、カイアが読み書きできないことを知ったテートは、カイアに文字を教え始めた。幼い時、交通事故で妹を失ったテートは、カイアが妹のように思えた。夏休みの間、テートは父親のエビ漁を手伝い、友達と会う時間以外はカイアに勉強を教えて過ごした。そして秋、カイアの15歳の誕生日に、テートはバースデーケーキとともに自然観察のための虫眼鏡や自然を描写するための絵具と絵筆をカイアにプレゼントした。しかし、高校3年生になったテートは次の年の5月にはノースカロライナ大学に進学するため故郷を離れることになっていた。夏休みには家に戻ってくるから、7月4日の独立記念日にはカイアに会いに来ると約束したテートだったが、約束の日には、ついにカイアの前に現れなかった。そしてその夏中、そのあともずっと姿を現さなかった。

1965年夏、19歳のカイアは背が高くなり、長い脚と大きな黒い目の美しい娘に成長していた。高校時代アメリカン・フットボールの選手で、卒業後は父親の自動車店の手伝いをしているチェース・アンドリュースがカイアに目をつけてピクニックに誘うようになった。テートのことで男性不信に陥っていたカイアは、なかなか誘いに乗らなかったが、次第に打ち解け、ふたりは親しくなっていった。チェースが結婚をほのめかすようになり、カイアも真剣にチェースとの結婚を考え始めるようになっていたが、彼は決してカイアを両親にも友達にも紹介しなかった。そして1967年になり、ある日、カイアはチェースが地元の名士の娘パール・ストーンと婚約したという新聞記事を見てショックを受けるのだった。

1969年10月、チェース・アンドリュースの死体が発見された後、捜査にはかばかしい進展は見られなかったが、人々の疑いの目はカイアに集中した。そしてついにカイアはチェース・アンドリュース殺人容疑で逮捕され、裁判にかけられたのだった。

美しい自然と人々の偏見

この本の読者は、ノースカロライナの湿地帯の美しい自然描写に心を奪われるだろう。豊かな水源に恵まれ、カモメ、鷺、ハミングバード、ワイルド・ターキー、フクロウなど様々な野鳥、そしてトンボ、蝶、蛍などの昆虫が飛びかっている。自然の中でカイアは自由に生き生きと動き回り、鳥、昆虫、植物を愛で、観察し、絵に描いていく。文字が読めるようになってからは、公共図書館で自然科学の本を借りて読み、自然科学に関する知識も深めていった。そしてついにはカイアの描いた動植物の絵と観察文はシリーズ本として出版されるようにまでなる。

にもかかわらず、町の人々のカイアを見る目は相変わらず偏見に満ちていた。1964年の公民権法成立前後の南部ノースカロライナ州の田舎町では、まだ白人と黒人の住むエリアに明確な区別があり、レストランも「白人オンリー」という差別が存在した。黒人でありながら自分の店を持っている成功者といえるジャンピンにしても、町では白人の子供たちから悪態をつかれても黙っているしかなかった。差別や偏見に疑問を持たない人々にとって、白人であっても自分たちになじまず、ひとり湿地帯に住むカイアは、やはり偏見の対象だった。そんな環境で、カイアは状況証拠だけで逮捕され、陪審員裁判にかけられた。

果たして裁判の行方は?
そしてテートとカイアの関係にも新たな進展が?
最後に示唆されるチェース・アンドリュース事件の意外な犯人とは?

自然の美しい描写、その中で少女が大人の女性として成長していく物語、そして殺人ミステリー。読者にとって最後まで興味の尽きない一冊となっている。

ちなみに、タイトルの“Where the Crawdads Sing” (ザリガニが鳴くような場所)はアウトドア好きだった著者の母親が子供のデリアに、森の奥深く入っていきなさいと励ました時に使った表現から来ていて[4]、この小説の中ではテートがこの表現を使い、カイアが「昔、母も同じ言葉を使ったけれど、どんな意味なの?」とテートに聞く場面がある。「動物が野生に戻り、動物らしく行動するほど自然の奥深く」というような意味だ、とテートはカイアに説明している。

[3]https://www.deliaowens.com/about-the-author
[4]https://www.deliaowens.com/about-the-author

佐藤則男のプロフィール

早稲田大学卒。米コロンビア大学経営大学院卒(MBA取得)。1971年、朝日新聞英字紙Asahi Evening News入社。その後、TDK本社およびニューヨーク勤務。1983年、国際連合予算局に勤務し、のちに国連事務総長となるコフィ・アナン氏の下で働く。 1985年、ニューヨーク州法人Strategic Planners International, Inc.を設立し、日米企業の国際ビジネス・コンサルティングを長く手掛ける。この間もジャーナリズム活動を続け、ヘンリー・キッシンジャー元国務長官、ズビグニュー・ブレジンスキー元大統領補佐官らと親交を結ぶ。『文藝春秋』『SAPIO』などに寄稿し、9.11テロ、イラク戦争ほかアメリカ情勢、世界情勢をリポート。著書に『ニューヨークからのメール』『なぜヒラリー・クリントンを大統領にしないのか?』など。 佐藤則男ブログ、「New Yorkからの緊急リポート」もチェック!

初出:P+D MAGAZINE(2019/03/15)

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