【NYのベストセラーランキングを先取り!】アガサ・クリスティが生涯語ることのなかった“失踪事件”の謎を描く ブックレビューfromNY<第76回>

アガサ・クリスティの失踪を夫の愛人が語る

《ミステリーの女王》と呼ばれたアガサ・クリスティが没して46年になる。彼女の小説のほとんどは、日本語に翻訳されているのでファンも多いと思う。多くの小説が映画化され、『ナイル殺人事件』、『オリエント急行殺人事件』など、原作を読んでいなくても、映画で作品を知る方も多いだろう。ところで、実は彼女自身が小説さながらの失踪事件を起こしたことがあり、真相を語らぬまま亡くなったため、いまだ《未解決》のままである。1926年12月3日の夜に、アガサ・クリスティは自宅から姿を消し、翌朝、自宅の近くで乗り捨てられた愛車が見つかった。以後彼女の消息は一切途絶え、事件に巻き込まれた可能性も視野に、警察は全国規模で捜索を開始した。当時、小説家として売り出し中だったアガサの失踪だけに、新聞は報道合戦を繰り広げ、人々の興味を掻き立てた。最愛の母が亡くなり、夫婦関係の悩みが加わり落ち込んでいたという自殺説、本の売り上げを上げるための自作自演説、愛人と結婚したがっていた夫による殺人説など、さまざまな憶測が乱れ飛んだ。そして12月14日、アガサは警察に保護された。彼女は、夫アーチボルド・クリスティの愛人の名前でホテルに滞在していた。どのようにしてこのホテルに滞在することになったのか? 11日間何をしていたのか? アガサは生涯、この件に関する詳細を語らなかった。

ご紹介するニーナ・デグラモンのThe Christie Affairは、このアガサ・クリスティの失踪を題材にしている。アガサの失踪11日間の出来事を、アガサの夫アーチー(アーチボルド)の愛人だったナン・オディアが語るスタイルで書かれたこの小説は、もちろん史実ではない。いわゆる歴史小説というものでもなく、「この物語は空想的な歴史といったようなもの[2]」とデグラモンは巻末で述べている。小説では、アガサと夫アーチーは本名で登場するが、実在のアーチーの愛人ナンシー・ニールは、作中のナン・オディアとは全く違うバックグラウンドを持つ女性だった。アガサの娘も、年齢は同じだが別の名前で描かれ、アガサに忠実な住み込みの秘書なども実在した人物とは名前が違う。

物語は、失踪前日の12月2日(木)から始まる。アーチーは、愛人ナン・オディアと結婚するためにアガサに離婚話を切り出そうと決心し、この日の夜ロンドンのオフィスからサニングデール[3]の自宅《スタイルズ荘》に戻ったが、ドレスアップして夫の好物の夕食を用意していたアガサを相手に、離婚話を切り出すことができなかった。翌金曜日の朝、アーチーは出勤前に離婚の意思を妻に伝えた。そして、週末を友人オーウェン夫妻の別荘で過ごすから今日は戻らないと告げ、アガサを振り切って出かけた。ナン・オディアもアーチーと週末を過ごすため、夕方、オーウェン夫妻の別荘に向かった。

金曜日の夜以降、アガサを見かけたものは誰もいなかった。そして土曜日の朝、彼女の愛車が自宅近くの石灰採掘場に続く道路から外れた場所で発見され、車内にはアガサの免許証と、毛皮のコートや衣類の入ったスーツケースが残されていた。家には、アーチーと、住み込みの秘書オノリアに宛てた手紙があった。アガサ愛用のタイプライターが家からなくなっていたが、車中にタイプライターはなかった。警察からの連絡で、土曜日の朝あわててオーウェン宅からスタイルズ荘に戻ったアーチーとナンに対して、警察や秘書オノリアの態度はよそよそしかった。アーチーはナンに、しばらく離れて連絡も取り合わないほうがよいかもしれないと告げ、ナンは一人歩いてサニングデール駅まで行き、そこから鉄道でロンドンに戻った。アガサの失踪で予定は狂ったが、ナンは元から、この週末の後は1週間ほど休暇を取り、アーチーとは離れて過ごすつもりだった。

この小説は、失踪事件からずっと後に、すでにミセス・クリスティになっていたナンが、自分の視点からアガサの失踪について語るスタイルを取っている。ナンは失踪事件当時のアガサやアーチーのことを語るだけでなく、要所要所で自分の生い立ちや、第一次世界大戦によって引き裂かれた恋人のことなどを語った。

「何も思い出せない」

土曜日にいったんロンドンの自宅に戻った後、ナンは日曜日の夜には保養地ハロゲイト[4]にあるベルフォート・ホテルにチェックインした。そして滞在中、まるでアガサ・クリスティの小説のような殺人事件が起きた。ナンと関係があるのだろうか? なぜナンは身分不相応ともいえるリゾートホテルに長期滞在する予定を立てていたのだろうか? 物語はそこから急展開する。

アガサが失踪していた11日間、ナンとアガサの運命はどんどん接近し、絡み合っていった。ついに12月14日、アガサがアーチーと警察によってベルフォート・ホテルで確認された頃、ナンはこのホテルからこっそり立ち去るところだった。

アガサは初めから、ナンがアーチーを愛していないことはわかっていたが、愛してもいない男の愛人になり、結婚を望んだ本当の理由がわからなかった。しかし、ベルフォート・ホテルで警察に発見されるまでに、アガサはナンの生い立ちや悲しい過去、そしてナンが守ろうとした《秘密》を知ることとなった。その《秘密》は、アガサにとってもどうしても守りたいものだった。もうしばらくは姿を消していたかったアガサは、不注意にも見つかってしまい、失踪の真相を話せば《秘密》を守り切れないと考えて、「何も覚えていない」と話すしかなかった。

失踪から2年後、アガサはアーチボルド・クリスティと離婚し、アーチボルドは愛人ナンシー・ニールと再婚した、というのは歴史的事実である。小説の中でも1928年、アガサはアーチーへの別れの手紙を残し、娘を連れてスタイルズ荘を出た、とナンは語っている。彼女は、アガサとアーチーが離婚した後、アーチーと結婚してミセス・クリスティとなった。 

著者ニーナ・デグラモンは、アガサ・クリスティの謎の失踪という歴史的事実をベースに、諸説分かれている謎の部分に創造力と想像力を駆使し、ナン・オディアのつらく悲しい過去を描いてはめ込んだ。そして、アガサ・クリスティの小説をほうふつさせるような殺人事件まで盛り込んでいる。これはもう、読んでのお楽しみ! としか言いようがない。

著者について

ニーナ・デグラモン[5]は、大人向けだけでなく、青少年向け小説の作家でもあり、ノースカロライナ大学ウィルミントン校で、教授として創作的作文を教えている。代表作品はThe Last September、青少年向け小説ではThe Distance From Me to You、Meet Me at the Riverなど。

[2]“This story is an imaginative history of sorts……” p.310
[3]Sunningdale:イングランド南東部バークシャー州サニングデールはロンドン郊外の住宅地。世界的に有名なサニングデール・ゴルフ・クラブがあることでも有名。
[4]Harrogate:イングランドのノース・ヨークシャーの町。温泉が出るため保養地として古くから有名。
[5]Nina de Gramont – American Author – ‘The Distance from Me to You’;

佐藤則男のプロフィール

早稲田大学卒。米コロンビア大学経営大学院卒(MBA取得)。1971年、朝日新聞英字紙Asahi Evening News入社。その後、TDK本社およびニューヨーク勤務。1983年、国際連合予算局に勤務し、のちに国連事務総長となるコフィ・アナン氏の下で働く。 1985年、ニューヨーク州法人Strategic Planners International, Inc.を設立し、日米企業の国際ビジネス・コンサルティングを長く手掛ける。この間もジャーナリズム活動を続け、ヘンリー・キッシンジャー元国務長官、ズビグニュー・ブレジンスキー元大統領補佐官らと親交を結ぶ。『文藝春秋』『SAPIO』などに寄稿し、9.11テロ、イラク戦争ほかアメリカ情勢、世界情勢をリポート。著書に『ニューヨークからのメール』『なぜヒラリー・クリントンを大統領にしないのか?』など。 佐藤則男ブログ、「New Yorkからの緊急リポート」もチェック!

初出:P+D MAGAZINE(2022/03/15)

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