ヘレンハルメ美穂『運命と希望』

ヘレンハルメ美穂『運命と希望』

記録の行間から生まれた一大サーガ


 カルマル同盟の名のもと、事実上デンマークの支配下にあった15世紀のスウェーデン。そう聞いて、世界史の授業を思い出された方もいらっしゃるかもしれない。だが、圧政に苦しむ民衆を率いて反乱を起こし、スウェーデンを独立の一歩手前まで導きながらも、志半ばにして暗殺されたカリスマ指導者がいたことを、ご存じの方はどれくらいいらっしゃるだろうか。彼についてはわかっていないことも多く、なにより殺された理由がはっきりしていない。600年越しのこの謎に、なんと暗殺犯の子孫にあたる著者が小説の形で挑んだのが、本書『運命と希望』だ。

 カリスマ指導者ことエンゲルブレクトの反乱の経緯は、彼の死後に韻文で書かれた『エンゲルブレクト年代記』に詳しい。だが、記されているのは起きた出来事の数々であって、人々の性格や心理まではわからない。『運命と希望』は、記録の行間にあったかもしれない心の動きや人間関係に焦点を当てている。描き出される人々の姿は、現代の私たちとなんら変わらず人間らしい。欠点のない完璧なリーダーがときおり見せる心の揺れ。自由を求めて城という名の豪華な鳥籠を離れ、民衆の指導者に心酔していく貴族の青年。更年期を迎え、自分の人生はこれでよかったのだろうかと自問しだす女。息子ばかり愛する母親に見向きもされず悩む娘。少ない資料をもとにこれほどの物語を組み立て、多彩な人物像を築きあげた著者の手腕には脱帽するほかない。

 たとえば、登場人物のひとりにハラルドという男がいる。農夫として納めるべき税を納めなかった罰として、妻を王の代官に拷問された過去があり、エンゲルブレクトの忠実な従者として反乱に加わる、粗野に見えて冷静かつ明晰な頭脳の持ち主だ。完全に架空の人物だろうと思っていたが(庶民が歴史に名を残すことは稀だ)、彼の造型のヒントになったと思われる記述が『エンゲルブレクト年代記』に見つかった。

  馬がなければ、藁を積んだ荷車に
  女が縛りつけられることもあり
  身重の女は苦しみのあまり
  死んだ赤子を産み落とした。

 おそらくこのたった数行から、著者は女性の夫の人物像をふくらませ、エンゲルブレクトの魅力的な側近を生みだしたのだ。

 21世紀の日本人を、15世紀のスウェーデンへ連れていってくれる一大サーガ。この稀有な時間旅行を楽しんでいただけたなら、訳者としてこれほどうれしいことはない。

  


ヘレンハルメ美穂(Miho Hellén-Halme)
国際基督教大学卒、ルンド大学修士(図書館情報学)、スウェーデン語翻訳家。S・ラーソン『ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女』、M・ヨート&H・ローセンフェルト『犯罪心理捜査官セバスチャン』、A・ルースルンド&S・トゥンベリ『熊と踊れ』など、訳書多数。

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運命と希望

『運命と希望』
著/ニクラス・ナット・オ・ダーグ
訳/ヘレンハルメ美穂

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