【連載第2回】リッダ! 1972 髙山文彦

リッダ! 1972 第2回


 さて、重信房子の肩にのしかかっている問題とは、赤軍派の壊滅的状況が背景にある。
 赤軍派というのは、ひどく過激で急進的な組織であった。奥平剛士が京大時計塔の頂上に砦をつくる直前の一九六九年八月末、共産主義者同盟(ブント)から分派するかたちで結成されたが、「世界革命戦争の防御から対峙に向かう世界党、世界赤軍建設」などといった、およそ地に足をつけて考えられたものとは思えぬような遠大なスローガンを彼らはいたって大まじめに掲げていた。
 これはほとんどゲバラの思想をそっくり受け継いだようなものでもあるのだが、その難解な言いまわしを彼らが実践しようとしている行動において端的に説明するならば、首相官邸、自衛隊、警察といった公権力施設と、そこに帰属する人間にたいしてダイレクトに武力攻撃をおこない、権力中枢を混乱におとしいれる(「前段階蜂起」と彼らは呼んだ)。そして、そのいっぽうで他国の革命勢力と結びついて日本国内に革命を起こし、世界革命戦争を誘発させて世界の社会主義化を目指そうというものだ。そのために彼らは、キューバやベトナムなどを対象に海外における革命の根拠地づくり(国際根拠地論)を模索しはじめていた。
 東大闘争や日大闘争をはじめとする全国の大学や高校でたたかわれた全共闘運動の機動隊導入による敗北と挫折が、生き残りをかけた彼らをかくも先鋭化させていた。徹頭徹尾、武装闘争第一主義へと純化した赤軍派は、その急進性ゆえに、結成集会にいたるまで同じブント内の他派と抗争を演じ、結果としてひとりの死者まで出していた。
 彼らは東京における自分たちの拠点づくりにあせるあまり、高校生全共闘にまで応援を呼びかけ、明治大学の和泉校舎にいたブント議長グループに殴り込みをかけ、殴る蹴るの暴行、拉致監禁、リンチをふくむ自己批判の強要などをおこなっている。そうした陰惨な内ゲバはすでに中核派や革マル派など新左翼党派のあいだで多発しており、それまで東大闘争や日大闘争などを通じて集めていた多くの市民たちの共感を失う結果につながっていくのだが、赤軍派自身、目に余るようなあからさまな権力側の暴力的介入を目のまえにして、大衆的運動のひろがりには早晩限界が来るものと予見し、これからの権力との攻防に勝ち抜いていくためには武装部隊を形成する必要があると考えたのだ。
 結成直後の政治集会で彼らは「世界革命戦争宣言」を発し、「ブルジョワジー諸君! 我々は君たちを世界中で革命戦争の場に叩き込んで一掃するために、ここに公然と宣戦を布告する」、「君たちにブラックパンサーの同志を殺害する権利があるのなら、我々もニクソン、佐藤を殺し、ペンタゴン、防衛庁、警視庁、君たちの家々を爆弾で爆破する権利がある」などと主張した。こうしたただならぬ直截な意志表明が少なからぬ共感を呼び、赤軍派への一定の流入者やシンパを集めたのは、いまの時代からは想像もつかないことだろうけれども、じつにあっけらかんとして向こう見ずな率直な呼びかけが、みじめに敗北を噛みしめてきた若者たちの心にストレートに響いたからである。
 彼らは「大阪戦争」「東京戦争」と銘打って、警察署や交番を襲撃し、結成から二カ月後の一一月には、首相官邸への襲撃訓練のためにだいさつとうげの山荘に集まった五三人が一斉検挙され、いきなり組織存亡の危機に立たされた。この深刻なダメージを克服するために、議長のしおたかをはじめとする赤軍派リーダーたちは、キューバ革命を成就させたゲバラやカストロの運動論にならってつくりだした国際根拠地論の具体的展開を急いだ。こうして海外に革命の拠点づくりをしようとして決行されたのが、一九七〇年三月末の日航機「よど号」ハイジャック事件であった。決行者九名は北朝鮮に渡った。
 ところが、議長の塩見孝也は作戦決行直前に逮捕され(一九八三年に懲役一八年が確定、下獄。一九八九年一二月、一九年九カ月ぶりに出所した)、直後には設立メンバー全員が軒並み逮捕されて、赤軍派はいよいよ壊滅状態に追い込まれたのである。
 重信房子も五月初旬、母の日のプレゼントを買いに両親と暮らしていた東京町田の都営住宅を出たところで逮捕された。この三度目の逮捕について朝日新聞は、一九七〇年五月一〇日の朝刊一五面で彼女の顔写真つきでこのように報じている。

  赤軍派女闘士逮捕
 警視庁公安部は九日、共産同赤軍派の女性最高幹部、明大二部学生重信房子(二四)=写真=を爆発物取締罰則違反、殺人予備容疑で東京・町田市内で逮捕した。
 調べによると重信は、同派が昨年秋、鉄パイプ爆弾などを使って首相官邸を襲撃するため軍事訓練を行なったいわゆる「大菩薩峠事件」に関して昨年十月二十八日、東京都内で同派委員長、元京大生塩見孝也(二八)=日航機乗取り事件首謀者として逮捕、拘留中=ら同派幹部とともに謀議に参加した〝黒幕グループ〟の一人。同派の女性活動家の最高指揮者で、塩見らがハイジャックで地下に潜行してからは同派の組織全体を動かす重要なポストについていた〝女闘士〟だった。

「女闘士」とか「女性活動家の最高指揮者」などといった、いかにも凶暴な犯罪集団の女傑であるかのような書きかたにキワモノ的な扱いのありさまが見てとれるけれども、重信によれば逮捕容疑は口実であって、取り調べはもっぱら「よど号」事件について集中的におこなわれた。それまで彼女は救援対策や財務など合法活動を担当してきたので、極秘裏に進められた作戦計画など知る由もなく、不起訴処分となり六月に釈放された。
 彼女はしかし三度も逮捕された「赤軍派の女性最高幹部」のひとりとして、反体制運動にかかわる者ばかりか、一般社会にまでその名を知られることになった。青息吐息の組織内では会議がひらかれ、国際根拠地論を具体的に検討・実践する非合法的活動の部署である国際部の担当を彼女は要請され、引きうけたのである。
 彼女が奥平剛士のもとを訪れたのは、このような時期だった。
 いまでは本人も、「これは肥大化した観念的な論理であり、実態は、権力の攻撃に対して、他の革命の支援を受けつつ、日本革命の展望を見つけようとする防御戦であった」(重信房子『日本赤軍私史』河出書房新社)と述べているように、国際根拠地論なるものは、ついに国内への活路を絶たれてしまった赤軍派の悲鳴のようなものだったのかもしれず、しかしながら当時のリアルタイムの彼らの感情としては、武装プロレタリアートの一翼として世界に伍して戦い、世界党や世界赤軍の萌芽をつくりだしたくてうずうずしているというのが実情で、このような自己批評などを差し込む余地などなく、武装闘争による革命を一歩も後退させないという覚悟に満ち満ちていた。
 ただしリーダーの塩見孝也には、重信が言うような「防御戦」の感覚はたしかにあって、国際根拠地論の展開の急務は大菩薩峠事件後に切実なテーマとして浮上し、海外に革命の根拠地づくりをすることによって海外勢力から日本革命を支援してもらおうという、ある意味では逆説的な組織防衛論を目的とする内向きの思考転換なのであって、前衛的な革命運動家としての自負があるのであれば、そこに落ち込んではならないはずの「組織防衛の自己目的化」といった重大な陥穽にはまりかけていることに気づいていた者は少なかった。ブレーキのはずれた車を疾駆させるように、彼らは自己否定という大切なテーマをみずからに課してきながらも、武力革命に魂の刃を研ぎ澄まそうとするあまり自己正当化のアクセルにより深く足をかけていた。そのため内ゲバに走り、多くの友人や昨日まで同志だった者に死をもたらすまでの暴行をはたらくにいたったのだ。ただひとり、そのような組織論を突き抜けて、こととしだいによっては赤軍派を抜けてでも国際根拠地論を実践しようとしていたのが重信房子なのである。彼女はたとえ自分ひとりになろうとも、この道をつき進もうとしていた。
 街頭のあちらこちらでは、だれかれなしに職質や別件逮捕がおこなわれていたし、私服警官による暴行(「白色テロ」と彼らは呼んだ)が横行していた。ハイジャック事件を未然に防げなかったことから、壊滅作戦に血道をあげるようになった警察のプレッシャーは容赦ないもので、彼らは日夜尾行を気にしつつ、「闇の中の後退戦」とは名ばかりのみじめな退行劇に内心悲鳴をあげていたのではないかと思われる。
 しかし、それでも赤軍派に残った者は、自分たちの方針に露ほども疑いをもたなかった。重信房子自身、「もし我々が空想家のようだと言われるならば、救いがたい理想主義者だと言われるならば、できもしないことを考えていると言われるならば、何千回でも答えよう。そのとおりだ、と」というゲバラの言葉をわがものとして揺るぎない信念をもっていたし、非道な内ゲバが決行されたことを聞いて、「そんなの革命じゃない」と、その場に居合わせた赤軍派リーダーのひとりに泣き叫んで抗議した彼女にしても、革命の大義に殉ずる思いから、また救対責任者として、逮捕されたすべての同志たちへのただならぬ思いから、むしろ彼ら以上に「真面目で、明大闘争でも一貫して妥協を排し、徹底抗戦派で頑張っていた」(塩見孝也『赤軍派始末記』彩流社)のだ。
 赤軍派はブント関西派を母体として生まれている。とりわけ京都には、塩見孝也が頼りとするたかたいがいて、高瀬もまた京都府学連委員長時代、後輩の塩見を代行に置くほど彼を信頼していた。塩見は同じ京大の三名とともに赤軍派の政治局委員を構成しており、ことあるごとに高瀬とは連絡をとりあって支援を仰いでいたのだ。
 重信房子を奥平に会わせたのも高瀬ではないかと、奥平を知る数名から私は聞いているが、それは違うと重信本人は言う。奥平も一九七〇年の段階では、高瀬にたいして距離を置いていたと彼女は言うのだった。
 塩見は「前段階蜂起論」や「国際根拠地論」の提唱者とみられており、生前の彼に私もインタビューしているが、とりわけ重信に頼っていたのは活動資金の調達だったということを知った。彼はこのように言うのである。
「重信はオルグ能力とカンパ集めの能力に抜きん出ていた。赤軍派の活動資金の大半を重信が支えていた」
 私は北千住の先、荒川を渡った小菅にある東京拘置所に、何度目かの面会許可がおりて重信房子を訪ねたとき、毎月一〇〇万円以上の資金を赤軍派に納めていたと聞いているがほんとうか? と尋ねた。
 わずか一〇分の面会時間、その最後の最後、付き添いの女性刑務官は体を折り曲げることなく直立不動のまま、彼女の後頭部もこちらの顔も見ることなく腕時計を一瞥すると、機械仕掛けの人形がつぶやくような声で「時間です」と言った。促されて立ちあがった彼女の背中に、私はそのように問いかけると、ドアの向こう側に歩き出しながら、顔だけをこちらに軽やかにふり向かせて、
「ありえますね」
と言った。
 勤めていた銀座のクラブには、多くの文壇人や経済人がやって来た。貧しいながらしつけのよい家庭で育った彼女は、気がよくまわり、だれに臆することもなく明るく立ちふるまうことができた。背中までかかるストレートのロングヘアと美しい顔は、こうした気性のよさも手伝って人気を集めた。学生運動やベトナム反戦についても臆せず率直に語るので、いざなぎ景気にわが世の春を謳歌する客たちを魅了したのだ。
 彼女は協力してくれる文化人の友人たちなどからカンパを募り、公務員の初任給三六〇〇〇円、大卒の大手都市銀行員の初任給三九〇〇〇円、小学校教員の初任給三一九〇〇円(『値段史年表 明治・大正・昭和』週刊朝日編)のころに、目の玉が飛び出るようなたいそうな金額を、耳をそろえて毎月上納していたのである。
 塩見孝也をはじめとするリーダーたちは、自分たちで稼ぎ出すのではなかった。もっぱら重信房子、そして彼女の親友であった遠山美枝子に稼いでもらいながら、自分たちはアメリカに渡りブラックパンサー党などの革命勢力と合体し世界革命の端緒をひらこうじゃないか、などと大声で語りあっていたのだ。ウーマンリブという言いかたでジェンダー問題がさかんに語られ、日本国内でも一部の女性たちが女性解放運動をくりひろげていたが、赤軍派はそれにはいっこうに無頓着で、日本の男社会をそのまま体現していた。
 そして、彼女は京都にいるのだった。追いつめられた赤軍派の台所を背負い、国際根拠地論の新たな展開を胸に秘めていた。


「リッダ! 1972」アーカイヴ

髙山文彦(たかやま・ふみひこ)

1958年宮崎県高千穂町生まれ。法政大学文学部中退。1999年『火花 北条民雄の生涯』で第31回大宅壮一ノンフィクション賞と第22回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に『鬼降る森』『水平記』『エレクトラ』『どん底』『大津波を生きる』『宿命の子』『ふたり』などがある。

採れたて本!【デビュー#08】
こざわたまこ『教室のゴルディロックスゾーン』