【連載第3回】リッダ! 1972 髙山文彦
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上映運動が頓挫した一九六八年時点の東九条の人口は四一五六人。そのうち一〇三七人が朝鮮人をしめすと思われる外国人。ほんの十年ほどでこのように激増し、マッチ一本、たばこ一本の不始末から、山火事のような大火が連続するのはだれの目にも明らかだった。
京都市が本格的に東九条の実態調査に乗り出したのは、上映運動が頓挫したのと同じ一九六八年のことである。委託をうけて調査にあたった同志社大学・東九条実態調査研究会は、その報告書のなかで、
「東海道線によって中心部から遮断され鴨川の堤防によって隔離された低湿地帯=『東九条』は京都市西南部にひろがる工業地帯と中心部の消費的な商業・サービス業(典型は盛り場)地帯へのもっとも低廉な賃金労働者の供給源であり、同時に、大規模な生産と消費によって生み出され不要にされた大量の人間と物資の廃棄場所でもある」(『東九条実態調査報告書』一九六九年九月提出、傍点引用者)
と述べて、市長に提出する公式文書にしては珍しく感情のこもった書きぶり(傍点部)をしている。東九条は被差別部落民と在日朝鮮人が混住する地域であるが、朝鮮人がその「最低部分」をかたちづくっており、彼らの場合、「雇用における差別はいうまでもなく、国民金融公庫・国民健康保険制度・国民年金制度・公営住宅法などの基本的な社会的手段の利用から制度的にしめだされて」おり、「教育にしても当然の民族教育の門をせばめられ、日本の義務教育が『恩恵』として与えられている」として、難民か棄民のような扱いをうけている実態を報告している。
彼らのほとんどが日雇い、土工、屑買い、工場雑役で糊口をしのいでいた。健康保険などの社会保障は適用されないし、小中学校も義務教育ではなかった。しかし日本人である部落民には、それが認められている。生活保護こそ両者にはあったが、同じ地域に暮らしながら、両者のあいだにはそうした決定的な格差があり、いっぽうは部落民を羨ましがり、自己にたいする肯定感を見出せず、いっぽうは朝鮮人と自分は違うのだと口には出さなくとも思っている人びとが多数いた。
伝来の土地なんて日本の国土のどこにもない根なし草の民にしてみれば、もはやこの世でさえも比喩的にではなく切実な意味において仮の棲み処であるのかもしれず、とりわけ若い人たちには、いまより稼げる場所があればいつでもここを離れていこうという、いまの暮らしかたに頓着しない者が少なからずいた。
すでに、それは起きつつあった。新幹線や高速道路の工事などでたくさん稼いだ者のなかには、東九条を離れる者がかなりいたし、一九七〇年開催の大阪万博に向けてさまざまな工事もはじまろうとしていたのだ。
彼らには祭りもなく、民族の伝統をともに懐かしむ場所もなく、同じ境遇の者どうし助けあって困難を乗り越えていこうとする協同意識において、部落民にくらべると足りないものが多かった。たびかさなる火事が、努力しようとする心を灰に返してしまう。スラムがスラムであるところの所以とその象徴的現象を、彼らはいたるところで体現してみせていたのである。
いっぽう、明治の「解放令」があり、大正・昭和の全国水平社運動があり、戦後は部落解放運動によって鮮烈な歴史の記憶を積み重ねてきた部落民――彼らはすさまじい差別をうけながらも、強大な権力にたいしてさえも命がけで抵抗し、自分たちの伝統的協同社会を維持し、結束してきた人びとであった――にとっては、火事が起きても毛細血管のような路地の狭さから消防車すらはいってこられないこの巨大迷宮の解消は、切実で喫緊の課題であった。しかし、難民キャンプのようなその独特な成り立ちから、東九条は同和地区指定をうけられず、近代的な改良住宅が建った崇仁にくらべて、危険からの回避はいっこうにすすまなかった。
Y氏一家にあらわれているような、戦争中の強制疎開で移り住まわされた部落民にしてみれば、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と水平社宣言にうたわれた真情をみずからの真情として、人間共同体としての地域づくりをはかることこそ、思想信条をこえた心意気というものであったろう。それを一身に引きうけたような存在が、M氏であったように思われる。
しかし、この両者は、いま述べたような成り立ちとメンタリティの相違から、ひとつにまとまって行政に働きかけるような絆をいつまでも結べずにいた。M氏の荒ぶる理由のひとつが、そこにある。
そうしたなかで、彼の「前進会」には両者からあわせて二〇名ほどの青年が集まり、学生セツラーもこれに加わって、なんとか地域に意識変革をもたらそうと取り組んだのが自主映画の上映運動だったのである。これにはM氏の熱心なはたらきかけもあったのか、共産党支部や崇仁の部落解放同盟支部も実行委員会に名をつらねたが、いまやそれは宙に浮き、棚ざらしになってしまったのだ。
「一回だけや、上映したのは……」
Y氏の唇の端がいくらかつりあがり、苦笑いみたいになりかけて、すぐに真顔にもどったのを見て、私は、この人の一〇代のころの顔を思い描いてみようとした。
「ぼくもしばらく仲間とふたりで、鴨川の土手のバラックに住んでたことがあるねん。建築基準法なんて無視した住宅がひしめきあってる地域や。そこは東九条四カ町からも除外された地域で、行政が不法占拠とみなしてたところやねん。番地もなくて〝〇番地〟と呼ばれていたんやね。のちに松ノ木町四〇番地になるんやけど、行くあてもない人たちがバラックを建てて住んだんやね。ぼくら、ここの住宅改善運動に七〇年代から乗り出していくんやけど、バタ屋の居住地域もたくさんあったし、工場もあった。けど、全部火事でやられて平地になってもうた。バタ屋が廃品を集めてくる。寄せ場でいらんもんを燃やすわけや。煙草の火の不始末もある。コンロの消し忘れもある。からからに乾いた薄い木の板でできた家だらけ。四畳半一間か三畳二間のそうした小屋とか長屋なんて、一軒から出火して、強風が吹いてたら、鍛冶屋のフイゴと一緒やで」
この五歳下の、はじめてできた恋人に去られてまもない二重苦の少年のそばに、奥平剛士はいたのである。「不要にされた大量の人間と物資の廃棄場所」であるのかもしれぬ東九条の困難にくらべたら、学園闘争なんて子どもじみて見えたかもしれない。時計塔の上に籠城を決めた学生のためにコンクリをこねて小ぶりの城塞をつくってやったことも、そしてこれはまだ書いていなかったけれども、白衣姿で研究員を装い、機動隊のひしめく京大正門まえから安田安之とともに堂々と大量のガソリンをもち込み、それを中古のワゴン車に積み込んで正門を突破、大通りのど真ん中で炎上させたことも、彼にとっては朝飯まえの行動だったのではあるまいか。
こうしたエピソードについて、ほかの学生活動家が他人に誇らしく語るようには、彼はけっして語らなかった。大通り炎上の秘密のからくりを私が知り得たのは、当時京大に研究員として勤務していた香川晴男に聞いたからだ。香川もこの一件に当事者として深くかかわっていたのだ。