新刊『世界でいちばん弱い妖怪』収録▷「黄金人間」&表題作まるごとためし読み!
「ぼくの言うことを、絶対に誤解しないでよ。攻撃しちゃだめだよ! 妖術であなたを若返らせるには、ぼくがあなたを食べなくちゃいけないの」
「な、何だと?」
驚いた市長が一歩退くと、妖怪はあわてて話を続けた。
「違うの、違うの、違うの! 驚かないで! ぼくの妖術は、そうしないと発揮できないの。誤解しないで! 誤解しないでね! ほんと、ほんとだってば!」
「でたらめを言うな!」
「嘘じゃない! ぼくみたいに弱い妖怪が、嘘なんかつくものか。ほんとに、ほんとなんだよ。誤解しないで! いや、誤解してもいいけれど、殴るのだけはやめてね。攻撃しないで! 死にたくないよ。ぼく、ほんとに弱いんだってば!」
「ううむ……」
市長はいったん引き下がった。そしてテレビに出た妖怪は、一日にして世界最高の見世物になった。
ニュースはインターネットを通じて瞬時に世界中に広まり、妖怪を自分の目で見ようと、あちこちから見物人が押し寄せた。
誰もが、顔さえ合わせればそのバケモノについて話した。
「妖怪の言うことはほんとうみたいだ。あんな弱い妖怪が嘘をつくはずがないだろ」
「弱いふりをしてるだけじゃないかな」
「弱いふりをしたって、何もいいことはないだろう。人を食って逃げるとでもいうのか? 武装した兵士に包囲されて、あんなに大勢の人がいるのに?」
「ひょっとしたら、わざと人間を集めておいて、ごっそり食うつもりかもよ」
世界中でいろいろなことがささやかれた。一つ確かなのは、その妖術が、きわめて魅力的だということだった。
国家は妖怪をどう扱うべきか悩み、人々は妖怪が実際にそんな能力を持っているのかどうか知りたがった。
その時、一人の志願者が現れた。
「俺が食われてやる!」
六十代のホームレス、キム氏だ。彼は天涯孤独で、無一文だった。持っているものといえば、長いホームレス生活によって健康を害した身体がすべてだ。
「もしも若さを取り戻せたなら、人生をもう一度やり直したい。俺が食われてみる」
国も警察も彼を止めなかった。自殺幇助にもなりかねない行為だが、世界中の人たちから寄せられる好奇心には勝てなかったのだ。
「さあ! 俺を若返らせてみろ!」
妖怪の前に進み出たキム氏は、震えながら固く目を閉じた。
「わかった! でも、人間よ、絶対に驚かないでよ! 絶対に銃を撃っちゃいけない! ぼくは一発で死ぬんだから。絶対攻撃しないでね、絶対に!」
妖怪は念を押すと、大きな口をいっそう大きく開けた。長い舌がすぐに伸びてきて、キム氏にからみついた。
「うわあ!」
そしてすぐに口の中に入れた。
グニュッ! ポリポリ! コリッ! ペチャペチャ! ボリボリ! ベチャベチャ! バリバリ!
「ぎゃあ!!」
見物人が悲鳴を上げ、武装兵士は思わず銃口を向けた。
妖怪は、キム氏をよく噛んで食べた。
「ゲホ」
妖怪は、ああ、おいしかった、と言うみたいにゲップをした。
人々は呆然としていた。兵士たちは銃を撃つべきかどうか、真剣に悩んだ。
「ま、待って! ちょっと待ってね! ちょっとだけ!」
妖怪が顔をしかめて力み始めた。すると妖怪の後ろの、ただの壁みたいに見えていた所に肛門が現れた。
肛門から人間が排泄された。
「ごほっ! ごほっ! はあっ、はあっ、はあっ……あ、あれ?」
肛門から出てきたのは、まさに二十代の若者の姿をしたキム氏だった。
自分の身体を見たキム氏が驚いた。
「ほ、本当だ! 本当に若返った! 本当だった! 本当に、二十代の時の俺だ!」
まるで新しい身体をテストするかのように跳ね回るキム氏の姿は、人々の心を動かした。
「ほらね、ほんとだろ! ぼくの妖術は、もともとこうして使うものなんだよ」
キム氏が十分以上跳ね回っても何ともないのを見た人が、そっと前に進み出た。
「わ、私もやってもらえないかな?」
「いいよ、いくらでもやってあげる。だから人間よ、ぼくを攻撃しないで! 殴らないでね! 共存しようよ。人間よ、ぼくと共存しよう!」
かくして世界でいちばん弱い妖怪は、人間との共存に成功した。妖怪の前には人々の長い行列ができた。
当初、国家は妖怪を所有し、管理しようとした。しかし世界中から反発が起こったために、妖怪利用の機会はすべての人に開放された。
それだけでも国家は利益を得た。妖怪は山から動くことができなかったので世界中から妖怪を見たいという人が押し寄せ、その観光収入で経済がずいぶん潤ったのだ。
山の周辺の土地価格は、世界の不動産の歴史上、前例がないほど急騰した。
妖怪は、先着順で誰でも利用できる。ただし、一人の人が列に並ぶことができるのは一生に一度だけだ。
一生に一度の若返りのチャンスを捨てる代わりに、待機番号が書かれた整理券を売って巨額の金銭を得る人もいた。
利用する本人が来て申し込まないといけないはずなのに、整理券はいつしか商品となった。
家族全員でやって来て赤ん坊まで順番待ちに登録させ、その整理券を売ってもうけようとする人が出てきた。整理券の売買を仲介する会社も設立された。
妖怪ひとりが全世界にとてつもない影響力を及ぼしていた。妖怪が言っていた、妖怪と人類全体の共存が、確かに成し遂げられたのだ。
ところが、約一万人が青春を取り戻した頃、事故が起こった。
『世界でいちばん弱い妖怪』
著/キム・ドンシク 訳/吉川 凪
キム・ドンシク
1985年京畿道城南生まれ、釜山育ち。中学校を1年で辞め(後に検定試験を受けて高卒の資格を取得)、職を転々とした後、06年からソウルの鋳物工場で働く。16年から始めたネットサイトへの投稿がきっかけで注目を浴び、17年12月に超短編集『灰色人間』『世界でいちばん弱い妖怪』『十三日のキム・ナム』3冊が同時刊行。同シリーズは21年3月、全10巻が完結した。これまで実際に書いた作品は約900編にのぼる。
吉川 凪(よしかわ・なぎ)
大阪生まれ。仁荷大学国文科大学院で韓国近代文学専攻。文学博士。著書に『朝鮮最初のモダニスト鄭芝溶』『京城のダダ、東京のダダ──高漢容と仲間たち』、訳書としてチョン・セラン『アンダー・サンダー・テンダー』、チョン・ソヨン『となりのヨンヒさん』、崔仁勲『広場』、李清俊『うわさの壁』、キム・ヘスン『死の自叙伝』、朴景利『完全版 土地』などがある。金英夏『殺人者の記憶法』で第四回日本翻訳大賞受賞。