こざわたまこ『教室のゴルディロックスゾーン』最初の1篇(+α)まるごとためし読み!

『教室のゴルディロックスゾーン』ためし読みバナー

 トトというのは、私が幼い頃から姉弟きょうだい同然に育ってきた犬の名前だ。私にとってトトはよき理解者で、ペットというより家族であり、なんでも話せる友人でもあり、この世でたったひとりの相棒みたいな存在でもある。私達の出会いは、今からちょうど八年前。母が亡くなり、父さんと私、父娘おやこ二人の生活が始まって一年が過ぎた頃のことだった。

 母は、私が四歳の時にがんでこの世を去った。職場の定期健診がきっかけで腸にいくつかのポリープが見つかり、病名が発覚してからはあっという間だったらしい。病気がわかる前、父さんは何かにつけて「腰が痛い」とマッサージをせがんでくる母を、お互い年だなと笑い飛ばしていたそうだ。まさか、自分より早く妻が先立つなんて考えてもいなかったのだろう。父さんはその時のことをずっと悔やんでいて、なんなら今も、母さんが早くに亡くなった原因は自分にある、と思っているみたいだ。もちろん、そんなわけはないのだけど。

 父さんは当時、大手電機メーカーの子会社でシステムエンジニアとして働いていた。母が亡くなったのは、自身が立ち上げから関わっていたという大きなプロジェクトの責任者に抜擢ばってきされたタイミングでもあったらしい。あの頃、父さんが荒れたリビングで一人、缶ビール片手に考え事をしている姿をよく見かけた。職場でのプレッシャーはもちろん、毎日の食事作りに保育園の送り迎え、床にたまっていく洗濯物の山。シンクに積まれた汚れた食器と、油の浮いた洗い桶。私の前であまりそういう素振そぶりは見せなかったけど、父さんも父さんでかなり参っていたのだと思う。

 そんなある日、たまたま出張で近くに寄ったから、という理由で、父さんの大学時代の友人が母に線香をあげに来てくれた。もちろんたまたまというのは嘘で、母の告別式の知らせ以降、連絡が途絶えがちになっていた父さんをずっと気にかけてくれていたらしい。その友人が帰り際、父さんにぽろっとこんなことを話した。

『そういえば今、知り合いが保護犬の里親を探してるんだけど。もし周りに興味ありそうな人がいたら、俺に連絡くれよ』

 実家で飼い猫を亡くして以来、二度と動物は飼わないと決めていたはずの父さんに、どんな心境の変化があったのかはわからない。まずは見学だけでも、と言われて訪れた譲渡センターからの帰り道、一人電車に揺られながら、その時にはすでにトトを引き取ることを決めていたそうだ。それから間もなく、父さんは「家族との時間を大切にしたい」という理由で会社に異動願を提出した。

『依子、今日から家族がひとり増えるぞ』

 父さんのその一言をきっかけに、トトは高橋家の一員となった。父さんは現在、メーカーの関連会社に出向し、社内システムの運営や管理を請け負う部署に勤めている。部署が変わってからは、休日出勤や出張の回数ががくんと減って、週の半分はきっかり五時半に仕事を終えて家に帰ってくるようになった。

『急に触っちゃだめだぞ、やさしくしてあげなさい』

 トトが初めて我が家にやってきた夜のこと。恐る恐るトトの口元に手を伸ばすと、思ったよりも生温かくてざらついた舌が指先をぺろりとめた。体を覆う真っ黒な毛並みがつやつやとして美しい。首の周りに手を回すと、つぶらな瞳が私をじっと見つめた。トトは雑種の中型犬で、右耳がしおれたアサガオのつぼみのようにくてんと横に折れていた。ミックス犬にはよくあることらしいけど、それもなかなか引き取り手が見つからなかった理由のひとつらしい。

 その夜、父さんが私にこんなことを教えてくれた。

『この子には元々、兄弟がいたみたいなんだ。今はひとりぼっちだけど……。だから、依子がこの子のお姉さんになってあげないとな』

 それから一ヶ月もしないうちに、トトは私の後ろをついて回るようになった。私が名前を呼んだだけで、きゃうんきゃうんとうれしそうに尻尾を振る。どこに行くにも、どこで過ごすにも、私達は一緒だった。ちなみに、トトの名付け親は私だ。私はその頃「弟」という言葉がうまく言えなくて、まだ名前のついていなかったトトのことをトット、トト、と呼んでいた。それを聞いているうちに、父さんもいつのまにかトトをトトと呼ぶのが当たり前になっていたそうだ。

 私が小学校に入学して間もなく、ちょっとした事件があった。当時、私は同じクラスの男子達に目をつけられて、嫌がらせを受けていた。机に悪口を書かれたり、文房具を隠されたり。毎朝起きるたびに、学校に行くのが憂鬱でたまらなかった。下校途中にその子達と出くわし、しつこく追いかけ回されたことがある。なんとか自分の家まで辿り着き、鍵を回したところで、リーダーの男の子につかまりランドセルを引っ張られた。絶体絶命のピンチに、私は心の中で「トト助けて」と叫んだ。すると、トトが玄関から飛び出してきて、私を助けてくれたのだ。その子は余程犬が苦手だったのか、半泣きになってトトから逃げ回り、それから二度と私にちょっかいをかけてくることはなかった。

 その時、わかった。たとえ言葉が通じなくても、トトと私は心が通じているんだって。以心伝心というやつだ。私にとっては、クラスメイトと会話するよりもトトとコミュニケーションをとることの方がずっとたやすい。私にはトトがおなかかせている時、何かを怖がっている時、喜んでいる時が手に取るようにわかった。私が落ち込んでいる時、家の中でいちばん最初に気にかけてくれるのもトトだった。何も言わずに寄り添ってくれて、私が泣き止むまでそばにいてくれる。

 そんなトトも、今年で十三歳を迎えた。人間でいったら、もう立派なおじいちゃんだ。昔は玄関まで走ってきて私に「いってらっしゃい」を言ってくれたのに、ここ数年は立ち上がるのも億劫おっくうそうにしている。ふさふさの毛並みはおなかも背中もすっかり薄くなって、大好物のキャベツの芯も途中で吐き出してしまうことが増えた。

 でも、悪いことばかりじゃない。トトの体が動かなくなってから、私達はトトのテレパシー能力を使って言葉が交わせるようになった。家にいても学校にいても、どれだけ距離が離れていても、好きな時にトトとお喋りできるのだ。

 どうして最初からこうしてくれなかったの、と言ったら、トトは笑ってこう答えた。テレパシーなら、最初からずっと送っていたよ。

『依子が気づかなかっただけさ。人間ってのは、鈍感な生き物だからね。それに、楽しみは最後までとっておいた方がいいだろう?』

 

***



【6月28日発売!】

 

『教室のゴルディロックスゾーン』
こざわたまこ


こざわたまこ
1986年福島県生まれ。専修大学文学部卒。2012年「僕の災い」で「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞。同作を収録した『負け逃げ』でデビュー。その他の著書に『仕事は2番』『君には、言えない』(文庫化にあたり『君に言えなかったこと』から改題)がある。

ニホンゴ「再定義」 第4回「呪う」
辻堂ゆめ「辻堂ホームズ子育て事件簿」第27回「夫婦は仕事のパートナー その2」