連載[担当編集者だけが知っている名作・作家秘話] 第36話 五木寛之さんと日航機事故

連載[担当編集者だけが知っている名作・作家秘話] 第36話 五木寛之さんと日航機事故

名作誕生の裏には秘話あり。担当編集と作家の間には、作品誕生まで実に様々なドラマがあります。一般読者には知られていない、作家の素顔が垣間見える裏話などをお伝えする連載の第36回目です。今回は、直木賞のほか吉川英治文学賞など数々の文学賞受賞作家であり、人生や精神世界の奥深さを描いた作品で知られる、五木寛之さんとのエピソード。担当編集者だけが知る秘話に注目です。


 私は、1968(昭和43)年に、「小説現代」編集部に配属になって、編集者生活をスタートしたのであるが、いまになって、つらつら思い巡らせると、実物の作家を生まれてはじめて見たのは、五木寛之さんだ。

 五木さんは、1966(昭和41)年に、『さらばモスクワ愚連隊』で、「小説現代」新人賞を受賞する。その作品がそのまま、同年上期の直木賞の候補作となり、さすがに受賞は逸するが、その年の下期に『蒼ざめた馬を見よ』で受賞した。

 私は配属されたものの、担当作家もいなくて、編集部にいることが仕事みたいなものだった。そのころは、五木さんにも、まだ時間的に余裕があったのだろう、編集部を訪ねて来たことがあった。編集長と担当者と話をしていた。そのときの五木さんは、駆け出しの私には、輝いて見えた。

連載[担当編集者だけが知っている名作・作家秘話] 第36話 五木寛之さんと日航機事故 写真

 私は、「ああ、直木賞を受賞したばかりの作家は、他を圧倒するかのように輝いているんだ」と感動を覚えたものだ。

 それから一年ほど経って、私は野坂昭如さんを担当することになり、五木さんを担当することはなかった。

「対論」と名付けられた、五木寛之さんと野坂昭如さんの連載対談が、「話の特集」誌の1970年1月号からはじまった。「話の特集」は、イラストレーターの和田誠さんと、編集長の矢崎泰久さんとの二人三脚で、新しい才能を開拓する独特の編集方針が特徴で、私なども目が離せない雑誌だった。

「対論」のテーマは、五木さんと野坂さんのふたりがその場で決めるスタイルで、「青春」「家庭」「服装」「金銭」「雑誌」「自殺」「友情」「酒場」「日本脱出」「スキャンダル」「軍隊」「安楽死」という、刺激的な12のテーマが語られ、1971年7月に、ソフト・カバーで講談社から出版された。

 その帯に、

「70年代に照準をさだめ全力をふりしぼって対論する焼跡闇市派対外地引揚派。対峙する好敵手であり同志である二人の状況的人生論!」

 と書かれている。まことに当を得た惹句で、五木寛之=外地引揚派対野坂昭如=焼跡闇市派が交わす激論には興奮させられた。

 野坂さんが、あるとき、私に、

「五木の本は本当に売れるんだねえ。『対論』の重版通知が、毎週、届くんだ」

 と、呆れたような顔をした。ベストセラー作家になっていた五木さんの本は、どれも、それほど売れたわけだ。

 対談の構成と司会を務めた矢崎さんが、私に、そのときの様子を、次のように言ったことがある。

「ふたりは絶対に顔を合わせようとしないんだ。ふたりとも、話すときは、僕の方に向いて話すんだよ」

 この言葉は、ふたりがまったくタイプの違う作家であり、好敵手だったことをよく表している。しかし、いつも「五木・野坂」と並んで呼ばれるほど、ふたりは同志でもあったわけである。

 

 このころの小説雑誌に掲載される、いわゆる昭和ヒトケタ生まれの五木さんや野坂さんたちの作家の作品に、純文学誌の評論家も目を通さざるを得なくなっていた。たとえば、純文学誌「群像」の評論部門の新人賞を、「小林秀雄」論で受賞した秋山駿さんも、同世代の五木さんや野坂さんの作品を無視しているわけにはいかなかったのである。

 そういう風潮の中、時代のトリック・スターとして動き回る野坂さんを、私は担当者として追いかけているうち、五木さんと顔を合わせることがたびたびあった。五木さんは、そんな私を見て、

「また野坂かい? 大変だね」

 と声をかけてくれることがあった。私は、五木さんを担当はしなかったが、同時代的なつながりを深く感じていた。

 乗客乗員524名を乗せた日本航空123便墜落事故が1985(昭和60)8月12日(月)夕方18時56分過ぎに、群馬県多野郡の高天原山の尾根に墜落した。520名の犠牲者を出す、史上最悪の事故と報じられた。今年、2025(令和7)年は、事故から40年目である。

 毎年8月が巡ってきて、この事故が取り沙汰されると、私は、いつも、この事故があった夜を、ある種の感慨をもって思い出す。

 と言うのも、1985年1月に、「小説現代」の編集長になった私は、日航機墜落事故があった8月12日の夕方から、校閲部が、五木さんの長篇小説『メルセデスの伝説』のゲラ校正を終えるのを待っていたからだ。

 台割作成や印刷所との連絡などを担当している副編集長と私は、櫛の歯が抜けるようにまばらになってきた局の部屋に、五木さんの担当者の校了ゲラを待つ以外にすることもなく、ぼんやりと待っていた。

 ちなみに、台割とは、毎号の雑誌の、どのページにどの原稿を入れるかなどを示した設計図のようなもので、台割表に描かれる。

『メルセデスの伝説』は、10月号から12月号にわたって連載した。第二次世界大戦の最中、ヒトラーがダイムラー・ベンツ社のシュツットガルトの工場に通い、指示を与えて作り上げた新しい大型車のグロッサーをめぐる物語である。

 ヒトラーはこの新型グロッサーを、ソ連のスターリンや、イタリアのムッソリーニなど、友好国や同盟国の指導者たちにプレゼントした。

 そして、日本の天皇にも特別仕様のグロッサー、いわゆる〈陛下のグロッサー〉を贈った。

 敗戦後、このヒトラーから贈られた〈陛下のグロッサー〉が、国内に存在することは、占領軍が皇室を非難する材料となる可能性があった。

 この〈陛下のグロッサー〉をめぐって、満州の麻薬事業で巨大な財を成した日本人の黒幕、ユダヤ人のフィクサー、劇作家、放送プロデューサー、商社マンなどがそれぞれの思惑を持って葛藤がはじまる。

 

 五木さんは、若い頃から車にとても興味を持っていて、『疾れ! 逆ハンぐれん隊』『雨の日には車をみがいて』など、車が主人公と言ってもいい小説を書き、たとえば、1984年に書いた『風の王国』では、NATOがダイムラー・ベンツ社に開発させたという、ベンツゲレンデ・ヴァーゲンを出すなど、小説の中で、登場人物の性格にあった車を多く登場させている。

『メルセデスの伝説』は、メルセデスの特別仕様車、新型グロッサーをめぐる物語であるが、物語全体に、エンジンの響きが聞こえてくるような描写が素晴らしい。

 少し長くなるが、ヒトラー特注の新型グロッサーが動き出すところを引用してみる。

 鳥井はエンジンを静かにアイドリングさせたまま、頭の中でグロッサーの防御力を思い返した。

 車体ボディをおおっている鋼板は、ヒトラー自らがドイツ軍戦車の装甲をとり入れて採用したものだ。しかも、あらゆる軍用拳銃や機関銃でのテストがくり返されている。

(略)

 彼はクラッチをつないだ。後輪が鋭い悲鳴をあげ、5・6トンの巨体は白鯨はくげいのように身を沈めて発進した。フロント・グラスの前方で銃口が火を噴き、男たちの顔が大きく迫った。ショット・ガンの散弾がポンプの水のように車体を叩いた。逃げおくれた男がボンネットに叩きつけられ、宙に舞うのが見えた。短機関銃の掃射そうしゃがサイド・ウインドウに白い点線を残した。数百発の銃弾が〈銀のメルセデス〉に集中する。火花と、銃声と、直撃音と、エンジンの轟音がグロッサーを包んだ。

 だが、グロッサーはそれらの銃火を嘲笑うように、平然と広場を通過した。タイヤに当たった9ミリ弾は、はじきとばされて地上に転った。乱射される銃弾の中を、〈銀のメルセデス〉は一気に加速した。スーパー・チャージャーの、魔女のサイレンのような叫び声を残して、グロッサーは銀色の戦車さながらに闇の中へ驀進した。

 この魅力的で壮大な物語の第一回目のゲラ校正を待ちながら、夜が更けて行った。行方不明になった日航機のことは、新しい情報が入らなくなったのか、編集部に置いてあるテレビは、日航機事故のことには触れなくなった。あるテレビ局は、仕方なく、薄暗くなった記者室の光景を流すだけだった。

 その虚しいような画面を見ながら、ゲラが上がってくるのを待っている時間と、行方不明になった日航機の乗客たちの運命を思う時間がシンクロして、流れていった。私が、8月12日が巡って来るたび、ある種の感慨を持つというのは、そのときの時間の流れを思い出すからである。

 私たちは明け方近く、『メルセデスの伝説』の校了を終えた。いいものを校了にしたという興奮で体がほてっていた。

 

 歴史的事実をもとにしたフィクションである『メルセデスの伝説』は、3回の連載で完結した。そして、1985年11月に、単行本として出版された。そのあとがきの中の謝辞に、私の名前があるのを見て、感謝するべきは、いい作品を掲載できた私の方だと思った。

 2015年に野坂さんが亡くなった。青山斎場で行われた葬儀に、五木さんに弔辞を頼むことになった。私は、五木さんのマネージメントを引き受けている「文芸企画」に電話を入れて、そのことを頼んだ。五木さんは快諾してくれ、好敵手で同志だった野坂さんを送るにふさわしい素晴らしい弔辞を捧げてくれた。のちに「文芸企画」から、「五木が、宮田さんから頼まれたんでは、断るわけにはいかないと言ってました」と聞かされた。私にとって、これ以上の言葉はない。

【著者プロフィール】

宮田 昭宏
Akihiro Miyata

国際基督教大学卒業後、1968年、講談社入社。小説誌「小説現代」編集部に配属。池波正太郎、山口瞳、野坂昭如、長部日出雄、田中小実昌などを担当。1974年に純文学誌「群像」編集部に異動。林京子『ギヤマン・ビードロ』、吉行淳之介『夕暮れまで』、開高健『黄昏の力』、三浦哲郎『おろおろ草子』などに関わる。1979年「群像」新人賞に応募した村上春樹に出会う。1983年、文庫PR誌「イン☆ポケット」を創刊。安部譲二の処女小説「塀の中のプレイボール」を掲載。1985年、編集長として「小説現代」に戻り、常盤新平『遠いアメリカ』、阿部牧郎『それぞれの終楽章』の直木賞受賞に関わる。2016年から配信開始した『山口瞳 電子全集』では監修者を務める。

嶽本野ばら『天橋立物語 三年菊組ロリィタ先生』
森 絵都さん『デモクラシーのいろは』*PickUPインタビュー*