連載第40回 「映像と小説のあいだ」 春日太一

小説を原作にした映画やテレビドラマが成功した場合、「原作/原作者の力」として語られることが多い。
もちろん、原作がゼロから作品世界を生み出したのだから、その力が大きいことには違いない。
ただ一方で、映画やテレビドラマを先に観てから原作を読んだ際に気づくことがある。劇中で大きなインパクトを与えたセリフ、物語展開、登場人物が原作には描かれていない──!
それらは実は、原作から脚色する際に脚本家たちが創作したものだった。
本連載では、そうした見落とされがちな「脚色における創作」に着目しながら、作品の魅力を掘り下げていく。
『忍びの者』
(1962年/原作:村山知義/脚色:高岩肇/監督:山本薩夫/配給:大映)
「忍者とはいったい何のために生きているのじゃ。わしはこの頃、忍者の空しさがしみじみと身に沁みるようになった」
戦国末期の伊賀を舞台に、織田信長暗殺を狙う忍者たちの姿を描いた村山知義の時代小説は、1962年に映画化された。小説においても、映画においても、本作は重要な転換点となった作品だ。これまで奇想天外な忍術を駆使して活躍するヒーローとして描かれてきた忍者を、非情な掟に縛られながら困難な任務に命を捨てて立ち向かっていくリアルな存在として描き、以降の忍者モノのあり方を一変させた。忍者の駆使する術も、実際に使われた忍術が用いられている。
ここでの忍者組織には上忍・中忍・下忍というヒエラルキーがあり、上意下達が徹底されている。そして、下忍たちはそれぞれに際立った能力を身につけていながら、ただ上忍から命ぜられるまま働き、名誉も金も得られることなく、貧しいまま空しく命を落としていく。上の人間の思惑に従い、ひたすら利用されるだけ──。そんな下忍たちの悲劇を描いた原作は、「しんぶん赤旗」日曜版の連載だけあり、「資本家に搾取される労働者」というマルクス主義的な階級闘争史観を忍者世界に持ち込んだ図式になっている。これを映画化したのも左翼性の強い山本薩夫なだけに、映画版もその構図は基本的には変わらない。
物語の基本展開も同じだ。信長の暴虐を腹に据えかねた伊賀の上忍・百地三太夫は下忍たちに命じて暗殺を企てるも上手くいかない。信長の伊賀粛清が迫る中、三太夫は自身の妻を下忍の石川五右衛門と密通させ、さらに五右衛門が妻を死なせてしまったことで彼を責める。そして、五右衛門を意のままに操り、軍資金集めのために泥棒させた挙句に信長暗殺へと仕向けていく。
ただ、いくつかの点で脚色が施されている。
まず、原作の前半は五右衛門(市川雷蔵)の出番はほとんどない。伊賀の忍びたちの群像劇となっており、また時代背景や忍術の蘊蓄も詳しく述べられている。
だが、映画はそうはいかない。長編小説を104分に詰め込んでいるからだ。そのため脚色では、時代背景や各大名の動静に加え、忍術の解説や伊賀の人物関係など、状況説明的な箇所をできるだけカット。五右衛門のドラマと信長(城健三朗=若山富三郎)暗殺周辺のエピソードを軸に据え、インパクトある場面を次々と並べた娯楽性の強い内容になっている。忍者たちの闘争、三太夫(伊藤雄之助)の暗躍、信長らによる拷問、情事、そして合戦──ダレる場を入れることなく、目まぐるしく濃厚な場面が連続する。
また、時代設定を少しだけ変えたことも、娯楽性を高める上で効果的になっている。
原作は、まだ信玄も謙信も存命中な時期に始まる。つまり、信長は包囲網の真っただ中にあって、危機的な状況なのだ。そうした中で越前の大名・朝倉義景が重要人物として信長と対峙し、これに伊賀忍者たちが関わっていく。
それに対して映画は、冒頭でいきなり朝倉は滅亡。いよいよ信長の天下取りが現実味を帯びてきたところからスタートしているのだ。そのため、信長はより強大な敵として伊賀忍者たちの前に立ちはだかることになり、暗殺のミッションがよりスリリングなものになった。
また、三太夫による五右衛門の父の殺害や、敵対勢力の頭領である藤林長門守と三太夫とが実は同一人物といった真相の扱いも異なる。原作では五右衛門は早くから勘づいている一方、映画は「衝撃の事実」として五右衛門の前に提示されることになる。この辺りも、結果的に娯楽性を高める構成といえる。
だからといって、映画が原作のテーマ性を完全に消して娯楽性一辺倒の脚色をしているということではない。むしろ、映画の方がテーマ性はよりハッキリと伝わってくる。
原作は、じっくりとページ数を使って描写を重ねながら、忍者の過酷な宿命を浮かび上がらせる。だが、映画にはその時間はない。それでも、原作に込められた忍者の過酷さ、理不尽さ、そして空しさはきちんと伝えたい。
そこで採られた手法が、よりストレートな描写やセリフによる表現だった。これなら、時間をかけずにわかりやすく伝えることができる。
それが端的に表れているのが、五右衛門のライバル的な存在である藤林党の忍者・木猿(西村晃)の死の場面だ。
原作では信長暗殺に失敗した木猿は、壮絶な自害を遂げている。それを知った五右衛門は「ふーむ。木猿も死んだか」とため息つくのみ。その後すぐに信長暗殺のミッションに戻る。それに対して映画では、五右衛門が壮絶な決闘の末に討ち果たしている。これだけなら、娯楽性を強化しただけの脚色だ。が、そうではないのだ。
物語の序盤、五右衛門の父親(水原浩一)は、五右衛門に冒頭に挙げたセリフを漏らしている。これは原作には出てこない、映画オリジナルのセリフだ。かなりストレートに、この作品のテーマが込められている。ただ、この段階ではまだ五右衛門は三太夫を信じているため、父の言葉が全く理解できない。そんな五右衛門に、父はこう続ける。「どこか静かな所でひっそりと暮らしたい」だが、それは叶うことなく、父は三太夫に殺される。
そして、木猿の無残な死に顔を思い出した五右衛門の心に浮かんできたのが、この冒頭に挙げた父のセリフだったのだ。その言葉が木猿の死に顔と重なったことで、父と同じく忍者の空しさや理不尽さを、五右衛門もまた痛感した。
この後、五右衛門は父の夢を追うように、入魂の間柄になっていた遊女のマキ(藤村志保)に「どこか静かな所で、二人きりで暮らすんだ」と持ちかける。原作でも五右衛門はマキとの関係に心の安寧を求めたが、このようなストレートな告白まではしていない。父のセリフはテーマ性を端的に伝えると同時に、ドラマチックな盛り上がりを演出する効果ももたらしたのだ。
【執筆者プロフィール】
春日太一(かすが・たいち)
1977年東京都生まれ。時代劇・映画史研究家。日本大学大学院博士後期課程修了。著書に『天才 勝進太郎』(文春新書)、『時代劇は死なず! 完全版 京都太秦の「職人」たち』(河出文庫)、『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』(文春文庫)、『役者は一日にしてならず』『すべての道は役者に通ず』(小学館)、『時代劇入門』(角川新書)、『日本の戦争映画』(文春新書)、『時代劇聖地巡礼 関西ディープ編』(ミシマ社)ほか。最新刊として『鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』(文藝春秋)がある。この作品で第55回大宅壮一ノンフィクション大賞(2024年)を受賞。





