連載第41回 「映像と小説のあいだ」 春日太一

小説を原作にした映画やテレビドラマが成功した場合、「原作/原作者の力」として語られることが多い。
もちろん、原作がゼロから作品世界を生み出したのだから、その力が大きいことには違いない。
ただ一方で、映画やテレビドラマを先に観てから原作を読んだ際に気づくことがある。劇中で大きなインパクトを与えたセリフ、物語展開、登場人物が原作には描かれていない──!
それらは実は、原作から脚色する際に脚本家たちが創作したものだった。
本連載では、そうした見落とされがちな「脚色における創作」に着目しながら、作品の魅力を掘り下げていく。
『羊たちの沈黙』
(1991年/原作:トマス・ハリス/脚色:テッド・タリー/監督:ジョナサン・デミ/配給:オライオン・ピクチャーズ)
〝I’m having an old friend for dinner.〟(吹き替え版訳:これから古い友人を夕食に……)
FBI訓練生のクラリスは、かつての恩師で捜査官のクロフォードから、ハンニバル・レクター博士の尋問を頼まれる。レクターは優秀な心理学者であったが、次々と人を殺してはその屍肉を食していたために逮捕され、今は精神病院の地下にある独房で、厳重監視の下に収監されていた。利発で気丈でありながら心の奥に何か陰を宿したクラリスを気に入ったレクターは、「バッファロー・ビル」事件の協力を申し出る。
女性たちを殺しては生皮を剥がして放置する連続殺人犯「バッファロー・ビル」が世間を騒然とさせており、クロフォードもその捜査に追われていた。これは、クラリスにとっても出世のチャンスになる。クラリスが自身の過去を話せば、それと交換で犯人のヒントを与える。それがレクターの条件だった。クラリスはこれを呑み、レクターに対峙しながら真相に近づいていく──。
原作小説は上下巻の長編だ。映画はそれをほぼ同じ物語展開のまま120分弱にまとめていながら、急ぎ足の感じも登場人物やドラマの掘り下げの甘さも全くない。見事な脚色といえる。
それは、作品の魅力を成す核がどこにあるかを把握した上で、それ以外の部分を思い切ってカットしたからに他ならない。
カットされたのは、訓練生としてのクラリスの日常や葛藤、事件捜査の詳細、クロフォードとクラリスの関係性、クロフォードの抱える家庭の事情、ビルに娘を拐われた上院議員とクラリスの対立……等。一方、ほぼそのまま残ったのが、レクター(アンソニー・ホプキンス)とクラリス(ジョディ・フォスター)のドラマだった。
やり取り自体は原作にやや比べて短くなっているものの、緊張感に満ちた心理戦を経て奇妙な信頼関係を形成していく過程は、全く損なわれることなく描かれている。この二人の織り成す緊迫した応酬こそが魅力の核であるため、かなり原作を刈り込むことになっても内容が薄くならなかったのである。むしろ、クラリスのクロフォード(スコット・グレン)への憧れや、クラリスが周囲の男性たちにことごとく好かれる……といった箇所がほぼ削られたことで、クラリスとレクターの関係性が原作以上に焦点が絞り込まれ、二人の空間はより濃密な印象をもたらすことになった。
一方で、ただ原作をなぞるだけではない、映像作品ならではの魅力も付け加えられている。
それは、特に終盤に際立つ。事件が大詰めに迫る中、クラリスとクロフォードはそれぞれレクターの言葉を手がかりにして真相へ近づいていく。クラリスは単独行動で捜査する中で真犯人に行き当たる一方、クロフォードは強行班を率いて犯人の家へ向かう。だが、クロフォードの判断は誤りだった。彼が向かった先には、犯人はいなかったのだ。クラリスはたった一人で犯人と対峙するしかなくなる。
この展開は、原作も映画も同じだ。だが、描かれ方が異なる。
原作では、クラリスの動きのみ追っており、クロフォードの動きは詳細に書かれていない。あくまで、報告という形により口頭でクラリスに伝えられるのみ。そのため、クラリスだけが真犯人にたどり着くのだろうと読者もある程度の覚悟ができている。
が、映画はそうではない。両者がそれぞれの家を向かう様子が、同時進行で映し出される。しかも、クロフォード側は犯人を逮捕する気満々での強襲が詳細に描かれる一方、クラリスはその段階では実はまだ犯人を特定するに至っていない。捜査の流れでたまたまたどり着いた家が、真犯人の家だったのだ。緊迫感が漂うのは、クロフォード側のみ。そのため、クラリス自身はもちろん観客にも油断がある。巧みなミスリードだ。
そして、そうと知らずにクラリスが犯人に出くわす裏でクロフォードたちの空振り。これが同時に起きることで、観客は一気に不穏の真っ只中に突き落とされる。クロフォードの「クラリス……」というセリフとともに、クラリスの絶体絶命が突如としてやってきたことが示される。このサプライズ演出により、応援の来ない孤立無援の中で凶暴な犯人に立ち向かうしかないクラリスの危機感は、絶望的なまでに強調されることになった。
これは、異なる場所で起きている二つの事象をカットバックによって同時進行で伝えられる、映像ならではの手法だ。文字媒体では、この同時進行によるサプライズを表現できない。そこを上手く利用して、クライマックスの盛り上がりを作り上げたのだ。
また、最終盤でのレクターのキャラクターにも違いがある。
原作では、レクターが殺害した患者女性の恋人が犯人という設定になっている。そのためレクターは事前に彼女から男の奇行を聞いており、だから犯人の目星がついたというオチがある。一方、映画はそうした背景をカットしているため、レクターは自身のプロファイルのみで犯人に行き着いている。その知性はまさに常人では及びのつかぬ域。さらなるカリスマ性が宿ることになった。
また、ラストのレクターの言動も異なる。これまでレクターやクラリスを邪魔して苛んできた精神病院のチルトン院長(アンソニー・ヒールド)への殺害予告をする展開は同じだ。その方法が違う。
原作のレクターは「近々あんたを訪問するからな、という趣旨の手紙」を送るという、直接的な手段でチルトンを脅している。それに対し、映画でのレクターは最後にクラリスに電話をしている。そこで伝えたのが、冒頭に挙げたセリフだ。
通常なら〝I’m having dinner with an old friend .〟──つまり「古い友人と夕食をする」となるはず。そのため、このセリフは何気ない言い間違いだと思うところだ。が、言っているのは他ならぬレクター。そう見せかけて、文字通り「古い友人を夕食にする」という取り方もできる、残酷かつユーモアに富んだ表現になっている。
レクターの残酷さと教養を感じせる一言であると同時に、ヒルトンを視界の先に捕らえるレクターの姿で終幕させることで「古い友人」が誰を指すのかを暗示、この上なく不穏な余韻を残すことになった。
【執筆者プロフィール】
春日太一(かすが・たいち)
1977年東京都生まれ。時代劇・映画史研究家。日本大学大学院博士後期課程修了。著書に『天才 勝進太郎』(文春新書)、『時代劇は死なず! 完全版 京都太秦の「職人」たち』(河出文庫)、『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』(文春文庫)、『役者は一日にしてならず』『すべての道は役者に通ず』(小学館)、『時代劇入門』(角川新書)、『日本の戦争映画』(文春新書)、『時代劇聖地巡礼 関西ディープ編』(ミシマ社)ほか。最新刊として『鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』(文藝春秋)がある。この作品で第55回大宅壮一ノンフィクション大賞(2024年)を受賞。





